茶屋二郎 遠く永い夢 上  −本能寺 信長謀殺の真実− 目 次(上)  起の巻   待 庵   阿弥陀ヶ峰   奔 流   佐和山   無 道   江戸へ   決 意   東 進   上 坂   人 質   覚 悟   火 炎  承の巻   米 俵   上月城   鬼ケ嶽城   摂津の国   バテレン   対 決   海 戦   春の恋   逃 亡   長 浜   狂 気   嫉 妬   馬ぞろえ   中国攻め   鳥取城   御幸の間   年賀の会   武田自刃   高松攻め   焦 燥   上 洛   謀 反   思 案   本能寺前夜   連歌興行   本 心   人生五十年  主な登場人物 明石全登《あかしぜんと》 宇喜多秀家の重臣、関ヶ原で秀家を戦場から逃がす。 明智左馬之助《あけちさまのすけ》 明智光秀の腹心で長女の婿、本能寺を襲撃後、坂本城落城で自害。 明智範子《あけちのりこ》 光秀の長女、荒木新五郎に嫁ぐ、左馬之助と再婚、坂本城で夫ともに自刃。 明智光重《あけちみつしげ》 光秀の長男、山崎の戦後、坂本城で一族と共に討ち死にする。 明智光忠《あけちみつただ》 光秀の次女の婿、本能寺の戦いで負傷、山崎で光秀の身代わりとなり戦死。 明智光秀《あけちみつひで》 織田信長の重臣として朝廷を担当、本能寺で信長、信忠親子を弑逆する。 明智ひろ子 光秀の正室、病死。 明智光慶《あけちみつよし》 光秀の次男、筒井家の養子となる、山崎の戦いで戦死する。 荒木新五郎《あらきしんごろう》 荒木村重の正嫡、攝津華隈城主、信長に父と共に謀反をおこす。 荒木平太夫《あらきへいだゆう》 村重の腹心、最後まで村重と新五郎に仕える。後は黒田官兵衛に仕官する。 荒木村重《あらきむらしげ》 信長の家臣、攝津領主、信長に謀反をおこし破れて出家する。 荒木たし 村重の室、夫の身代わりとして京で斬首される。 安国寺惠瓊《あんこくじえけい》 毛利家軍僧、石田三成と謀って、関ヶ原で家康と戦い、戦後斬首。 井伊直政《いいなおまさ》 家康の腹心、本能寺変後の伊賀越えの一員、関ヶ原で島津勢と戦い、負傷。 池田勝三郎《いけだかつさぶろう》 信長と乳兄弟、山崎の戦で光秀と戦う。 石田正澄《いしだまさずみ》 三成の兄、関ヶ原の戦後、佐和山城で自刃する。 石田三成《いしだみつなり》 秀吉の忠臣、死後家康打倒の兵を起こす。関ヶ原の戦で敗れ、斬首になる。 石田藤子《いしだふじこ》 三成の正室、佐和山城で一族と共に自害する。 稲葉正成《いなばまさなり》 元黒田家の家臣、小早川秀秋に仕え、関ヶ原で寝返り、家康に味方する。 稲葉貞通《いなばさだみち》 美濃郡上八幡城主、大坂方から家康に寝返る。 宇喜多秀家《うきたひでいえ》 備前領主、秀吉の養子として育ち、関ヶ原で負けた後、八丈島に遠島。 正親町天皇《おおぎまちてんのう》 戦国末期皇室の系統と安定に力を注ぐ。信長と戦った当時最大の実力者。 大谷吉継《おおたによしつぐ》 秀吉の臣で越前敦賀領主、関ヶ原ので小早川軍と戦い、戦死する。 小笠原秀清《おがさわらひできよ》 細川忠興の忠臣。正室玉子を介錯して、一緒に自害する。 織田信長《おだのぶなが》 本能寺の茶会後、天下統一を目前に明智光秀の謀反により自害する。 織田信忠《おだのぶただ》 信長の長男、光秀の謀反により父と共に二条城で自害する。 織田秀信《おだひでのぶ》 信忠の嫡子、幼名三法師、関ヶ原の戦で大坂方につき、岐阜城を取られる。 奥平貞治《おくだいらさだはる》 家康の家臣、関ヶ原で小早川軍と戦い、討ち死にする。 可児才蔵《かにさいぞう》 元明智光秀の家臣、後に福島正則に仕官、関ヶ原で先鋒を務める。 樫原彦衛門《かしわばらひこえもん》 三成の家臣。美濃垂井で大谷吉継への使者に立つ。 勧修寺晴豊《かじゅうじはるとよ》 大納言、天皇の名代として信長と争う。 加藤虎之助《かとうとらのすけ》 秀吉の家臣、備中高松攻めで功を立てる。 蒲生郷舎《がもうさといえ》 石田三成の家臣、関ヶ原で奮戦するも、最後織田有楽と戦い討ち死にする。 河北一成《かわきたかずなり》 元明智光秀の家臣、玉子と共に大坂屋敷で討ち死にする。 神戸信孝《かんべのぶたか》 信長の三男、本能寺の変後、光秀の姻戚である津田信澄を大坂城で殺害。 菅六之助《かんろくのすけ》 黒田長政の鉄砲隊隊長、関ヶ原で石田軍の島左近を撃ち倒す。 吉川広家《きつかわひろいえ》 元春の三男、出雲富田城主、関ヶ原で毛利家軍監として、参戦を見合わす。 吉川元春《きつかわもとはる》 毛利元就の次男、吉川家当主、備中高松で秀吉を討ちもらす。 木下勝俊《きのしたかつとし》 若狭小浜城主、伏見城から逐電、和歌に生きる。長嘯子と号す。 木村次郎左衛門《きむらじろうざえもん》 信長の家臣本能寺で信忠と共に戦死する。 京極高次《きょうごくたかつぐ》 近江大津城主、本能寺の変後、光秀に味方する。関ヶ原で家康につく。 京極於初《きょうごくおはつ》 京極高次の室、姉は秀吉の側室淀殿、妹は徳川秀忠の正室。 行徳《ぎょうとく》 高野山の修行僧、平太夫を助ける。 九鬼嘉隆《くきよしたか》 信長の水軍大将、木津沖で毛利水軍に大勝する。 九鬼守隆《くきもりたか》 九鬼嘉隆の長男、関ヶ原で徳川に味方する。 黒田官兵衛孝高《くろだかんべいよしたか》 秀吉の参謀、荒木村重に幽閉される。山崎の戦いで貢献する。 黒田光《くろだみつ》 官兵衛の正室、関ヶ原前夜、大坂屋敷から船で脱出する。 黒田三左衛門《くろださんざえもん》 官兵衛の養子、関ヶ原で石田家重臣蒲生将監を討ち取る。 黒田長政《くろだながまさ》 官兵衛の長男、家康に忠誠を誓い、関ヶ原の戦で武功をたてる。 栗山四郎《くりやましろう》 黒田家の一番家老、大坂から如水と長政の室を脱出させる。 小西行長《こにしゆきなが》 秀吉の臣、三成の友人、関ヶ原で敗れ、逃亡するが逮捕、斬首される。 近衛前久《このえさきひさ》 関白、本能寺の変の首謀者、関ヶ原で家康を応援する。 小早川隆景《こばやかわたかかげ》 毛利元就の三男、備中高松で秀吉を逃がす、秀秋を養子に迎える。 小早川秀秋《こばやかわひであき》 秀吉の養子、関ヶ原で大坂方から寝返り、家康を勝利に導く。 斉藤角右衛門《さいとうかくえもん》 利三の三男、山崎の戦後、家康に仕える。 斎藤利三《さいとうとしみつ》 光秀の重臣、最初長宗我部元親に仕える、本能寺の変後家康を助ける、山崎の戦いで戦死する。 斎藤《さいとう》お福 利三の娘、稲葉正成の妻となる。 斎藤利光《さいとうとしみつ》 利三の次男、山崎の戦後、弟と共に家康に仕える。関ヶ原で戦死する。 斎藤存三《さいとうよしみつ》 利三の長男、山崎の戦後、坂本城で一族と共に討ち死にする。 里村紹巴《さとむらじょうは》 連歌師、光秀の友人。 誠仁親王《さねひとしんのう》 正親町天皇の第一皇子、本能寺変後、秀吉に対抗、自害する。 四王天政孝《すおうてんまさたか》 光秀の家臣、二条城で信忠を襲撃する。 島左近《しまさこん》 筒井順慶に仕える。その後石田三成に召抱えられ、関ヶ原で奮戦、戦死。 島井宗室《しまいそうしつ》 博多の豪商、楢柴の茶器を信長に贈呈する。秀吉を応援する。 島津豊久《しまずとよひさ》 関ヶ原の戦で島津義弘の影武者として戦死。 島津義弘《しまずよしひろ》 関ヶ原で退却途中、松平忠吉と井伊直政を負傷させる。 高山右近《たかやまうこん》 信長の家臣、荒木村重、秀吉と仕え、関ヶ原では前田軍と共に戦う。 中川瀬兵衛《なかがわせべい》 荒木村重の従兄弟、信長の家臣になり、山崎の戦で功を立てる。 田中吉政《たなかよしまさ》 秀吉の家臣、関ヶ原で家康につき、石田三成を捕縛する。 立花宗茂《たちばなむねしげ》 筑前立花城主、関ヶ原で大津城を攻撃、陥落させる。 茶屋四郎《ちゃやしろう》 堺の商人、家康の御用商人として、伊賀越えで貢献する。 長宗我部元親《ちょうそかべもとちか》 土佐の領主、斎藤利三を召抱え、光秀と知己になる。 長宗我部盛親《ちょうそかべもりちか》 長宗我部元親の家督を継ぐ、関ヶ原で戦わず、撤兵する。 筒井順慶《つついじゅんけい》 大和郡山城主、光秀の姻戚、山崎の戦いに不戦、見合わす。 土田東雲斎《つちだとううんさい》 石田三成の臣、佐和山城落城の際、指揮を取る。 津田宗及《つだそうきゅう》 堺の豪商、光秀の茶道の師匠。 津田信澄《つだのぶすみ》 光秀三女の女婿、本能寺変後、大坂城で神戸信孝に討たれる。 天海《てんかい》 浅草寺の別当、家康に仕え、関ヶ原の戦を勝利に導く。 徳川家康《とくがわいえやす》 本能寺の変で伊賀越えで逃亡、関ヶ原の戦で大勝、大坂城に戻る。 戸田勝成《とだかつしげ》 関ヶ原で大谷吉継と一緒に小早川秀秋と戦い、討ち死にする。 富田信高《とみたのぶたか》 伊勢安濃津城主、大坂方と戦い、降伏して高野山に入る。 智仁親王《ともひとしんのう》 誠仁親王の第二皇子、細川幽斉を大坂方の包囲から助ける。 鳥居彦衛門《とりいひこえもん》 家康の家臣、伏見城を守り、討ち死にする。 長岡與一郎《ながおかよいちろう》(細川幽斉) 明智光秀の友人、親戚、本能寺の変後、光秀に与力せず見捨てる。隠居して幽斉と号する。丹後宮津城で大坂方に包囲され、開城する。 長束正家《なつかまさいえ》 秀吉の三奉行、安濃津城攻撃に参加、関ヶ原で戦わず、退却する。 西洞院時慶《にしのとういんときよし》 朝廷の使者として、宮津城の細川幽斉を助ける。 丹羽長重《にわながしげ》 丹羽長秀の子、加賀小松城主、関ヶ原の戦で加賀の前田利長と戦い、勝つ。 丹羽長秀《にわながひで》 信長の重臣、山崎の戦いで秀吉に応援、光秀を破る。 羽柴秀吉《はしばひでよし》 信長の家臣、本能寺の変後、山崎で明知光秀を破る。天下人となる。 袮《ね》(高台院《こうだいいん》) 秀吉の正室、秀吉の死後、落飾して高台院と称する。 羽柴小一郎《はしばこいちろう》 秀吉の弟、山崎の戦いで戦功を挙げる。 服部治兵衛《はっとりじへい》 吉川広家の家臣、黒田長政への使者となる、安濃津城攻めで戦死。 服部半蔵《はっとりはんぞう》 伊賀の忍者、伊賀越えで家康を助ける。その後家康に仕える。 蜂須賀小六《はちすかころく》 秀吉の直臣、備中高松城攻めで功績を挙げる。 平岡頼勝《ひらおかよりかつ》 小早川秀秋の一番家老、関ヶ原で寝返る。 平塚為広《ひらつかためひろ》 大谷吉継と従軍、関ヶ原の戦で小早川軍と戦い、討ち死にする。 ふく 宇喜多直家の室、秀家の母、直家の死後、秀吉の側室となる。 福島正則《ふくしままさのり》 秀吉の直臣、岐阜城を一日で陥落させる。関ヶ原の戦で先鋒を務める。 福原広俊《ふくはらひろとし》 毛利輝元の家老、吉川広家と謀り、輝元を関ヶ原に出兵させず。 藤田伝五《ふじたでんご》 明智光秀の重臣、山崎の戦で討ち死にする。 古田佐介《ふるたさすけ》(織部《おりべ》) 元中川瀬兵衛の家臣、秀吉に仕え、死後徳川家茶道指南役となる。 古田重勝《ふるたしげかつ》 伊勢松坂城主、関ヶ原の戦で安濃津城に援兵を送る。 星野与次郎《ほしのよじろう》 関ヶ原の戦後、石田三成を岩穴に匿う。 細川忠隆《ほそかわただたか》 忠興の長子、父と共に会津、関ヶ原に参戦する。 細川忠興《ほそかわただおき》 長岡與一郎の嫡子、元信長の小姓、光秀の四女玉子と結婚。家康に仕える。 細川玉子《ほそかわたまこ》 細川忠興の正室、キリスト教徒になり洗礼名ガラシャ、大坂屋敷で自害。 堀久太郎《ほりきゅうたろう》 信長の小姓、山崎の戦いで主君の仇を晴らす。 堀尾茂助《ほりおもすけ》 家康の家臣、清洲城に家康の口上を伝える。 本多正信《ほんだまさのぶ》 家康の鷹匠、後に家臣となる。 本多平八郎《ほんだへいはちろう》 家康の忠臣、関ヶ原の戦で島津勢と戦う。 前田玄以《まえだげんい》 秀吉の三奉行、信忠の遺児三法師を本能寺で助ける。 前田利家《まえだとしいえ》 信長の忠臣、荒木村重の息子を助ける。 前田利長《まえだとしなが》 前田利家の嫡子、関ヶ原の戦で丹羽長重と戦う。 前田利政《まえだとしまさ》 前田利長の弟、大聖寺城の山口正弘を討つ。 増田長盛《ましたながもり》 秀吉の三奉行、大坂城の留守居役。 前野将右衛門《まえのしょうえもん》 秀吉の直臣、関白秀次謀反事件に連座し、自害する。 益田与助《ますだよすけ》 黒田官兵衛の馬取り、備中高松で活躍する。 松井有閑《まついゆうかん》 信長の祐筆、本能寺の変後、大坂で津田信澄を討つ。 松平忠吉《まつだいらただよし》 家康の四男、関ヶ原の戦で先鋒を務める。島津勢と戦い、負傷する。 松野主馬《まつのしゅめ》 小早川秀秋の家臣、関ヶ原で寝返りを不服として、参戦せず。 森乱《もりらん》 信長の小姓、本能寺で信長と生死を共にする。 溝尾庄兵衛《みぞおしょうべい》 光秀の忠臣、山崎の戦いで、落ち延びる途中、戦死する。 宮川《みやがわ》 細川幽斉の姉、大坂屋敷から脱出する。 村井貞勝《むらいさだかつ》 信長の臣、京都所司代、二条城で織田信忠と共に討ち死にする。 母里太兵衛《ぼりたへい》 黒田長政の家臣、大坂屋敷から主君の室を俵に入れて脱出させる。 毛利輝元《もうりてるもと》 毛利元就の孫、関ヶ原で戦わず、中国の領土を失う。 毛利秀元《もうりひでもと》 輝元の養子、吉川広家と関ヶ原以降不仲になる。 八十島助左衛門《やそじますけざえもん》 三成の家臣、関ヶ原で戦場から逃亡する。 山科言経《やましなときつね》 山科言継の次男、権中納言、信長との折衝に当たる。 山内一豊《やまのうちかずとよ》 信長、秀吉の臣、小山評定で掛川城を家康に進呈する。 湯浅五助《ゆあさごすけ》 大谷吉継の家臣、吉継を関ヶ原で介錯する。 結城秀康《ゆうきひでやす》 家康の二男、会津上杉景勝の西上を阻止する。 お万《まん》 結城秀康の母 淀殿《よどどの》 秀吉の側室、秀頼の母。 吉田兼和《よしだかねかず》(兼見) 京都吉田神社の神主。近衛前久と組み、本能寺で信長を光秀に討たせる。 吉田伊也《よしだいや》 兼和の妻、細川忠興の妹。 脇坂安治《わきさかやすはる》 元明智光秀の家臣、山崎で光秀と戦う。関ヶ原で家康に寝返る。  起の巻   待《たい》 庵《あん》  夏の日差しにはまだ遠かったが、日向に暫くいると襦袢《じゅばん》が汗ばむ陽気であった。西国街道を馬に乗った一人の老人と、やはり初老の恰幅の良い小者が馬の口取りをしていた。老人は頭に利休鼠の法師頭巾をかぶっている。二人は天王山を越してから、路を右に折れ、淀川沿いの大山崎に向かった。淀川が右に大きく蛇行して、天王山との間に挟まれた狭い平地には、多くの民家と油蔵屋敷が立ち並んでいた。  二人の立ち振舞い、歩き方は単なる町人の隠居と小者には見えなかった。それに二人とも風体には似つかわしくない、立派な脇差しを腰に差していた。供の小者が竹林の中の小川を軽く飛び越えると、その流れの先に小さな草庵があった。  老人はその前で馬から下りた。二人は勝手知ったるように、そのまま生け垣の格子戸を開けて中に消えた。老人は露地の入口に置かれた蹲《つくばい》で手水《ちょうず》を使うと、一人で左足を引きずりながら飛び石の上を歩いて行った。草鞋と足袋はいま先露地の腰掛で履き変えたばかりのようで、その白さが石の黒さの上で妙に目立っていた。  老人は小さな茶室の前に立つと、身体を曲げながら剃髪した坊主頭をにじり口に突っ込んだ。外の明るさを奪った茶室の暗さで一瞬目が眩んだ。室床《むろどこ》の前には羽織、袴に居ずまいを正した亭主が茶席の用意をして待っていた。茶室はわずか二畳敷きの隅炉であった。  老人はゆっくりと席主に心の挨拶をすると、左足をそのまま壁土に突き出した。亭主は驚きもせず、笑顔で迎えた。 「如水《じょすい》殿、よく来られました。何年振りでござりますかな」 「織部《おりべ》殿も息災で何よりだ。この山崎は思い出深い土地、懐かしいの」 「お疲れでござりましょう。早速薄茶でもお立てしましょう」  如水は織部が茶を立てているのを見学しながら、気楽に話始めた。 「思えばちょうど今ごろ、そなたもわしもこの山崎で明智光秀と戦ったのう。もう十八年も前のことになるかな。そなたの舅の中川清秀殿が、あれからすぐに賤《しず》ケ岳で討ち死にするとはな」 「義父はまともに畳の上で死ねるお方ではござりませんでした。この山崎の戦の後、関白殿にお仕えしなければ、わたくしめも今頃はこの世にはおりませんでしたでしょう」  如水は床間の正面にさりげなく釣られた竹花筒に、取り立ての槿《むくげ》の花が一輪飾られていることに気がついた。そして如水が改めて織部の手元を見ると、使っている茶杓《ちゃしゃく》は真中に大きな竹節のある茶杓であった。 「織部殿、相変わらず茶には通じないが、この花筒と茶杓は利休殿の物ではないか」 「左様でござります。花筒は園城寺、茶杓は泪《なみだ》でござります。槿は宗匠が一番お好きだった花」  薄暗い茶室に薄紅梅の花弁が白色の中に、ひときわ華やかに浮かんでいた。 「やはりな。利休殿も無念であったろう。秀吉公も身罷《まか》れたいまとなっては、すべてを水に流せようが」  師を秀吉に殺された織部の複雑な気持ちを察していた。如水は当時秀吉の茶頭であった利休が、十年前に京の聚楽第で茶会を催したことを自然と思い出していた。招客は中国の大守毛利輝元、筑前の小早川隆景、出雲の吉川広家らの西国大名で、黒田官兵衛や古田織部も末席に招待されていた。  咳音一つない茶席で浅黒い顔をした小柄な男が、傍若無人に釜の湯がたぎっている風炉《ふうろ》に近づいた。その男は紅の子袖と紫の袴を身につけて、赤地金襴の足袋を履いていた。  狂言師のような仕草で一茎の黄色い野菊を懐から取り出すと、釜の前に置かれた肩衝《かたつき》茶入れと天目茶碗の間にその野菊を挟んだ。そしてそのまま、その男は正客の席に座った。  しばらくして点前をする大柄な利休が泰然と現れ、静かに風炉《ふろ》の前に座った。利休は目前の一茎の野菊を見ると、平然とそれをつまみ上げ袂の横に置かれた建水《けんすい》の中に捨てたのである。  茶席の客全員が唖然とした。正客である関白大条大臣秀吉の黒い顔が一瞬白くなったように見えた。茶事はそのまま何事もなく終わったが、半年後の天正十九年二月二十八日利休は秀吉から死を命じられ切腹した。  その時急に織部が自分で焼いた沓形《くつがた》黒茶碗の中の茶筅《ちゃせん》を回す手を止めた。茶筅をゆっくりと畳の上に置いてから、如水を見つめた。 「秀吉公が天王山に山崎城を造られた後、千宗易《せんのそうえき》さまにこの待庵を造られるよう命ぜられました。あの当時は関白殿も侘《わ》び、寂《さ》びを真剣にわかられようとしておりました。しかし天下人になられてから、狂われておしまいになりました。わが師を失った悲しみは今でも忘れてはおりません」 「おかしいの。そなたが焼いた茶碗も、わしの足と同じように奇妙に曲がっている。殿は昔からわしをこき使ってのう。本能寺のあとに毛利と手打したことは、今思うても二度とできない芸当だったわ。殿を天下取りにするまで正直我を忘れて奉公したが、殿は結局わしに十二万石しかようくれなんだ。もともと小寺家から一万石もらっておったから、正味は十一万石だがな。形見分けもなかったしな」  如水はそう言ってまた高笑いした。織部の立てた茶が目の前に置かれた。  秀吉は当時敵将であった毛利の小早川隆景《こばやかわたかかげ》にさえ筑前、筑後で七十万石の領地を与えていた。それに戦歴のない毛利の軍僧であった安国寺惠瓊《あんこくじえけい》にも、伊予六万石を与えていたのである。  如水は秀吉亡き後の豊臣家に、本心これ以上、奉公するつもりはなかった。これからは自家だけのために余生を使いたかった。特に晩年の秀吉との関係は決して良くなかった。朝鮮との戦では軍律違反さえを問われていた。当時、如水は朝鮮の東莢《とうらい》の陣所で浅野長政と碁に熱中していて、敢えて出陣の刻限に遅れたことがあった。軍監の石田三成、大谷吉継、安国寺惠瓊らが秀吉にそれを訴えために、すぐ戦地から本陣のある肥前名護屋城に召還された。  その時仕方なく改悛の情を表すために、剃髪して謹慎し、黒田官兵衛孝高《よしたか》は以来、如水円清と名乗り隠居したのであった。心は円く、水の如く清いので、異心はないという意味であった。 「しかし、関白殿は日頃から如水殿を誉めておられました。小田原の北条征伐では集まった二十万の軍勢を自由に動かせる者は、わしと如水しかいまいと仰せでしたが」  如水は三口で薄茶を飲みほした。懐紙で飲み口を拭きながら、 「左様いろいろあったが、利休殿より一足先に隠居したお蔭で、このへらず口の首がいままでつながったわ」  千利休は秀吉に朝鮮征伐の中止を再三、諫《かん》言していた。もし隠居していなかったら、間違いなく自分が利休の身代わりになっていただろうと思っていた。利休が生前暗示したように、朝鮮の戦は二度と思い出したくない愚かで、苦しい異国の戦いであった。 「それはそうと、徳川殿は上杉征伐に近々、大坂を立たれるとか」  如水が飲みほした茶碗を織部に返した。 「明々後日《しあさって》にも家康公は大坂を立たれるでしょう。福島正則、細川忠興、加藤嘉明さまはすでに先鋒として会津に向かわれておりますよし。わたくしも家康殿の依頼で常陸の佐竹義宣さまの所へ参らねばなりません」  秀吉亡き後、古田織部は徳川家の茶道指南役を勤めていた。もともと佐竹義宣の茶の湯の師匠でもあった織部との縁を家康は利用していた。  如水は織部の言を無視して、 「二年もたたずに朝鮮の次は会津とは御苦労なことだ。わが息子長政も悲鳴をあげておろうよ」  朝鮮との戦いは文禄、慶長と二回にまたがる実に七年間に渉る不毛の戦いであった。 「如水殿はこちらで家康殿とお会いになりますのか」 「いや、徳川殿は天下を治めるのに忙しい御身、それがしのような隠居に会う時間はござらんよ。この度は昔息子が世話になった高台院《こうだいいん》さまをお訪ねしようと思っておる。二人とも同じ得度の身、久し振りに昔話でもしてお慰み申しあげようと思ってな」  古田織部も長年戦国の世を生き抜いてきただけに、隠居の身の如水が何故に、今回はるばる領国の九州豊前中津から上洛してきたのかを瞬時に察していた。  秀吉亡き後の天下の覇権をめぐって、徳川家康と上杉景勝がまもなく戦を始めるだろうという噂はいまや全国公知の事実であった。どの大名にとっても、わが身をどう処するかということはお家の一大事であった。 「それはようござる。高台院さまの所へ行かれれば、豊臣諸将の動向は掴めるでしょう」  秀吉の死後、正室の祢《ね》は高台院という法名で落飾していた。如水は織部の言葉で潮時とばかり軽く頭を下げると、伸ばした足を尻に近づけて器用に素早く立ち上がった。  茶庵の水屋の待合で、如水の小者が石の上に立ひざをして待っていた。一目見ただけで、身体壮健であちらこちらの戦場を生き抜いてきた武士の匂いに満ちていた。  如水は急に見送りの織部に振り向いて、話しかけた。 「織部殿、この男は荒木|平太夫《へいだゆう》と申す者でござる。わしが備中高松にいた時、こやつが最初に信長公が本能寺で亡くなったことを知らせてくれた。命の恩人じゃ」 「ほう、それはまた、良き家臣を持たれた」 「いや、その折は荒木村重殿の家臣であったがな」 「はい、荒木村重殿と新五郎さまにお仕えいたしておりました」  平太夫が静かに答えた。 「新五郎とは、荒木|村重《むらしげ》殿の嫡男の」  古田織部が聞いた。 「左様でござります。賤ケ岳の戦で佐久間盛政と戦い、討ち死になされました」  織部の頭は混乱していた。荒木村重は元織田信長の大名として摂津の国を治めていたが、本能寺の変の四年前に中川清秀、高山右近らと計り信長に叛乱をおこした。しかし結局分あらず一年後、居城からいづこへか逐電したという。その村重が何故、敵方の一大将であった如水を助けたのか、初耳でその理由がわからなかった。  何か表に出せない仔細があったのであろう。織部はそれ以上、何も如水と平太夫に問いたださず、別れの挨拶をした。   |阿弥陀ケ峰《あみだがみね》  京の都はいつもと変わらずに、静かな活気に包まれていた。如水は、京の町とそれを取り巻く人々の奇妙な調和になじめなかった。都人の能面のような平静な表情の下に流れる素顔が、直情的な西国の人間と違ってつかめなかったからである。誰と会っても鵺《ぬえ》のような得体のしれない感じを受けた。  しかし如水は、これから高台院に会えるかと思うと心が弾んだ。五条の大橋を渡って東山の阿弥陀ケ峰を目指す頃、如水と平太夫は道が段々と高くなるのを感じていた。  豊国社から阿弥陀ケ峰に通ずる広い参道の両側には、諸大名が寄進した巨大な石灯籠が立ち並び、死んだとはいえ天下人秀吉の無言の圧力を感じさせた。如水は神廟につながる極楽門と呼ばれる二層の唐様神門の前で、手を合わせて合掌した。その先は、垂直に近い五百段の石段が山の頂上まで続いていた。足の不自由な如水は心の中で「失礼つかまつる」と言って、石段を上らずにその場を去った。  高台院の屋敷は参道の中腹を少し折れた奥まった所にあった。如水と平太夫は、三間四方もあるかと思われる巨大な門扉の前に立った。極彩色に色彩れた唐門はいかにも太閤秀吉の正室の屋敷にふさわしかった。  使番が来るのを待ちながら如水が後ろを振り向くと、京の町が一望に見えた。この場所ならば秀吉公もゆっくりと眠れるに違いないと安堵した。臨終間際の老醜と醜態は、若い時の冴え切った秀吉をよく知っている如水には、ことさら思いだしたくない光景であったからである。  案内された如水は、広い境内の中の渡り廊下を歩かされた。廊下の角を曲がるたびに、違った趣向の築山や池があらわれた。丁度、季節柄、花菖蒲と藤の藍色が際立った模様を見せて、植えられた樹木と造園には高台院の洗練された嗜《し》好がいたる所に満ちあふれていた。  若い茶坊主に案内された書院の正面に、一人の比丘尼《びくに》が法体姿で座っていた。穏やかな顔立ちは、高台院その人であった。その脇には、痩せぎすで青白い顔をした三十代の武士の先客がいた。誰であったかを思い出そうとする前に、高台院が気軽にその人物を如水に紹介した。 「官兵衛、こちらは甥の少将勝俊や。少将からいま和歌を習《なろ》うている」  高台院は、若い時に覚えた呼び名で夫の家臣をいつも呼んでいた。如水の呼名はいつまでたっても官兵衛であった。  少将と呼ばれた人物は、伏見城々主で高台院の兄木下家定の長男木下勝俊であったことを思い出した。勝俊《かつとし》は豊臣家の家系の中で一番、風流を解した。特に和歌は達人の域に達していることで有名であった。 「これはこれは、失礼|仕《つかまつ》った。ほんのご機嫌伺いに参っただけで、すぐに失礼いたします」 「官兵衛、よう参った。手習いはいつでもできる。近こうよれや」 「如水殿にも御無沙汰いたしておりまする。秀秋の件では、えらくお世話になりました」  勝俊と呼ばれた武士も喜んで突然の賓客を笑顔で迎えた。内実、高台院も少将も如水には大きな恩義を感じていたからである。  文禄二年の初秋の頃、関白職を養子の秀次に譲って伏見城で隠居していた太閤秀吉を、如水はひょっこりと訪ねたことがあった。  五十八歳にして最後の子供、お拾《ひろ》いが生れたと聞くと、黙って九州の田舎で隠居している訳にはいかなかった。いつもの血が燃えてきたからである。秀吉に疎じられて禄高の増えない如水であったが、知略を駆使して世の中を動かすことは己にとっての大事であった。その事だけに自分が燃えられたからである。長年仕えた主人が何を考えているかは、今でも手に取るように察することができた。如水が疎んじられたのも、秀吉の心を読みすぎる欠点からであった。  その日浅黒い顔をした秀吉は体調が悪いようで、訪れた如水の挨拶を碌に聞いていなかった。  太閤は如水の顔を見るなり、 「官兵衛、よく来た。お拾いには、もう会うたか。お拾いの成人の折には、強い身内の助けがいる。今の内に秀俊をどこかの大名の養子にできぬかな」  お拾いはまだ生まれて二ケ月もたっていない赤子であっただけに、秀吉の実子思いが尋常でないと如水は驚いた。秀俊は兄木下家定の子で、秀吉の養子になっていた。 「さよう、秀俊さまにはそれ相応の名家ではなりませぬ。いま思うに、一つだけ良き縁組がございます。たしか毛利輝元殿は四十歳を越したはず、しかしまだ実子がござりませぬ。毛利家への養子はどうでござりましょう」  如水はあらかじめ秀吉の気持ちを思いはばかっていただけに、すぐさま二つ返事で毛利家に秀俊を養子に出すことを勧めた。秀吉は上機嫌で如水の策に飛びついた。  その年の秋、木下|秀俊《ひでとし》は十三歳で小早川家の養子となり、毛利家重臣の宍戸元続の娘と結婚した。盛大な披露宴が宗主毛利輝元らの出席のもとに開かれた。秀俊は名も小早川秀秋と変え、筑前三十三万六千石の大々名となったのである。 「松寿丸《まつじゅまる》もよい武将になられた。数日前も会津に出向くと挨拶に参った。律儀な子や」  高台院は、とうに三十歳を越している如水の長男黒田長政もまだ昔の幼名で呼んでいた。  如水は苦笑しながらも、 「高台院さま、秀吉公が亡くなられてからすでに二年、お拾いさまもお健やかにご成長されており、豊家も万々歳でござりますな」  如水の追従《ついしょう》の言葉にもかかわらず、高台院の柔和な顔には軽く影が走り一瞬険が見えた。 「官兵衛や、そなたお拾いの顔を見たことがあるかや」 「はあ、一度か二度遠くからでござるが」 「そなたも夫の顔の黒さを知っておろうが。祢も、自慢ではないが殿に負けはせぬ」 「そういえば」  如水は、あらためて高台院の顔をしげしげと見つめた。白粉《おしろい》が塗られた顔の色と、首筋や手先の色はかなり違っていた。高台院の素顔は、そう言えば決して白くはないのかもしれない。  如水はまた苦笑しながら、 「それがしも田舎育ち故、顔の黒さは太閤さまにも負け申さぬ、あはっ、はぁ」  如水の高笑いにも、高台院は笑わなかった。側の木下勝俊も、青白い顔のまま神妙に正座し続けていた。 「官兵衛、お拾いはこの木下家の黒さを受け継いでおらん。白磁のような白さじゃ」  高台院の口から洩れた言葉は、聞き洩らそうとしても洩らせない言葉であった。  如水は大きく息を飲み込んだ。 「高台院殿、してそれが」 「鶴松もお拾いも、太閤のお子ではない」  高台院の大胆な言葉に、わが耳を疑った。 「官兵衛、夫がそなたたちと苦労して創った豊臣家といまの豊家は似ても似つかぬもの。何のために夫や信長さまが命をかけて天下をお取りになったのか、そなたにはようわかろうが。それにまた、つまらぬ戦が起ころうとしておる。秀次や秀勝の二の舞は見とうはない。秀秋を死なせとうない。そなたならきっと道筋を見つけてくれると思うてな、胸にしまっておいたことを話すのじゃ」  秀次は高台院の姉ともの子で、関白即位後、秀吉への謀反の疑いで自害させられていた。秀勝は秀次の弟で、朝鮮の役に唐島《からしま》で戦死していた。  如水は秀吉が薨《こう》去してから、一年もたたずに高台院がお拾いを残して大坂城から出てしまったことを不審に思っていたが、いまの話を聞いて納得した。しかし高台院の言葉が真なら、大坂城の主であるお拾いの父親は誰なのか。この秘密が豊臣家恩顧の将たちに知れ渡ったら、豊臣家は簡単に崩壊する。  反面、如水は勇気ある告白に素直に感動していた。高台院がキリシタン教徒になって懺悔《ざんげ》し始めたのかと、ふと思った。落ち着いた清楚な顔が、長年信仰しているマリア像の顔とだぶって見えた。それに、思った以上に天下の情勢に詳しいことを感じた。きっと、豊臣家内の不穏な動きもよく知っているのであろう。如水はもう少し知りたかったが、これ以上長居はすべきでないと考えた。  如水は礼拝の時のように、高台院に向かって手を合わせて頭を下げた。 「この官兵衛、高台院さまのご真意しかとこの胸に刻み込みもうした。身どもは九州に戻りますが、必ず御一族をお護り申し上げまする」  高台院は軽くうなずき、如水はそれからすぐにその場を辞した。高台院も大きな秘密を洩らした緊張感からか、それ以上止めなかった。  如水は喧騒の京の町への帰り道、ひょっとすると高台院とお拾いの母である淀殿との関係は、すでに修復できないほど大きな溝があるのかもしれないと思えた。  それに何気なく、もう一つの高台院の奇妙な振舞いにも気がついた。あのような重要な話を甥とはいえ、実質は木下家と血のつながらない養子である勝俊の面前で話をしたということであった。勝俊の出自は秀吉の側室、京極家出身の松の丸の連れ子であった。  如水はまだ日が高いのを見て、帰り道、賀茂川を左手に折れた。近くの東福寺に立ち寄ってみようと思ったからである。毛利家の軍僧であり、東福寺の住持でもある安国寺|惠瓊《えけい》に久し振りに会ってみたくなっていた。  しかし六万坪を有する東福寺の本堂にも、五十三院ある塔頭《たっちゅう》にも惠瓊の姿は見えなかった。弟子の修業僧が、佐和山に行ったという。近江佐和山は石田三成の領地であった。   奔 流  時代が大きく動こうとしていた。長かった戦国時代もようやく終わろうとしていた。誰もが戦国乱世の終焉《しゅうえん》を望みながら、自分だけが最後の覇者になりたいという熱い溶岩のような情念を胸に秘めたまま、慶長五年の年は明けていた。戦国の下剋上の見本であった豊臣秀吉の治世は、本能寺の乱からわずか十六年で、その輝きを失った。しかし十六年の歳月は挫折した人間には復活を意味し、早熟、未熟な人間には熟成をもたらすに充分な期間であった。  そして既に天下を動かした人間の多くは早世、逝去していき、新しい人々によって今一度新しい時代が創られようとしていた。その主役を握ろうとしているのが従二位内大臣で、江戸城を本拠としている関東八ケ国二百五十万石の大守徳川家康であった。  慶長五年六月十六日、家康は会津の上杉景勝討伐を名分に、豊臣秀頼から黄金一万両と米二万石を受領して、思い残すことなく大坂城を後にしようとしていた。  その日の早朝、家康は自兵三千を率いて大坂城西の丸を出て、京の伏見城へ向かった。天気は快晴で、家康は直垂《ひたたれ》に行縢《むかばき》をはいた狩装束のまま輿に乗った。五十歳を越して肥満が目につくようになってから、めったに馬に乗らなくなっていた。鷹狩りも、上方住まいになってから殆どしなくなっていたことに気がついた。  輿の中で家康は、久しく帰っていない江戸のことを思い出した。思えば、足掛け八年に渡る上方在住であった。十年前に秀吉の命で、長年住み慣れた故郷の三河から何も知らない辺鄙《へんぴ》な江戸に移住した。いまも江戸城とは名ばかりで、江戸の高台に土居をめぐらした建物はすべて板葺きで、屋根は火矢よけの泥で固めた粗末な物で、到底、関八州の領主の本城とはいえない有様であった。今まで早く本国に帰りたいのは山々であったが、年に三ケ月も江戸に居られれば上出来であった。  輿の御簾の隙間から、往来で近在の町衆が物見見物で家康の軍勢を見送る姿が見えた。そこには昔、関白秀吉が出征したようないつもの興奮はなかった。なにか、都落ちする武将を静かに見つめている感じであった。  長年多くの権力者を見つめてきた京の町衆に、家康は正直好まれていなかった。信長や太閤のように城郭の普請もせず、武具や茶具にも金を使わぬ偏屈者にしか見られていなかった。  思えば家康は二年前の慶長三年七月四日、死期の近づいた秀吉から一人、伏見城に呼ばれた。同席は正室の祢だけであった。  薄暗い部屋は香の匂いに満ちていたが、形容し難い悪臭が同香していた。ただでさえ小柄な秀吉は厚い蒲団の中で埋もれていて、顔はよく見えなかった。目がなれてきて見た秀吉の顔は萎びたように土黄色で、目は赤く血走っており、長い間熟睡していない精気のない疲れ切った顔であった。家康は瞬間的に死相を秀吉の顔に見た。 「家康か、ひでよりを頼む」  秀吉は天井を見たまま、力なく呟いた。 「おひろいが十五になるまで、そちが育てて、その後はひでよりに頼む」  秀吉は、急に蒲団の間から枯れ木のような手を出した。 「家康殿、握ってやってくだされ」  袮の優しい声で、家康は手を握った。秀吉の力は思いがけなく強かった。いつまでも離さないように強く握ったままであった。  何気なく家康は、安土城外の高雲寺で最後に織田信長に面会した時を思いだした。本能寺で死ぬことを感じていたのか、あの時の宴席での信長公も終始優しかった。  秀吉の顔からは涙が滴《しずく》落ちていた。それは、一人の人間が死ぬ前に流す慙愧の涙のようにも思えた。家康はすべてのわだかまりを捨てて、素直に秀吉の頼みを聞こうと思った。  手を握ったままうなずくと、安心したのか握り締めていた手を解いた。そして、いつしか安らかな寝息をたてていた。家康は、そのまま言葉を出さずに部屋を退出した。それが最後の別れとなった。八月十八日、秀吉はその華麗な人生を、六十二歳を最期《さいご》に伏見城で終えた。 [#ここから2字下げ] つゆとをちつゆときえにしわがみかな なにわの事もゆめのまたゆめ [#ここで字下げ終わり]  その時その死を悲しむより、秀吉の辞世になぜか感動していた。自分はこのような歌は残せないと思ったからであった。  大坂と伏見の間は約十里の距離である。淀川を三十石船に引かれて上った家康は、夕日が落ちる頃、伏見城が遠望できる秋の山に到達した。伏見城の五層七重の天守や、西の丸、松の丸などが醍醐の峯々を背景にそびえ立っていた。家康は輿の戸を開けさせて、暫く伏見城の壮観を眺めていた。  秀吉亡き後、一年ほど伏見城に居住しただけに、家康はこの城が大坂城よりは好きであった。大坂城よりも小さかったが、攻めにくく守り易く造られ、それにまた建物の室内は壮麗で城としての美を感じさせた。江戸にも伏見と同じような城を築きたいと思った。  しかし今見る伏見城は、これが見納めかと思うと気持ちは暗かった。自分が伏見を去った後、多分、反徳川家の武将たちがこの城を攻めるに違いなかったからである。これからその経緯を、伏見城の城留守番である鳥居元忠に言い渡さなければならなかった。  それと、太閤の遺命で伏見城主になっている木下勝俊の処遇にも悩まされた。もしも勝俊がこの城で死ぬようなことになると、高台院の機嫌を損なうことになる。それは、豊臣家|麾下《きか》の諸将を敵にまわすことを意味していた。  伏見城に着くと、先ず千畳敷の奥座敷に入り、家康はそこに一人でたたずんだ。そこは体の小さな関白秀吉が何度も、全国の諸大名をひれ伏せさせた場所であった。  家康はいま五十九歳にして、全国の大名を足下に置く地位に昇りつめようとしていた。上杉征伐を名目に、初めて全国の大名が自分の指揮に従う。思えば長い道のりであった。  ここまでよく辛抱したと、死んだ正室の築山《つきやま》や息子信康に話しかけた。きっと泉下で喜んでくれているだろうと思うと、自然に笑みが浮かんだ。そして、それはいつしか涙笑いの笑いになっていた。  まだ陽のある内から、家康は夕餉《ゆうげ》の膳を造ることを命じた。相伴は留守番役の鳥居彦右衛門、松平近正らであった。それに家康の帰国に付添う本多正信と本多平八郎、井伊直政らの旗本が一緒に座を囲んだ。  鳥居彦右衛門元忠は家康より三歳年上であった。彦右衛門の父忠吉は家康の父松平広忠、それに祖父松平清康にも仕えただけに、自分の家系を誰よりも徳川家の忠臣であると誇っていた。したがっていまでも主君家康を、主君と思わない横柄な態度を取ることがありがちであった。 「殿、日の明るい時から夕飯とは、蝋燭代の倹約でござるかな」 「久し振りに彦と飯をゆっくり食べたい、馳走せよ」  家康が、生真面目に彦右衛門の皮肉に答えた。幼少から長年連れ添った彦右衛門を、彦としか呼ばなかった。また主君からそう呼ばれることを、主従を越えた親密さということで彦右衛門は自慢にしていた。  半刻後、彦右衛門は食膳を家康の前に置きながら、丸い赤ら顔を近づけた。家康が何か大事を話そうとしていることを、長年の勘で感じていた。 「いくさのことでござるか」 「明日、江戸へ戻る。当分帰らぬつもりだ。敵がこの城を取り囲んだら、一日でも長く籠城してくれぬか」  家康は、あえて敵は誰であるかを示唆しなかった。実際、まだ誰が敵になるか見当がつかなかったからである。 「お易きこと。高天神《たかてんじん》の武田攻めを思えば、ここは極楽でござる。兵糧も充分で」  彦右衛門には武田勢から高天神城を攻められた折り、餓死寸前まで一握りの飯も食わずに戦った武勇伝があった。 「兵を三千残しておく」 「殿、どうせここは捨て石じゃろ。若い者は江戸へ連れ帰ったらええ。わし一人でも充分戦えるで」  彦右衛門は、この城が犠牲になることをすでに感づいていた。 「そなたの父は昔岡崎の城で、苦労して蓄えた青銭《あおせん》をわしに見せてくれたことがあった。その締じ紐が古くなっておって、銭に触るとすぐに切れたことをいま思い出した。子供心に倹約と忠義は大事なことだと、忠吉からは教えられた」 「殿、この彦右衛門、天下取りの戦なら喜んで、徳川のために捨て石になりますぞ。城中の銭をつぶしても、鉄砲玉を撃ち続けるによってな」 「彦《ひこ》、この城にも太閤が蓄えた金銀がある。いまこそ思い切り使うが良い」 「殿、お別れに一献くだされ」  感極まって、彦右衛門は家康が注いだ盃の酒を一気に飲みほした。その後急に立ち上がり、刀傷で不自由になった足を引きずりながら部屋を出て行ってしまった。  家康は、膳の上に残された空っぽの盃をいつまでも見ていた。 「皆の者、彦一人死なせるわけにはいかん。頼むぞ。それからこの伏見城は徳川の身内だけで守れ。よいな」  その時家康は、万一戦の折には伏見城の守将を薩摩の領主島津義弘に依頼していたことを家臣たちに話さなかった。伏見城を見捨てるのに、他家の力はもう要らないと思えたからである。  その夜、家康は伏見城最後の夜を一人静かに床の中で過ごそうとしていた。しかし、頭が冴えて寝られないでいた。本当に上杉征伐の間に、反徳川勢が挙兵してくれるかどうか不安であったからである。また仮にうまく挙兵してくれたとしても、どの大名が徳川の敵になるのか見当がつかなかった。全国八十余州の大名すべてが敵になるような気がした。豊臣の大名の顔が次から次と浮かんだ。こんな弱気ではとても天下は取れないと、蒲団の中で自分を叱咤した。  家康は格《ごう》天井の錦絵を見ていた。雪洞《ぼんぼり》の灯明は到底、天井まで届かない。しかし、天井には何かがいた。白い顔のようであった。信長公にも秀吉公のようにも思えた。ここにこのまま寝ていると、悪霊が襲いかかってくるような気がして、急に怖じ気づいた。  上蒲団をけると大声を出した。 「誰か、おらんか」  控えの間の小姓たちが慌ただしく飛び出してきた。しばらくして本多平八郎と井伊万千代の二人が、大刀を手に寝巻きのまま寝所に飛び込んできた。 「平八郎、すぐさま駕籠《かご》をしたてい。一気に桑名まで駆け抜けるぞ。伊賀の二の舞はしたくない」  深夜、二人の忠臣は主君の発する言葉を素直に聞き入れた。伊賀越えと聞くだけで、二度と忘れられない本能寺の変の恐怖を思い出したからである。あの伊賀越えの二の舞だけは、もうしたくなかった。いまでも徳川家にとって上方は所詮異国であり、隙を見せればいつ襲われてもおかしくない状態であった。二人はすぐに駕籠を用意させた。  取る道は東海道である。瀬田の大橋を渡り、草津から水口、鈴鹿峠を越えて亀山、四日市を経て桑名までは約二十里の距離であった。もし望めば狭い山道を通過する道中、家康を襲うことはさほど難しくはなかった。確かにその晩、一人の人間が家康と同じことを考えていた。   佐和山  寝不足の島左近|清興《きよおき》は六尺近いその大柄な身体を何気なく動かして、佐和山城の五層の天守閣から湖面をのんびりと眺めていた。日向の陽は暖かく、つい眠気を誘われた。  左近は、天守閣の廊下を右側に曲がった。そこからは琵琶湖から城に入る船着き場が見えた。その一端から百間橋と云われる三つ折りの橋が、城の搦手門に向かって伸びている。  瞬間、左近の頬は緊張した。戦場で突然敵に遭遇した顔であった。城の船着き場に四十|挺櫨《ちょうろ》の船が着いていたからである。中からは数十名の侍に先導されて、黒の漆塗りの網代輿《あじろこし》が降ろされるのが見えた。  輿の前面には御簾が垂らされ、中の人物は分からなかった。行列の侍や供廻りたちには何の緊迫感も見えなかった。幟や旗はなかったが、輿の後ろで若い僧侶と思われる人物が黒と金色の大きな天蓋《てんがい》をひらいた。 「愚かな」  左近はその派手な天蓋を見ると、露骨に顔の眉間を寄せた。人が見れば、その天蓋で輿の主が知れたからである。それは伊予土居の大名であり、臨済宗京都五山の一つである東福寺と、安芸国の安国寺の住持である惠瓊《えけい》であった。最近は、五山之上の南禅寺住持の公帖も与えられていた。惠瓊は大津から船に乗ってきたようであった。  左近はこの惠瓊を嫌っていた。僧でありながら秀吉から六万石をも拝領し、僧大名に成れたのには、かなり後ろめたい背景があったからと感じていた。開悟した高僧には、どうしても思えなかった。僧籍にありながら謀略を弄《もてあそ》ぶ、実のない人間とみていた。主君である石田三成の方が、不器用であるが真がある。左近が三成に乞われて家臣になったのも、その純粋さに惚れたといっていい。しかし、いま主君が惠瓊を徳川打倒の軍師に使おうとしていることで、三成の前途に不安を感じていた。  行列は百間橋を渡り、佐和山城の麓にある清涼寺に入った。宿舎に充てられた寺である。本堂の前には大きなタブの木がそびえていた。惠瓊は駕籠を降りて、山頂を見上げた。佐和山の頂上には琵琶湖を睥睨《へいげい》するかのように五層の天守閣と二の丸、三の丸の楼閣がそびえ建っていた。十九万四千石の大名にしては巨大な城であった。石垣の壁はすべて粗壁で、何一つ飾り瓦や鬼瓦も、金箔の鯱《しゃち》も見えなかった。  左近には、清涼寺に向かって武家屋敷から数十名の侍が駆けて行くのが見えた。その先頭を走っている小柄な背丈の武士は、間違いなく主君三成であった。頭の月代《さかやき》の上半部が大きく禿げている。秀吉存命中と変わらぬ主君の奉公姿に、苦笑せざるを得なかった。  惠瓊は三成のあわてふためく姿を見て、ますます尊大に振舞うだろう。惠瓊が三成の大守になったように思えて、また嫌いになった。追っつけ殿の使者がここに駆け込んでくるだろうが、それまでふて寝をしようと思った。  三成と惠瓊は、清涼寺の方丈の一室で向かい会った。 「惠瓊殿、遠路、祝着でござる。いま、茶でも点てように」 「いや、気になされるな。疲れてはおらぬ」  惠瓊は深紫の衣を身に纏《まと》い、赤柄の大きな中敬《ちゅうけい》を手にしていた。それは、南禅寺の住持だけに着用が許されている法衣であった。  久し振りに会った惠瓊は、昔に較べると随分と身体の肉が落ちたように三成には思えた。年をあらためて聞いたことがなかったが、惠瓊の父武田信重の居城、安芸国|佐東銀山《さとうかなやま》城が落城したのが天文十年という。さすればその時幼児であった惠瓊は、六十歳を優に越しているはずであった。 「早速でござるが、それがし蟄居《ちっきょ》の間色々と考慮した挙句、やはり豊家のことを思うと、家康を討つために立ち上がることにいたした」  生まれきっての官吏である三成は、最初から単刀直入に本音をぶつけてきた。惠瓊はやはりという顔で三成を見ながら、何も答えようとしなかった。  二人の間を沈黙が包んだ。 「それがしに勇気がなかったばかりに、家康が片桐且元の大坂屋敷に泊まった時も、利家殿を見舞って藤堂屋敷に泊まった時も、切り込むことができもうせなんだ」  三成は何度か家康を討つ機会を自分の不慮で逃したことを、しきりに悔やんだ。  しばらくして惠瓊が口を切った。 「三成殿、そなたに誰が味方するのじゃ」 「まず五奉行の増田、長束、前田、それに小西行長、大谷吉継とは盟友でござる。直江山城守とは、家康と戦う時は共にと昨年、約束をしておる。後は毛利家を御住持の力で是非」 「直江兼継《なおえかねつぐ》は上杉景勝の家老、それで上杉百二十万石が動くとは限りませんな。いづれにしろ家康を除く、他の大老たちがそなたに与力しなければ戦にはなりませぬでしょう」  三成は興奮した声で右手で膝を叩いた。 「唐御陣《からごじん》の際でも、徳川の兵は一兵たりとも戦っておりませぬ。また太閤が亡くなるやいなや、天下を露骨に取らんと策謀の限りでござる。理は我等に有ると思われんか」  惠瓊はまた口を閉じた。  三成の大声が続く中、外で茶坊主が茶碗を持ったまま座敷に入れず立往生していた。しばらくして出されたぬるい茶をゆっくりと飲みほしてから、惠瓊は話始めた。 「そなたには敵が多過ぎる。豊臣家の恩顧の将でありながら加藤、浅野、福島、池田、細川、あとはそうそう加藤嘉明、黒田長政、じつに七将もそなたの敵じゃ。いくらそなたが理非を唱えても、家康殿は歯牙にもかけぬぞ」 「惠瓊殿、わかっておる。それ故、あのうつけどもを含めて、どうするかを聞いておる」 「天下取りの戦は私怨ではできませぬ。家康殿もそれを知って、そなたに賽《さい》を投げて待っておる。つまる所、天下は太閤亡き後、誰が取るかということ。単に理屈や、家康憎しだけでは人は動きませぬでしょう」  三成は秀吉への忠義がすべて善であると考え、小姓時代からひたすら奉公してきた。秀吉にとって、三成は得がたい忠臣であった。しかし秀吉の意向にすべて唯唯諾々と従う単純さが同輩、他人にいかに多くの災厄をもたらしてきたかを、まだ理解できていないようであった。  惠瓊はいま三成が豊臣家の為に旗を挙げても、誰も見向きしないことをよく知っていた。  目前の大きな額と小さな目を見つめながら、別なことを考え始めていた。三成の幼稚な思案では勝負にならない、しかし、過去の秀吉の天下取りはいわば僥行《ぎょうこう》の連続の結果であった。特に本能寺の変後の備中からの大返しは、毛利家宰相小早川隆景の好意なしには起こり得なかった。それにその好機をもたらしたのは、そもそも謀反人明智光秀がいたからこそであった。  天下の諸侯は、このまま徳川家康が何もしないで、天下取りになることを許すだろうか。とても、多くの戦国大名が素直に従うとは思えない。とすれば今一度、天下取りの戦を創ることができれば、それが則ち諸侯にとって参戦の大義名分になるかもしれない。  毛利元就や小早川隆景のない昨今の毛利家を思った。残念ながら、今の毛利家では天下を取る器量はない。しかし現宗主輝元を動かせば宇喜多、長宗我部、島津、大友、鍋島らの西国大名が集まるかもしれないと感じた。思った以上に面白い展開になるやもしれなかった。それに九州には黒田如水がいる、天下取りの戦は如水を味方にすればできるかもしれないと、惠瓊はふと感じた。  自分ももう若くない、僧としての奥儀は極めた。人生最後の大博打を打ってみるのも一興かなと、惠瓊は考え始めていた。はるか昔、毛利家に討たれた父や祖父の顔が浮かんできた。暗愚な毛利家当主輝元を利用するのも、許されるかもしれない。目を開けると前に、いらつく三成の顔があった。 「三成殿、この惠瓊、故太閤には一方ならぬ恩義をこうむった身。もはや欲もござらぬ。最後の奉公を豊臣家の為にお仕え申そう」  三成は驚くと急に両手をついて、禿頭を惠瓊の前に晒《さら》した。天下を語り、天下に忠言するに足る軍師は、安国寺惠瓊と黒田如水の二人をおいては無いと考えていただけに、惠瓊の同意は天にも昇る気持ちであった。  早速、三成は席を移して、惠瓊を佐和山城の本丸に案内した。城中で島左近が迎えた。左近は、三成の軍略を補佐する一番家老であったからである。  夕飼の膳を囲みながら、三人は家康討伐の案を練った。三成は食事中も常に大義名分を主張し、戦の戦術を忘れがちであった。一方、左近は現実主義で、いかに家康を倒すかしか考えていなかった。 「こ難しいことを考えるより、戦の前に家康を葬ればよい。国許に着く前に、宿を襲えば済むこと。それに関東に向かっている諸将の抑えには、大坂にいる妻子を人質にすればよろしいかと」  左近は酒を飲まない二人を前にして、明智光秀の本能寺襲撃を例に出した。あの時まさか信長が寝込みを襲われるとは、誰も思わなかった。左近の意見も一理あったが、 「光秀は信長を殺せたが、天下は取れましたでしょうかな、島殿」  惠瓊は、左近の暗殺計画を一蹴した。 「いづれにしろ、挙兵の大義の檄文《げきぶん》が必要でござる。ここはやはり大老毛利輝元殿を担ぎださない限り、天下取りの戦は起こせませぬ」 「相わかり申した。早速、諸国の大名に出す檄文を、この三成がしたためましょう」  三成と惠瓊の談合は、家康が上方を去った後、東福寺の茶室|作夢軒《さくむけん》で再び落ち合うことで終わった。  翌日、東福寺に帰った惠瓊は、長年住み慣れた塔頭の退耕庵《たいこうあん》で毛利輝元宛てに書状を書こうと、墨を擦りながら思案していた。石田三成が檄文を出す前に、輝元を大坂に呼び出す算段が必要であった。三成が首謀者では、慎重な輝元が動くとは思えなかったからである。  そこで会津攻めで大坂城を出た家康の代わりに、お拾いの補佐役として輝元を大坂城西の丸に入城させることを思いついた。そしてそれを五奉行の総意として、自分に依頼してきたという文意にすることにした。しかし五奉行といっても、実質は三奉行しかいなくなっていた。増田長盛、長束正家、前田玄以の三人で、石田三成と浅野長政は一年前に家康から奉行を罷免されていた。  惠瓊は毛利輝元だけでなく、五大老の一人である宇喜多秀家にも同じ文面の補佐役依頼の書状を出そうと思った。秀家は生前、秀吉がもっとも可愛がった養子であり、また武将として一番活躍している青年大名であった。  輝元と秀家が大坂城に入城すれば、あとは家康打倒の旗を立てることは訳のないことと長年の勘で計算していた。両家を合わせれば、五万以上の大軍を動員できる。  惠瓊は、退耕庵の前にある池の睡蓮の白い花を見ながらほくそ笑んだ。思った以上に大きな戦を仕掛けることができるかもしれないと、予感したからであった。   無 道  細川|玉子《たまこ》の居間は南蛮様式で統一されていた。畳の上には絨緞が敷かれ、その上に机と椅子が置かれ、仏壇の代わりに祭壇が作られていた。祭壇の中央には陶製のキリシタンのマリア像が微笑んでいる。  玉子が朝の礼拝を自室で済ませた頃、侍女のおいとが客の訪れを告げた。おいとは長年、玉子と子供たちの面倒を親身にみてきた忠実な下女であった。おいとの洗礼名はマリアである。 「ジュストさまがお見えです」  ジュストとは元豊臣家大名の高山右近であった。いまは剃髪して南坊《みなみのぼう》と号する茶人であったが、また知らぬ人のない熱烈なキリシタン教徒でもあった。  玉子は急に笑顔を見せて、 「白書院にお通しなされ、すぐに参る」  玉子は、夫細川忠興の付合う武将の中で右近が一番好きであった。山崎で父明智光秀と戦った敵にも拘らず、日和見で戦わなかった夫より、主君信長に忠節を尽くした右近に好感を持っていた。不思議なことにキリシタン教徒の上司でもあり、父の家臣でもあった右近と会っていると、きまって父光秀を思い出した。そして何とも言えない安らぎを感じることができた。  キリシタンの教理を右近から習い終わると、子供に帰ったように必ず父の様子をことつまやかに聞き出し、右近が閉口してもう話すことはないと言って、暇を告げるのがいつもの通弊であった。  あの十八年前の日々のことは、いまでも克明に覚えていた。  人間の悲鳴のような声が絶え間なく聞こえてくる。雨戸を今にも押し破るような雨風の音である。玉子は、湿った蒲団を顔の上に引き上げた。暗い、何も見えない。部屋は、夏でも蒲団をかぶらなければならないほど冷たかった。ここの冬は、きっと耐えられないほど寒いに違いない。冬まで、ここにいたくない。腹の児がきっと寒がるに違いない。  この夜寒で宮津城に残してきたお長と熊千代は、風邪を引かないだろうかと心配であった。玉子はここ十日間ばかりの慌ただしさに、何もわからずに流されていた。  いま一人になってみて、明智家の中で自分だけが取り残されてしまったことをあらためて意識した。悲しさは感じなかった。それよりもなぜ父、光秀や兄弟、姉妹がこの世から突然消え去ってしまったのか、納得できなかった。  玉子の夫長岡|忠興《ただおき》は備中高松の羽柴秀吉への加勢を中止して、急遽、宮津城に帰ってきた。義父の明智光秀が六月二日の早朝織田信長、信忠親子を誅したからであった。  城に帰るやいなや父藤孝は忠興に、玉子を離縁せよと冷たく一言いい放った。しかし忠興は、明智の実家の事情で愛しい妻と別れることはできなかった。すぐさま無断で妻を隠すことを考えた。二十歳の忠興が父に背いて、初めて自分の意思を実行した日であった。  すぐに自分の重臣である米田助右衛門と小笠原秀清を呼んで相談した結果、秀清の所領でもある奥丹後の御殿《みどの》に玉子を隠すことを決めた。  日暮前、自室に妻を呼んだ。 「玉子、わしもなぜ、お父上が信長公を討たれたのかわからぬ。しかし、わしの父は残念ながら明智に味方せぬという。それでも、わしはそなたと子供たちを離したくない。そこで事が一段落するまで、御殿で待っていて欲しい。必ず、そなたを迎えに参る」  忠興は興奮した顔で一気にまくしたてると、急に玉子を抱きしめた。  強く抱かれながら、夫の純愛さを愛しいと感じていた。不安を殺してすべてを夫にまかせようと思った。  若狭湾に面した宮津城三の丸の外濠の先は大手川が流れ、その先は北海の海であった。日没後、玉子はひそやかに船に乗せられた。玉子に付き従う供は侍女のおいとと霜の二人、男は小笠原秀清、それに明智家から玉子の輿入れに従ってきて長岡家の家臣となった金津正直、河北六右衛門の三人であった。  御殿までの道は船で宮津城対岸の日置《ひおき》まで行き、そこから四里の山道を上って行かなければならなかった。御殿は丹後の山奥のまた奥であった。  父光秀たちが山崎で戦い、敗れたことを付人の秀清から断片的に聞いて知ったのは、それから十日ほど後であった。信じられなかった。何よりも悲しかったのは、親戚である筒井家も長岡家も誰一人、明智家に与力しなかったことである。  父は一人で戦い、一人で負けた。戦に負けたことよりも、誰も戦場に顔を見せなかったことが、父には悲しかったのではないかと思った。落胆した悲しい声が聞こえたような気がした。  自分も、明智家の娘として死にたかった。でも一人だけ残った自分が子供たちを見捨てて死んでは、あの世で父から叱られるような気がした。それに、なぜか一縷《いちる》の望みを玉子は捨てられなかった。父や兄弟たちが本当に死んだとは、思えなかったからである。父の死が自分で納得できるまで取り敢えず生きようと、蒲団の中で覚悟を決めた。  長岡家に忠義心の強い供侍の米田助右衛門は明智家滅亡の後、暗に自害を玉子に勧めにきた。しかし、この際何と思われようと父の汚名を拭う為にも、あらためて生き続ける決心をした。 [#ここから2字下げ] 思いおく与謝《よさ》の浜辺に君しなくば 死出の旅路も安からましを [#ここで字下げ終わり]  玉子は父と遊んだ頃を思い、頭に浮かんだ歌詞を繰り返した。しかし、武骨な助右衛門にはこの歌の意味はわかるまいと、渡すことを諦めた。  玉子は秀吉から復縁を許されて、二年振りに御殿から大坂玉造の細川屋敷に移り住んだ。そこで初めて、夫が宮津の城に側室を持っていることを知った。夫は玉子が不在の間に、藤という側室に古保《こほ》という名の次女を生ませていた。  玉子には夫の背信と映った。側室を持つなら、なぜ自分を御殿などに幽閉して、離縁させなかったのか、夫の気持ちが許せなかった。また、藤が荒木村重一族の出身と聞き余計癇にさわった。長姉の範子《のりこ》が荒木家の息子新五郎に嫁ぎ、すぐに離縁させられていたからである。  玉子は、絶望と不信の狭間に揺れ動いた。その頃、キリシタン教で、離婚は神によって許されない、また自害も許されないという意外な教えを知った。その真理に玉子の魂は震えた。  それからキリシタンの教えに興味を持ち、教理を勉強したいと切に願うようになった。夫が島津征伐で九州へ下向した折、侍女の姿に扮装しついに屋敷を抜け出した。天満町にある念願のキリシタンの聖堂に入り、日本人高井コメス伝道師から教理を聞くことができたのである。  玉子は、心にあたためていた疑問を滝のように高井に浴びせかけた。問答が終わった時、ポルトガル人宣教師セスペデスに教徒になることを申し入れていた。  その後、夫から教会に行くことを禁止されて外出できなくなった。その代わりに侍女のおいとを教会に行かせ、説教をおいとから口写しで聞くようにした。  三年後、玉子は大名の室として、最も敬虔《けいけん》な信者の一人に変身していた。そして、玉造の自室で内密に洗礼を受けたのである。玉子は、宣教師セスペデスから洗礼名ガラシャを授かった。奇しくも、ガラシャになった天正十五年七月は、秀吉が伴天連《ばてれん》追放令を発した月でもあった。秀吉の決心を知って、逆に洗礼の決意を固めた玉子であった。  父を討った仇秀吉への憎しみは、天下人になったあとでも少しも変わらなかった。しかし洗礼を受けた日から夫は、何用といえど玉子が一切外出することを禁止した。正室洗礼の事実が秀吉に洩れては、細川家の断絶につながりかねなかったからである。  玉造屋敷での監禁は、御殿の幽閉の続きであった。このことによって二人の間には、越えられない溝ができた。父を殺された妻と、殺した相手秀吉に服従を誓った夫との相剋であった。そしてこのことによって、二人の夫婦関係は急速に冷えて崩壊していった。  白書院には、右近とすでに夫忠興がいた。右近は玉子の顔を見ると、優しい笑顔で会釈をした。高山家は摂津の茨木城、細川家は山城の勝龍寺《しょうりゅうじ》城を、織田信長に仕えた時代から居城にしていただけに、両家は近く親しい関係でもあった。  秀吉亡き後、忠興も右近もキリシタンの信仰を隠す必要がなくなって、久し振りに二人の振舞は伸びやかで明るかった。  右近が近づいてきて話しかけた。 「久し振りに大坂に参りました。忠興殿も近々会津にご出陣とお聞きしまして、ご挨拶にまいりました」 「これは、かたじけのう存じまする。右近さまも戦に行かれるのですか」  右近が武士をやめてからかなり長く経つだけに、また戦に出ると知って玉子は驚いた。 「亡くなった利家殿の恩返しに、最後のご奉公をする気持ちになりました。前田利長さまと同道するつもりです。しかし、もう刀の使い方を忘れてしまいましたわ」  右近は五十近い歳にも拘らず、その白いきれいな歯を見せて笑った。  細川家は、前田家とも姻戚関係にもあった。長男熊千代は元服して忠隆《ただたか》と名乗ったが、前田利家の娘|千世《ちよ》を嫁に貰っていた。 「利長殿はいつ発たれるのか」 「残念ながら、まだいつとは。家中では、もめておるようです。忠興殿はいち早く徳川に同心なされたが、利長殿はいつ発たれるものやら」  細川忠興は、上杉征伐の先鋒を大老徳川家康から命じられていた。秀吉の死後、すぐ家康に誼《よしみ》を通じたからでもあった。それは五年前の関白秀次謀反事件に端を発していた。当時、忠興は内々、豊臣秀次から大判百枚の借金をしていた。その返済処理に困った時、家康が快く内密に貸してくれたことで、謀反人一味の嫌疑から逃れることができたのである。それ以来、忠興は家康の恩情に深く感謝していた。  したがってまた、三男光千代をいち早く人質として江戸に送っていた。そのためか昨年功がなくても家康の専断で、豊後|杵築《きつき》に六万石を加増されていた。その恩義を返すためにも、七月初めの江戸城集合一番乗りを目指していた。兵も細川家としては、動員でき得る限りの五千人を引き連れて行く予定であった。  忠興の心中も屈折していた。その背景には、父與一郎に対する積年の鬱憤《うっぷん》が胸に刺さっていた。本能寺の変で明智家に味方せず、秀吉の家中として仕えたものの、禄高は織田信長時代のままで少しも増えていなかった。逆に天下を望まずして明智家を裏切り、妻玉子を悲嘆の底に追いやった悔いは、いつまでも忠興の心に澱《おり》のように溜まっていた。  家督を継いでからは、逡巡より決断と行動を最優先することで自分を救おうと考えていた。 「右近殿、それがしは明日、会津に忠隆を連れて先発するが、今日は茶でも点てるゆえ、ゆっくりしていかれ。茶席に織部と延俊も呼んでおいたので、おっつけ見えるだろう」  短気な忠興は、玉子と右近の話を途中で折った。茶道に関して忠興は若い時から雅人《みやびびと》である父與一郎から薫陶を受けた結果、才能を発揮していた。十六歳で織田信長の小姓として名物茶器の管理を任され、十九歳の時には正客に明智光秀、相伴に里村紹巴、津田宗及、山上宗二、平野道是ら当時の錚々《そうそう》たる文化人を前にして点前《てまえ》を務める技量があった。  しかし忠興は師と仰ぐ利休を、秀吉の我が儘で失うことになる。織部と忠興の二人は二月の凍りつく淀川で、利休と最後の別れをした因縁の仲でもあった。  木下延俊は忠興の妹、加賀の婿で播磨三木城二万石の城主であり木下勝俊の弟でもあった。なぜか、忠興と延俊は馬がよく合った。一緒に会津に出陣するつもりであった。 「右近殿、それがし不在の折、ガラシャをよろしく頼みます」  急に殊勝な顔で右近に軽く頭を下げた。その時、忠興はなぜかこのまま玉子に会えないよう気がして、妙に心細くなっていた。  玉子は初めてガラシャと呼んだ夫の、その顔を無言でじっと見つめた。   江戸へ  慶長五年の夏は暑かった。毎日、青空の中を、眩しい日差しが道を照りつけていた。豊臣家筆頭大老徳川家康の命令の下、全国の大名が江戸に向かって軍旅を続けていた。出陣した大名は、誰しもあの異国での戦いと会津攻めを比べていた。同じ日本人同志の戦いは久し振りだったが、気心を知っているだけに気楽でもあった。  先陣を切って乾いた東海道を進んでいるのは、この際、徳川家に恩義を売って、所領を増やそうと思っている大名たちであった。七年間の異国の戦いでは、米一粒の恩賞も豊臣家から貰えず、領主も領民も同じように困窮しつくしていた。  しかし多くの参陣大名にとって、会津は見たこともない遠国であった。兵糧は当然、自前で用意しなければならない。騎馬武者一人に甲冑持ち、槍持ち、馬口取、子荷駄、替馬、陣夫たちがつき従った。一ケ月の軍役としても兵千人を動かせば、米二百石、飼料の大豆三百石、運搬の駄馬二百頭が必要となった。それだけに、誰しもが功を挙げて恩賞を得ようと真剣であった。  総大将である徳川家康は六月二十一日に、桑名から船で三河の吉田城に入った。その船中、桑名と熱田に広がる七里の泥海を見て、いつの日かここを埋め立てようと心に誓っていた。 上方で危急の折、萬旅の軍勢が東海道を通ることができなかったからである。  かっての旧領に入った家康は、取り敢えず不意討ちの危険がなくなり安心していた。三河の領民はかっての城主家康をまだ慕っており、自国と変わりなかった。  吉田城で、江戸からの書状を受け取った。その手紙は、側近である天海僧正からであった。上杉征伐の拳を振り上げたものの、正直、どの外様大名を味方として信頼していいか皆目、見当がつかなかった。これまで豊臣大名との個人的な親交はほとんどなく、知っているとしてもその関係は秀吉が亡くなってから、大老としての二年ほどの間で生まれたものであった。  そこで家康は一計を案じて、この問題を天海に相談していたのである。天海僧正は、幼少より天台宗の総本山比叡山で勉学したという。家康は上方育ちの天海に、今後、徳川家に忠誠を尽くすと信じられる豊臣大名の名を占うように命じていた。  待ち望んだ答をすぐ見たいために、荒々しく上書きの封書を破り捨てた。  そこには黒々と太字で、 [#ここから2字下げ] 託宣 黒田甲斐守長政 長政は性質温和で忠誠心強く殿との相性吉なり 長政より父如水を動かせば更に大吉なり [#ここで字下げ終わり]  家康はしばらく考えてから、東海道を先に東上していると思われる黒田長政を探し、至急連れてくるように袰《ほろ》武者に指示した。  袰武者は「伍《ご》」の字を書いた大きな白旗を背に差して、吉田城を離れた。伍の字の袰は徳川家では戦時の使番が使用する旗であった。  翌日、家康は重臣の本多正信を連れて、懐かしい父祖伝来の三河の大地で鷹狩りを始めた。  正信はもともと家康の鷹匠《たかじょう》であった。鷹匠の持っている冷静、冷徹、忠義心、忍耐力、観察力などの資質が、鷹だけでなく人にも使えるのではないかと思い家臣に登用したいきさつがあった。正信の顔はなぜか鷹に似て眼光鋭く、痣《あざ》や皺で黒く醜かった。  その日鷹匠に戻った正信は、したり顔で右腕に勇壮な胸白の大鷹を止めたまま、家康の前に現れた。 「殿、この鷹は腹を空かしておるので、いい獲物を捕りますぞ」  鷹を、正信から自分の右腕に乗せ替えた。重かった。鷹の胸羽に左手を軽く差し込んだ。胸の肉が適度に落ちている。鷹は家康の行為にも微動だにせず、天の一点を見据えたままであった。  その時、かなりの天の高さを一羽の鳥が横切っていった。鳶《とび》のようであった。鷹と鳶の争いも面白いと思って、足の紐を外した。 「それいけ」  家康が、大声で鷹を大空に向かって放鷹した。鷹は、一目散に獲物に向かって飛翔して行く。しばらくして空中で黒い物体がお互いにぶつかると、二羽の鳥は回転しながら落下していった。  家康は、鷹の純粋な闘争心が心地良かった。いずれ自分にもあのような時が来ると、まだ見ぬ戦いを心待ちにした。 「殿」  本多正信のしわがれ声で、家康は我に帰った。前方から、一団の騎馬軍が草むらを分けて近づいてくる。黒糸|縅《おどし》の甲冑を皆、着用していた。幟の旗は紺地に白の藤巴である。 「黒田でござるかな」  それは、黒田長政が率いる一騎当千の旗本十二騎であった。家康は瞬間的に馬の乗り方を見て、長政は強き良き家臣を持っていると感じた。それに本人がすぐに現れたので、天海の占いを信じる気になった。  家康は供廻りに近くの陣小屋まで長政を案内せよと命令し、馬の向きを変えた。長政は家康派遣の袰武者に呼び止められて、急ぎ浜松から一昼夜で駆け戻って来たところであった。  家康と長政は、薄暗い陣小屋の中で向かい合った。長政は何事かと怪訝気《けげんぎ》で、不安そうな表情を隠さなかった。 「ねねはどうかな」  長政にとって新妻ねねの話は、糸との苦い別れを思い出させた。ねねとは家康の養女で、長政がこの六月六日に、継室として祝言を挙げた新妻であった。十六日には大坂を発ったので、新妻と口を交わす暇がまだなかった。  長政はすでに十七歳の時に秀吉の媒酌で、蜂須賀正勝の娘、糸と結婚していた。糸は当時十一歳でまだ娘にもなっていなかった。それから十八年の間、長政は糸を慈しみ四年前に待望久しかった娘の菊が生れた。  黒田家の大坂天満屋敷で、糸はただひたすら泣いていた。その前には夫長政と姑の光《みつ》が涙を押しころしていた。 「いと、許せよ。戦国の世の習い、この長政、家康殿に歯向かうはわが家としてはできぬこと」  父如水は秀吉が亡くなって暫くしてから、黒田家は今後、徳川家に随身すると告げた。隠居した父といえ、如水の言葉は家長として絶対的なものであった。  家康は早速、黒田家の忠誠を試すために家臣保科正直の娘を養女とした後、長政の継室として糸を送りこんできた訳であった。  長政が何と言ってなだめても、その細面の顔から泣き声は終わらなかった。糸は、黒田家の家風をよく知って泣いていたのだ。普通の大名であれば離縁しなくても済むことが、黒田家では義父が敬虔なキリシタン教徒だけに二婦を持つことを許さなかった。長政はそれを知って、二者択一をしなければならなかった。  糸にとって離縁されることはまだ我慢できたが、唯一人の娘菊を黒田家に置かなければならないことに納得できなかった。 「菊は私の娘でござります。娘の子分けは母親が引き取ることが、習いではありませんか」  しかし、家長の如水は黒田家唯一の孫を外に出すことを禁じた。 「いと、菊は私がそなたの代わりに母親として育てるゆえ許してたもれ」  いつしか、光の頬にも一筋の涙が落ちていた。  家康は長政の苦衷を察してか、すぐに話題を変えた。 「長政、そなたは西国の大名には詳しいと聞いておる。われらが会津征伐で上方を留守にしている間に、不逞な輩が事を起こすかもしれぬと懸念しておる。ついては、そなたの父御にしっかりと西国大名どもを押えてもらいたいと思って、道中呼び戻した次第だ」 「左様なことでございましたか。早速、それがしから父に申し渡しましょう。多分、まだ上方にいるころだと思われますので」  長政はこの際、家康の本音を知りたかった。もし事を起こすとすれば家康嫌いな石田三成がその首謀者の一人になるだろうとは推測できたが、他のどの大名が助勢するのか見当がつかなかった。 「して、どの大名と話をすればよろしいと」 「うむ。中国の毛利、吉川、それに九州の小早川と鍋島かな」  確かに家康の名指した大名はまだ逢坂の関を越すより、国許を出発したかもさだかでなかった。それに九州には大友、小西、加藤、島津とまだ強力な戦国大名が控えている。これらの軍団をもし敵方が纏《まと》めきることができれば、家康にとっては空恐ろしいことになると思った。  長政は頷くと、また馬の踵を返してすぐに自分の本隊を追った。如水に、この事情をうまく伝えなければならない。父が西国勢を徳川方につけてくれれば、戦功がなくても黒田家には恩賞がもらえるだろう。自分は東上する大名共を纏めてみよう、と思った。  出雲国月山の山頂に富田《とだ》城があった。かつて尼子氏の居城であったが、毛利元就率いる毛利軍が宿敵尼子家を撃ち破り、それ以来、毛利三家の一つである吉川家の治める城となっていた。  城の前面を飯梨川が流れており、中海の湖に注いでいる。峻険な断崖の月山の中腹に、三千坪にも余る平坦地があった。そこは山中御殿平と呼ばれ、石垣で囲まれた吉川家の広大な屋敷があった。  その年、吉川家当主の広家は四十歳になっていた。折しも吉川家も、上杉征伐のために自家の軍団五千の出兵準備に大忙しであった。広家もまたこの戦に功を立てることを内心深く誓っていた。なぜなら、吉川家の領土は父の時代の十二万石から少しも増えていなかったからである。いまでは本家の毛利家、叔父の小早川家の禄高にはるかに及ばなくなっていた。最近では、毛利輝元の養子分家である毛利秀元にも追い抜かれる始末であった。  出陣しようと思っている矢先に、黒田如水の使者が富田城を訪れた。如水と聞いて、広家は気分が急に軽くなった。胸襟《きょうきん》を開いて話ができるのは、毛利の身内より父と思っている如水であった。  広家は、秀吉の養女を妻にしていた。養女というより、宇喜多秀家の姉である。秀家自身が幼くして秀吉の養子になっていたので、自然と姉の容光《ようこ》も養女になっていた。その容光を出雲に連れてきて媒酌の労を取ってくれたのが、如水であった。  父元春を亡くして当時失意の底にあった広家にとって、媒酌人として現れた如水は誰よりも心強かった。その知謀知略は、祖父毛利元就を彷彿《ほうふつ》させた。そして何よりも共鳴できたのは、如水も秀吉から嫌われているということを知ってからであった。  期せずして、秀吉の形見分けを何ももらえなかった大名は、吉川広家と黒田如水の二人だけであった。披露宴の最中に、広家はすぐさま如水を父と仰ぐことを申し入れた。それ以来、実の親子のような親密な交際が続いていた。  使者は荒木平太夫であった。武骨な腕で袂から厚い書状を取り出すと、広家に手渡した。 広家は痩せぎすで細面な顔の表情を変えずに、平太夫の目前で静かに書状の封を切った。 [#ここから2字下げ] 謹啓 広家殿には壮健で大慶至極 それがし上方より帰国中ながら至急筑前小早川金吾中納言秀秋殿に伺候仕る故 出雲富田にお伺い出来ず残念至極なり候 家臣平太夫に届けさしたるこの書状で失礼つかまつり候 [#ここで字下げ終わり]  そこまで読んで、正座のまま控えている平太夫を見つめた。 「それがし、下がりましょう」 「構わぬ、如水殿はいま、どこにおられる」 「多分、いまごろは広島の沖あたりかと」  船では追いかけるわけにはいかぬと、広家はそのまま書面に目を落とした。 [#ここから2字下げ] この度家康殿の上杉攻めは天下取りを目指しての戦に候 しかしながらこのまま徳川殿の天下になるとは思えぬ昨今 天下分け目の大戦も起こり候 毛利家の興廃は貴殿の双肩にあり 豊臣の実権はいまだ高台院殿にあり 淀殿にはあらず 軍旅中家康殿への用件はすべて愚息長政が仕る故 ご懸念なく体を労られ戦功を挙げられることをご祈念申し上げ候 吉川広家殿 慶長五年六月吉日 黒田如水 [#ここで字下げ終わり]  広家は、如水の好意あふれる手紙に感動していた。  周防灘を越えて玄界灘に船が入ると、強い北西の風が急に吹き始め、舷側を白波が覆った。  如水は船室で寝ころびながら、これほど揺れるなら小倉で降りて、馬で名島まで行くべきだったと、込みあげる嘔吐を抑えながら思った。あと半日は耐えなければならない。目をつむりながら、人生最後の大博打を成功させるためには、船酔いは大事の前の小事と割り切った。  その時、わずか三年前に、この玄界灘で溺死した次男の熊之助の悲哀を思い出した。如水と長政が慶長の役で再度朝鮮に渡った時、遅れて生んだ十六歳の熊之助が無断で二人の後を追って、難破したのであった。 「熊之助、許せよ」  子供思いの如水は、秀吉の無益な二度目の朝鮮攻めを逆恨みした。今回旅立つ前に、長政からは早飛脚の書状を大坂の黒田屋敷で受け取っていた。依頼状を読んで、来るべきものが遂に到来したと内心小躍りした。まして家康が息子に大事を打ち明けたということが、何よりも嬉しかった。  家康の心境がわかれば、後の手は簡単であった。船の揺れに辟易《へきへき》しながらも、あることに急に思い当たった。そう言えば、昔の家康はこのような謀略はしなかったはずである。太閤が死んでからのこの二年間に、家康の挙動は全く別人のように変化していた。  今回、奇妙なことに、上杉征伐の正式な出陣の触書《ふれがき》は廻状されてきていない。大老家康が具体的な指図を各大名にしなかったことは、上杉征伐を口実にどの大名も公然と軍を動かし、徒党を組むことが至極簡単にできることになる。結果として、家康は各大名の分別を知ることができるではないか。誰か背後に知恵をつけている人物がいる。あの鷹匠あがりの本多正信などの悪知恵ではない。もっと優れた知謀知略を駆使できる男がいる。如水の身体に鳥肌が走った。  如水は大坂黒田家の天満屋敷を出る前に、妻の光に一つのことを言い渡していた。光は今年五十歳になるが、他の同年齢の女性に比べて若かった。二人の過ごした時間が短いからか、或はキリシタン教徒からか、光はいつも柔和でさわやかな顔立ちをしていた。 「みつ、近々また天下分け目の戦が始まる。そなたは決して敵の人質になるな。この屋敷を出て中津へ帰ることができなければ、ここで生害せよ」 「敵は誰でござりますか」  光の問いは当然であった。会津の上杉が、まさか大坂まで攻めて来るととは思えなかったからである。如水は苦笑しながら、 「みつ、この屋敷に参って、そなたを連れ去ろうとする者がわれらの敵じゃ。まだ敵は誰だかわからぬ」  光は笑いながら、手で口を押さえた。 「敵もわからぬとは、また悠長な戦でござりますな。あいわかりましてござります。決して、あなたや長政にはご迷惑はおかけしませぬ」  船が筑前湾に入ると急に揺れが止まった。文月《ふみづき》に入った最初の日、如水と家臣吉田利長が名島港に降り立った。  如水はまだ揺れ動く身体も構わずに、早速、名島城に向かった。城の周囲には幟、旗差物が林立し、すでに出陣準備が整っているように見えた。かろうじて出陣前に間に合ったことで、船酔いの苦しさを忘れた。城のあちこちに見える軍勢は、軽く見ただけで一万は優に越していると見当がついた。小早川軍が敵になるか、味方につくかで、これからの戦の趨勢《すうせい》は大きく変わるような気がした。  黒田如水という名を告げると、警護の兵士たちはすぐに道をあけた。如水は、当主小早川秀秋の生みの親でもあったからである。  本丸の書院で、如水は小早川秀秋と面会した。家老の稲葉正成と平岡頼勝、それに毛利家付家老の田辺権太夫がその場に同席した。秀秋は出陣間近にも拘らず、その青白い顔からは戦意は少しも感じられなかった。できれば行きたくないという顔で、如水を迎えていた。 「ご出陣前に一度ご挨拶と思いまして罷り出ました。上方から帰国する折、高台院さまより金吾殿に、よしなにという言づけを聞いてまいりました」 「かたじけない。母上は息災か」  秀秋は酒を飲んでいるのか、言葉は明瞭ではなかった。 「道中京を通ることゆえ高台院さまは、僅かでも金吾殿にぜひ会いたいと申されておりました」  秀秋は一瞬顔を曇らせた。養母である高台院には若い日に可愛がってもらっただけに、自分が武将としてその期待に添えなかった後ろめたさが高台院を心情的に避けようとしていた。  秀秋は子供の頃から戦場の人々の荒々しさ、血や汗の匂いがたまらなく嫌いであった。当然のことながら刀の冷たい鋼《はがね》色を見ると、なぜか恐くて刀を投げ出したくなった。或は逆に自虐的に、人を切ってみたくなる衝動にかられることが恐怖であった。  家臣たちは、そのような秀秋の繊細で内面的な心の動きには全く無頓着であった。ただ意気地がなくて、落ち着きのない主君としか見えていなかった。 「わかった、必ず寄ることにする。如水、用向はそれだけか」 「さようでござる」 「大義であった。平岡、如水殿に馳走せよ。それがしは風邪気味ゆえ、失礼する」  秀秋はそう言うなり、席を立った。 「如水殿、出陣間近ゆえ何のもてなしもできませぬが、次の間に膳を用意してござる」  平岡頼勝が慇懃《いんぎん》に如水を誘った。頼勝はもともと黒田家の家臣であり、当主秀秋が木下家から小早川家に養子縁組の際から目付役として小早川家に仕官していた。  二人の家老にとって、これから起こるであろう奥州の戦は朝鮮よりもはるかに遠く、理解のできない戦であった。小早川家を守るために、如水の知略と助言がいま必要であった。 「如水殿、上杉との戦、ちと大迎すぎませぬか。家康殿が太閤の小田原攻めの真似するのも似合いませぬが」  稲葉正成が歯に衣をきせずに、如水に問いかけた。正成は美濃の出身で土豪大名稲葉家の養子であったが、義父一鉄に似てどの天下人に迎合もしない侍気質を受け継いでいた。 「家康殿の上杉攻めは、狐をあぶり出すための囮《おとり》であろうよ」  如水がそう答えると、頼勝が瓶子《へいし》から酒を如水の盃に注ぎながら聞いた。 「狐とは誰でござるか」 「まだわからぬが、いずれ尻尾を出すだろう」  正成と頼勝はお互いに顔を見合わせた。 「して、小早川家はいかがすればよろしいと」 「水は高き所より易き所に流れるがごとく、天下も同じこと、上から見れば難しくはない」  如水は禅問答を続けた。 「もしお家にためになることあれば、関東では長政を通じてお知らせ申す」  二人の家老は、如水の言葉に素直にうなずいた。過去、如水の采配で間違っていたことはなかったからである。二人にとっては天下の帰趨《すう》よりも、小早川家の行く先の方が大事であった。  如水は膳に出された紅黒色の唐墨《からすみ》だけに箸をつけていた。太閤が玄界灘で取れる鰡《ぼら》から造ったこの唐墨を、ことさら好んでいたことを思い出した。黄泉にいる秀吉は、もはや食せないのかと、憐憫《れんびん》の気持ちがわいた。  しかし家老たちは、如水が珍味の唐墨を食べ過ぎることに気をもんでいた。  黒田如水が名島城を去ると、入れ違いに一つの駕籠が城門の前に横づけされた。恰幅の良い初老の商人と見える男が、駕籠から降りようとしていた。草履を地面に置くと、かくしゃくとして足の親指に力を入れて立ち上がった。男は、上質の博多紬の着物を粋よく婆裟羅《ばさら》風に着こなしていた。  その年還暦を迎えたばかりの、博多の豪商島井|宗室《そうしつ》であった。宗室は朝鮮との戦を機に、参陣大名の困窮と引き替えに巨万の富を築き上げていた。特に兵站《へいたん》奉行の石田三成に取り入り、戦に必要な資材、武器の調達をほとんど一手に引き受けたのである。  宗室は稲葉、平岡の二人の前に愛想顔を見せていた。 「いよいよご出陣とお聞きし、ご機嫌伺いに参りました」 「宗室、いい所に参った。そなたが用立をしてくれたお蔭で、遠い会津まで行くことができる。しかし当家には金がない故、恩賞を必ず貰って参るから、それまで楽しみに待っておれ」  正成が無作法に宗室に切り出した。 「いえいえ、この宗室、先代の隆景さまには昔からえろうお世話になっておりますたい、こげんこと当然でござります。お隣の黒田様に負けぬよう気張ってくだされ」  小早川家は慶長の役で、秀秋が総大将となったために二万人を越す大兵を朝鮮に送り続け、手持ちの軍資金はとっくに消耗し尽くしていた。当主秀秋はまったく関知していなかったが、小早川家の台所は破産的状況にあった。宗室に言わずもがなで戦功をたてる以外に、二人の家老にとって小早川家存続の道はなかったのである。  宗室は長年の勘で、今度の戦で毛利一族には何が起きても不思議でないと思っていた。隣国の豊前の黒田長政は一ケ月も前に江戸に向かって発っているのに、小早川家はまだ出立していない。秀秋が江戸に着く頃には戦は終わっているかもしれないと、応対の遅さに人ごとながらいらついていた。毛利家を支えた小早川隆景、吉川元春の両川《りょうせん》の長老がいない今、代変わりした毛利輝元、吉川広家、小早川秀秋らで、徳川家康を始めとする一騎当千の大名たちにうまく対抗できるか、正直、不安であった。   決 意  江州佐和山城の大手門は、中山道と北国街道の分岐点に向かって位置していた。琵琶湖以西に位置する大名は、この佐和山城をいやでも見ながら通らなければ関東には行けなかった。したがって城主石田三成は、毎日どの大名が何名の手勢とどのような武具を持って東上していくかを、逐一知ることができた。  七月一日、越前敦賀城主で五万石を領する大谷刑部少輔吉継が千五百名の兵を率いて、同じ越前|安居《やすい》城主一万石戸田勝成の三百の兵と連れだって、佐和山の麓の湖東路を通ろうとしていた。  三成は天守閣から大谷軍団の赤一色の吹貫《ふきながし》を遠望するなり、使いの袰《ほろ》武者を走らせた。  一方、大谷吉継は佐和山城が見えてから厭な予感を感じていた。三成が必ず城に立ち寄れというのではないか、という恐れであった。しかし、皮膚病がひどくなってからもう五年近くも、三成に会っていないことを思いだした。最近では、この悪疾のせいか両目も良く見えなくなっていた。昔話を肴に三成と一献傾けたいとも思ったが、江戸へ一日も早く着きたいという思いが、本心先だっていた。  吉継は、この上杉攻めを生涯最後の戦いにするつもりでいた。本来なら長男義治と次男頼継を代理に会津へ送ればよかったのであるが、内々十二万石加増の話を家康から受けていた。したがって自分がこの戦に参戦しなければ加増はないと、病を推して出陣してきていたのである。  案の定、三成は忠臣の樫原彦右衛門という使者を送ってきた。樫原は主君石田三成の嫡子重家を会津に同道して欲しい故、佐和山の城に迎えに来られたいという口上を丁重に繰り返した。  吉継はここにて待つと返答したが、彦右衛門は口上を続けた。しかし病で弱った体は断る前に根気負けした。三成の固い意志が、彦右衛門を通して見えたからであった。あの男は自分が佐和山城に顔を見せなかったら、きっと江戸までも追いかけてくるに違いない。  吉継は仕方なく、合流した美濃垂井の城主平塚為広と息子義治に先導させて、駕籠を佐和山の城に向かって進ませた。  城内で待っていた三成は、すべてをさらけ出した人間三成であった。 「紀之介《きのすけ》、悪いな。どうしてもそなたに話がしたくてな」  三成は、吉継が近江長浜で、秀吉に初めて仕えた頃の呼称で親しげに話かけた。二人は共に長浜育ちの幼馴染であった。 「佐吉、道を急いでいる。そなたと暇つぶしをしている暇はない。何用だ」  吉継も、三十年前の名前で三成を呼び返した。佐吉は長浜城主の羽柴秀吉に仕官後、紀之介を秀吉に紹介した謂れがあった。 「紀之介、江戸には行くな。わしは家康を撃つことにした。わしと一緒に戦ってくれ」  浅黄色の絹布で顔を隠した吉継の眼だけが異様に光った。 「佐吉、太閤はもはやいないのだぞ。いつまで世迷言《よまよいごと》を言っているのだ。次の天下は家康だ。そんなこともわからんのか」  三成は吉継の声高な至言にもかかわらず、あくまでも平静だった。 「紀之介、太閤が亡くなった日を覚えているか。身内の誰にも看取られず、その夜の内にわしと前田玄以の二人で、太閤を背中に担いで伏見城を出たことを。いま思い出しても、胸が張り裂けそうだ。殿は悔しかったと思う。誰も見送られずに葬られたとは」  小雨の降る暗い夜、京の阿弥陀ケ峰にある急造の墓に秀吉を葬った。当時、秀吉の死は誰にも口外できなかった。何万という朝鮮にいる将兵の帰還の生死がかかっていたからである。 「紀之介、今のそなたに誰がしてくれたのだ。このまま家康に尻尾を振っていって、武士の義理が立つのか。お主は、家康の天下取りに易々と手を貸すのか。太閤殿下が死ぬ時に何度、誓紙を諸大名から取られたのか。殿が秀頼を頼むと、涙ながらに言われたことを忘れてはおるまい。三年の喪も明けぬというのに、もう豊臣家を見限るのか」  吉継も、五大老に宛てた太閤の遺言はよく知っていた。 [#ここから2字下げ] 秀頼事成りたち候ように 此の書付の衆としてたのみ申し候 なに事も此のほかにはおもひのこす事なく候 かしく [#ここで字下げ終わり]  三成は悪疾で包帯が巻かれた吉継の手を構わずに握って、一人、悲憤慷慨した。吉継は、そのまま眼をつぶりながら沈黙していた。三成の言葉を聞いているのかどうか、わからなかった。  吉継は、主君秀吉との数々の出会いを思い出していた。太閤は死ぬ一年前に、わざわざ伏見の自宅に病気見舞いに訪れてくれた。あの頃は、自分よりも早く身罷るとは夢にも思わなかった。  最後の対面は伏見城の書院であった。やせ細った太閤が最後の力をしぼって半身起き上がると、菓子を盆から箸渡しで、豊臣恩顧の諸将に手渡してくれた。  何番目かに「紀之介」と呼んだかぼそい声が、いままた吉継の耳に響いた。その時、凡人的な世渡りが間違いだったと気がついた。この身はあと一年ともたぬだろう。同じ朽ち果てるならこのまま家康に臣従するよりも、ここで太閤の恩顧に報じて家康と戦うのが、武士の義理ではないのか。戦場で大谷吉継ここに有りと、末代まで名を残す道の方が自分に合っていると感じた。  吉継は目を開けて、三成を見つめた。 「佐吉、しばらくこの城に逗留させてもらうぞ。頑固者の戦振りとやらを、ゆっくりと聞かせてもらおう」 「紀之介、かたじけない」  三成は紀之介の前に平伏したまま、頭をいつまでも上げなかった。  夕日が竹生島《ちくぶじま》に落ちようとしていた。半円の赤い日が、空と雲を茜《あかね》色から金色に染めようとしていた。三成は、目をそのまま目前の松原内湖に向けた。水鳥が最後の魚を追って、首から暗くなった湖水に消えていった。自宅のモチノ木谷から、こうして夕方の琵琶湖の景色を見るのが楽しみだった。つらかった務《つとめ》の事も、一瞬といえど忘れることができた。  三成は久し振りに城内の敷地にある竜譚寺《りゅうたんじ》の茶室|果然室《かねんしつ》で茶を立てていた。相伴は正室の藤子であった。 「あなたからお茶を頂けるのは、何年振りのことでしょう」  目鼻立ちのすっきりとした藤子は、明瞭な言葉使いで自分の意思をいつも表現した。十五歳の年から秀吉に仕え、昨年三月に家康から蟄居《ちっきょ》を命ぜられるまでの二十五年間、確かに妻の言うように、日夜なく働きずめであった。  この一年間の休養は、いままでのすべての垢を掻き落としてくれたようであった。昨秋には久し振りに紅葉を見ながら、世俗を忘れて歌を詠めるほど余裕が持てるようになっていた。 [#ここから2字下げ] 散残る紅葉は殊にいとほしき 秋の名残はこればかりとぞ [#ここで字下げ終わり] 「藤子、今宵、父上と兄上、それに直盛に、わしの存念を話して、お許しを頂くつもりだ」  三成は突然、真剣な顔で藤子を見つめた。 「わかっておりました。この一年、あなたにとっては屈辱の日々だったかもしれませぬが、私にはとても幸せな毎日でした。いつもあなたが家にいるのは婚礼の日以来ですものね」  藤子は、明るく茶を飲みながら笑った。  三成は前年三月、豊臣七将の襲撃を受けた結果、家康の勧めで五奉行を辞めて佐和山に蟄居していた。しかし逆にこの閑居の一年間を利用して、周到に家康討伐の軍を起こすことを起案していた。長女浜子の夫熊谷直盛は豊後安岐一万五千石の城主であったが、今は佐和山城にいて三成の良き参謀になっていた。 「明日は長堯《ながたか》、それに貞清もこの城に見える」  三成は、親族全員に自分の思いを知らせるつもりで佐和山城に呼んでいた。福原長堯は、三成の妹とよを嫁にしていた。但馬豊岡三万石の城主であった。尾張犬山一万二千石の城主石川貞清は次女|珠子《たまこ》の夫である。 「それは、ようござります。とよも珠子も来られれば、よろしいのにな」  藤子は、男達の生臭い野望を絶つように静かに呟いた。  二日後の七月十日、朝日が大地を覆い、どこまでも空は青かった。しかし、佐和山の山並みはまだ冷えていた。夏にもかかわらず、その大気は肌に緊張をもたらす冷たさであった。  三成は一年ぶりに京へ向かって、佐和山城の朱色の大手門を騎乗のまま出立した。昨晩、京の惠瓊から毛利輝元と宇喜多秀家が大坂城に入るという知らせを受けたため、急遽、佐和山城を飛び出した訳であった。  供は島左近、蒲生|郷舎《さといえ》と旗本近習三百名ほどであった。記念すべき、石田三成旗揚の旅立ちである。団扇九曜《うちわくよう》の紋に金の吹流しをつけた白旗を先頭に立てさせ、すべての武将には金の吹貫の腰印をつけさせていた。  家康打倒の戦を起こす三成の動議に、父石田正継、兄の正澄以下すべての親族、重臣が快く了承してくれていた。そのことも、三成の心を今日の空のように軽やかにしていた。  馬上の三成には、家康に勝てるという信念があった。大谷吉継の知恵も得て創った戦略には格別の自信があった。それは家康が不在の間に、先ず上方で西国大名を豊臣の傘下に置くことであった。 「左近、さわやかだな。大坂も同じ天気だといいがな」  左近は深い大きな深編笠をかぶっており、顔は三成から見えなかった。三成が一年振りの上洛で上機嫌なのを感じて安堵した反面、これから相性の悪い惠瓊と会うのかと思うと気が重く、左近はその言葉に答えなかった。  三成は、顔も見たくないほど嫌いな家康がこの上方の空の下にいないという現実に小躍りしたいような嬉しさを感じていた。一人、馬上で愉快気に思いをめぐらしている間に、いつしか一行は京の入口、瀬田の大橋に到着していた。  橋の向かいの渡り口で、数十人の侍の一団が誰かを待っているようであった。三成は、それが奉行仲間の増田《ました》長盛と長束《なつか》正家の二人であると見分けるまでに、さほど時間はかからなかった。  増田と長束は三成と同じ近江の出身で、長年、三成の配下として近江の検知などを一緒に手伝ってきた関係であった。秀吉の逝去時には、増田は大和二十万石の郡山城主、長束は近江|水口《みなぐち》城主五万石の大名に出世していた。  家康が出陣した後に蟄居していた三成が一年振りに上洛することを知った三人の奉行は、大坂城で家康のお先棒を担ぐより三成をこの際復権させて、豊臣家の采配を委せた方が良いと考えた。そこで前田玄以を大坂城に残して、増田と長束の二人は、三成の野望も知らずに堂々と瀬田の橋まで迎えに出た訳であった。  前年、三成が奉行を罷免されて大坂城を出た後、残された増田長盛にとっては、気心の知れない家康とのやり取りは正直荷が重かった。尾張の時代から長年秀吉に仕えた長盛にとって、実際の家康は地味で面白味に欠ける人物としかうつらなかった。茶道などの数寄の趣味もなく、ただただ倹約を百姓に強要する、小うるさい村長《むらおさ》のようにしか見えなかった。  それに豊臣家筆頭大老の家康の采配はどう見ても、自分が太閤秀吉に変わって天下を取る施策としか見えなかった。すでに五奉行は三奉行に減らされ、五大老は実質三大老になっていた。死んだ前田利家に代わって大老になった前田利長などは、一度も大坂城に顔を見せたことがなかった。  今度の唐突な大老上杉景勝の討伐も、景勝が上洛しないからといって、それを咎《とが》めるには無理があった。上杉家は秀吉が死ぬ七ケ月前に越後から会津に移封されたばかりで、新領国の仕置に忙しく上洛する暇もなかったのである。他の大老毛利輝元、宇喜多秀家も、同じく自国に帰ったままであった。家康の理屈は、毛利、宇喜多家の討伐にも通じることになる話であった。 「出迎えご苦労、久方ぶりだな」  三成は東福寺の惠瓊と謀議をするために京を目指していたが、二人の奉行が大坂城からわざわざ瀬田橋まで来て自分を迎えに待っているとは夢にも思ってもいなかった。これからの大事を興す前に、二人の奉行の実直な態度は万軍の援兵であった。  一方、島左近は三成を迎えに来た豊臣奉行の腰の座らない態度を冷ややかに見ていた。政《まつりごと》の細々とした仕事には役立つかもしれないが、とてもこれからの徳川との戦の役には立ちそうもなかった。逆に怖じ気づいて戦場では平気で裏切る性格のように思えた。ただ奉行たちの前で、左近は一つの腹案の成果を何気なく心待ちにしていた。   東 進  家康は六月二十日の夜、四日市から船に乗った。波はなく、久し振りに何も考えずに、家康は船の中で熟睡した。明日は三河古河に着く。もう、家に帰ったのも同然だった。  しかし、その安心感も三河に着くなり、慌ただしく血相を変えて待ちうけていた自家の侍たちの怒声で、簡単に壊された。  浜辺には、二人の若い大名が家康を待っていた。浜松城主の堀尾忠氏と三河刈谷城主の水野勝成であった。あらためて二人の顔を見ると、病気のような青い顔をしていた。瞬間的に、何かがあったなと推察した。案の定、二人の口から発された言葉は家康を絶句させた。 「じつはわが父、水野忠重は昨十九日|池鯉鮒《ちぶり》の邸におきまして、加賀井|重望《しげもち》と口論をいたし重望が刃傷《にんじょう》に及び斬り殺されました。ただちに、それがしの家臣が重望を成敗いたしました次第」 「わが父、堀尾吉晴も同席の折、重望に切られましたが命だけは取りとめ、申し訳ござりませぬ」  堀尾吉晴は、秀吉が決めた三中老の一人であった。豊臣家の五大老と五奉行の間を円滑に取り持つ役目であった。  家康は、織田信雄の家臣であった加賀井重望をよく知っていた。小牧の役で秀吉とよく戦い、美濃加賀井城の落城後に秀吉が一万石で召し抱えたほどの勇猛な武将であった。重望であれば、六十歳に近い堀尾と水野を殺《あや》めるのも難しいことではないと感じた。  家康は堀尾と水野のそれぞれに家督を継がせることを約束しながら、加賀井は自分を斬るためにひょっとするとここで待っていたのではないかと思えた。多分、その存念を知られた重望が二人を殺めたに違いない。伏見城での妖怪はこのことであったかと、あらためて家康は自分を納得させていた。  六月二十七日、箱根の山を越えて、家康一行は自領に戻った。相模の海はどこまでも青く、さわやかであった。家康ならずとも、暑さしのぎに一泳ぎしたくなる雰囲気であった。  藤沢に一泊後、翌日、家康は鎌倉の鶴ケ岡八幡宮に参拝した。上杉討伐の戦勝祈願ではあったが、心中はまだ見ぬ敵との戦いを意識していた。  家康は馬に慣れるために、鎌倉から厚木街道に入り、相模府中の草原では鷹狩りをして時を過ごした。久し振りに終日、馬上にあった。箱根の山々を越して、不二《ふじ》の霊峰が聳えたち、駿府側とはまた違った趣があった。相模の草原は江戸からも近く、獲物も豊富であった。いずれ、ここに鷹狩りのための屋敷も造らせようと考えた。  七月二日、家康は品川の宿に到着した。品川沖の風に乗って、潮臭い青海苔の匂いがしてくる。ようやっと自分の国に帰ったきた、という実感を持った。御殿山から品川の宿場町を越して見える江戸湾は広く、静かであった。大坂の海と違い、何か雄大でのびやかであった。  天下を取ったら、この江戸に大坂城に負けない城を造ろうと決心した。上方の土地はあまりにもせせこましく、いつ寝首をかかれるか分からない不安感で、少しも余裕が持てなかったからである。  家康は久し振りに江戸の町衆に、騎乗で顔を見せた。品川から江戸城までの二里の道は平坦な一本道で、乗馬に苦労はなかった。沿道には人が多数集まり始めていた。江戸の町人たちも、自分達の領主が太閤の次に天下人になることを知っているようであった。それを裏付けるかのように、毎日、全国から多くの軍団が江戸の町に着飾って入場してきていた。林立する軍旗を見ながら、江戸が京に変わって都になることを実感していた。  家康もまた、金扇の馬印と、厭離穢土欣求浄土《えんりえどごんぐじょうど》と書かれた白旗の旌旗《せいき》に囲まれて、得意気に行進していった。馬上で父祖伝来の旧領三河を捨てたことを、結果としては良かったと思えるようになっていた。江戸には、三河で悩みに悩んだ一向宗の門徒がいなかった。それに村々の統治は北条氏の治世によってうまく運営されており、年貢の徴収にもさして困難はなかった。改めて、北条氏には感謝しなければならないと思った。  家康は供侍の斉藤角右衛門を馬上から呼ぶと、小声で天海僧正を浅草寺から呼べと指示を与えた。  浅草寺は天正十八年に国替で江戸入国以来、徳川家の祈願寺となっていた。南光坊《なんこうぼう》天海はこの天台宗浅草寺の別当を務めていたのである。家康は江戸移封以来、天海に会って深く帰依《きえ》した。それは、天海が江戸を京に対抗できる都に造り変える能力を持っていると見たからであった。天海は、江戸の町を陰陽道《おんみょうどう》にもとづく呪《しゅ》の四神相応《ししんそうおう》で造ることを提案した。  四神相応で造られている都は京であり、故に天子は日本で君臨できていると説いた。江戸を玄武、青龍、朱雀《すざく》、白虎の四神から護られた都にすることで、家康は天下人になれると託宣した。  それを聞いた家康は黒い大きな目を輝かせながら、天海に問いただした。 「天海、もそっと詳しく話してみよ」 「四神相応とは、桓武天皇の御世に造られた平安京が良き譬《たと》えでござります。都の東には大河があり、南に池また海があり、北に山が、西に大道ある地を都と申します」 「まて。京は東に賀茂川、南に巨椋沼《おおくらぬま》の大池がある。北は鞍馬の山、西は淀川から山陽道に通じる。なるほど。では江戸はどうなる、天海」 「江戸は東に開いて隅田川、平川、利根川と多数ござります。南には江戸湾があり大海のごときありさま。北には江戸城の台地が相模、甲州の山々に繋がっております。西は六郷川を越えて、東海道を下れば日本一の不二の山に当たります。江戸の青龍は、京に住む龍の数倍の大きさを持っておることになるのです」 「なるほど」  家康は、天海の広大|稀有《けう》な発想にいたく感動した。江戸こそ、これからの都に相応しいではないか。太閤も、とんだ馳走をしてくれたものよ。いつしか家康には、都鳥の舞う蘆野原の江戸がこよなく愛おしいものに変わっていた。  さらに天海は、芝の増上寺を江戸の徳川家の菩提寺にすることを勧めた。もともと故郷三河の菩提寺である大樹寺《だいじゅじ》の宗旨は浄土宗であり、江戸最古の浄土宗の大寺が増上寺であったからでもある。それに天海は言われるまでもなく風水に基づいて、江戸城の鬼門にあたる艮《うしとら》の方角を浅草寺で守護させ、裏鬼門にあたる坤《ひつじさる》の方位に増上寺を当てていた。  江戸城に入ると、すでに天海は待っていた。家康は広縁の廊下を、大きな足音を立てながら居間に向かってきた。その入口に、天海は質素な墨衣を着て、正座していた。 「天海、久し振りだな。ようよう、わが家へ帰れたわ。しかし、これからが大忙しだがな」 「無事ご帰国祝着至極でござります。また早速お呼び頂き光栄でござります」  天海の顔は白い髭にもかかわらず若々しく、態度はどこまでも慇懃であった。 「天海、堅苦しい挨拶はどうでもいい。中に入れ」  家康は旧友に会ったかのように、中の座敷に誘い入れた。 「これからが勝負どこだが、天海、大坂方は間違いなく立つかな」 「殿、ご心配なさるな。大坂方が立たなくても、今回は一戦なくしておさまりますまい。どの大名も会津一国のために、遠国から金を賭けて参ってはおりませぬ」 「それもそうだ。長政は、そなたの見立《みたて》のように使えそうだな」 「じつはこの戦、何としても官兵衛を味方につけたかったものですから、息子の長政を動かした次第」 「官兵衛、ああ如水か。そなた、黒田官兵衛を知っているのか」 「左様、昔あの男にしてやられた思いがありますので、よう覚えております」 「天海をしてやったとは、官兵衛もよくよくの奴じゃの」  家康は、天海の過去半生をよく知らなかった。陰陽師の土御門《つちみかど》家の一門に生まれ、若い時に天台宗の総本山比叡山で修業をしていたとしか聞いていなかった。天海と黒田官兵衛の接点は思いつかなかった。しかし、家康はあえてその次第を聞かなかった。  如水という男は、何を考えているのかよく分からない策士であった。それだけに、あまり知己にはなりたくない人物と思っていたからである。 「しかしながら如水には、押さえが必要かと」 「いかがする」 「今国許に帰っております、熊本の加藤清正が好適かと。清正は会津にお召しにならずに、そのまま九州大名の布石にされた方がよかろうと存じます」  清正は、肥後半国二十五万石の豊臣家譜代筆頭の大々名である。どちらについても、その影響力は計りしれない実力を備えていた。天海の言うように、如水や清正のような危険人物は遠国に置いておくに越したことはないと感じた。 「殿、次は福島正則を味方につけねばなりませぬ。正則が上方勢につくと、ちと面倒かと」 「いかにも。あの男、難しいな」  天海は、僧帽の下から表情一つ動かさずに話を進めた。鼻下と顎には純白の髭が見事にはえている。目は澄んでさわやかであった。  家康は天海の開悟した柔和な顔を眺めながら、逆に気が重くなった自分を見いだしていた。福島左衛門大夫正則は尾張二十四万石の清洲城々主であったが、豊臣秀吉の子飼い大名の中でその発言力と武力はいま一番と思われた。正則が旗幟を決めない限り、他の東海道の三河、遠江、駿河の豊臣大名の動向も不明であった。万一、上方勢に与力すると、大坂に帰る道が塞がれることになると不安になった。  しかし天海は、またという言葉を残して、その場を去って行ってしまった。  七月七日、上杉討伐の第一軍が江戸城に集結し始めた頃、毛利家はようやっと大坂に向かって進撃を始めていた。毛利家の先鋒である吉川広家が五千の兵を率いて、出雲富田城を四日に出立していた。毛利本家は毛利輝元の名代として、毛利元就八男の元康が輝元の養子秀元と共に三万の兵を率いて、安芸広島城を七日に出発した。また毛利家の殿《しんがり》として、小早川秀秋は一万六千の兵を率いて山陽道を目指していた。久留米城主で元就の九男小早川|秀包《ひでかね》は四千名の兵を連れ、小早川軍に合流していた。毛利家が派遣する軍勢は、じつに総数五万を越す大軍に膨れあがっていた。  毛利の大軍が一路、大坂を目指して山陽道を東進しているとき、一人、広島城に残された宗主毛利輝元は無聊《ぶりょう》を囲っていた。毛利家の宗主になってから既に三十年の歳月が流れていたが、真の宗主として自立できたのは叔父の小早川隆景が亡くなった三年前からであった。  最近五十歳を目前にして無力感に苛まれていた。中国九ケ国百二十万石の大守でありながら、祖父や叔父のような華々しい戦歴がいままでなかったからである。そして今また上杉征伐で、自分より若い毛利家の身内たちが戦功を挙げようとしていた。嫉妬ではなかったが、戦場を駆けめぐれる秀元や秀秋がうらやましかった。  いつも総大将の役目を持たされ、秀吉と戦った備中高松城でも、島津征伐、朝鮮の役でも自分自身では軍議を決めたことも、戦陣を駆けたこともなかった。秀吉の死後も大老の仕事はすべて家康が仕切ってしまい、人が良く大人しい輝元に出る幕はなかった。  その日の広島は、けだるい暑さに包まれていた。留守の輝元は居室で、文机の上に数日間置かれていた安国寺惠瓊からの封書を何気なく開いた。文書を読みながら、思いがけなく胸が急に踊り始めた。それは大老家康不在の間、替わって大坂城西の丸への入城依願書であったからである。  筆頭大老家康に代わって、太閤秀吉が住んだあの大坂城に住めるかと思うと、自分が天下人になったような気持ちで素直に嬉しかった。輝元にはいずれ三奉行から来るであろう正式な招請状を待てなかった。惠瓊の手紙だけで充分であった。  安国寺惠瓊は輝元にとって特別の存在であった。元就は死ぬ間際に、十九歳の孫の輝元に毛利家を譲った。元就は細い息の下で息子の吉川元春、小早川隆景に輝元を補佐することを命じ、合わせて毛利家の菩提寺である安国寺住持の惠心《えしん》と、その弟子惠瓊にも遺言の証人になることを依頼したのであった。  それ以来惠瓊は毛利家の重要な会議、戦に常に同席、輝元を側面から応援してきていた。輝元にとっては師ともいうべき存在であった。  輝元は重臣の福原広俊をすぐに呼んだ。 「広俊、余は大坂に参る。早速、早船を仕立い。大坂城西の丸に入って、家康殿に代わって政務をみてくれという惠瓊からの使いじゃ」 「それは好都合でござる。殿が大坂城にお入り頂けば、家臣共も気丈夫でござろう。早船の支度、承知つかまつりました」  広俊は腰の曲がった後ろ姿を見せて、書院を去った。人の良い二人にとって、これから大坂で起ころうとしている大戦のことなど夢想だにしなかった。  同じ頃、二十四歳になった備中|美作《みまさか》五十七万四千石の若き当主宇喜多秀家は家中一万七千の兵を率いて、勇躍、山陽道を大坂城へ向かっていた。大坂の宇喜多屋敷には愛する妻、豪《ごう》が待っているからであった。それに岡山城にいてわずらわしい家政を見るよりも、戦地で戦っていた方がはるかに気分が良かった。  幼い時から猶父秀吉の寵愛を受けて育った秀家は自分を豊臣家の正嫡とも考えていた。したがって領内では豊臣秀家と称し、豊臣家の家紋である五七の桐を使うほどであった。  たしかに生前、秀吉は秀家を養子の中で誰よりも好んでいた。その証として、前田利家の三女豪姫を養女とし秀家に嫁がせたほどであった。幼いお拾いを除けば、秀家ほど豊臣家を護持するにふさわしい青年武将はいなかった。  しかし十年に渡る朝鮮の役は、宇喜多家にも深刻な財政難をもたらしていた。若い領主にはその意味がわからず、年貢を領民から取り立てればこと足りると過酷な重税を課すことも意に介さなかったが、結果として重臣たちと意見が対立、お家騒動までに発展していた。  秀家は上杉征伐を日頃の不満を晴らす好機と捕らえた。会津で武勲を立てれば、朝鮮と違って今度は恩賞を貰えると張り切った。領地が増えれば、宇喜多家を内紛で去ってしまった重臣の浮田左京亮や戸川達安らも、また戻って来てくれるに違いないと安易に考えた。しかし秀家も、大坂城内で徳川家打倒の謀略が進行しているとは露ぞ思わなかった。   上 坂  文月に入って、大坂の町は騒然とし始めていた。豊臣と徳川の天下分け目の戦が始まる噂で、町内は持ちきりであった。いつの時代でも、庶民の目は的確である。まだそれぞれの大名が旗幟鮮明でないにも拘らず、世の中は上方勢と徳川の一戦が避けられないものと見ていた。  主のいない大坂天満の黒田屋敷にも西、東から頻繁に飛脚が門扉を駆け抜けていった。留守番家老は黒田八虎と呼ばれた、八人の重臣中の栗山四郎と母里《ぼり》太兵衛であった。黒田如水は大坂を去るにあたって、一番家老の栗山と三番家老母里を大坂の留守居に命じた。二番家老の井上は、長政と一緒に東上していた。  異変の最初の注進は七月十二日に入ってきた。石田三成の兄、正澄が近江|愛知川《えちがわ》に関所を作り、東上する諸将を大老毛利輝元の命によって大坂城に連れ戻しているという知らせであった。  もともと七月に入ってから出発した大名の多くは、あまり戦う気は初めからなかったので、不審に思いながらも軍勢を大坂に戻していた。  翌日、豊臣三奉行が毛利輝元に総大将を要請したという話が栗山に伝わった。間違いなく何かが起き始めていた。栗山は母里を居室に呼んだ。  いつしか、大坂の大名屋敷の周囲には甲冑姿の侍たちが現れていた。それは三奉行から派遣された大名の妻子たちの動向を見張るための兵士たちであった。黒田家を取り巻いた兵は増田長盛の手勢であった。責任者と見られる侍が、威猛々しく門番に口上を大声で述べた。 「大坂奉行増田長盛さまからのお達しを伝える。戦が始まるゆえ、どの家中も一切外出はお控えくださるよう申し伝える。我らが日夜、警護仕る。また不安であれば、いつでも大坂城にはご案内仕る」  栗山と母里は顔を見合わせた。 「太兵衛、いよいよ大坂方が兵を挙げたようだぞ。一刻も早く光の方と、ねね姫を中津へお連れしなければならんとな」  母里は、栗山の心配をよそに髭もじゃの顔をしかめながら、 「なんでわしがこげんことで、女どもの世話をせんとばならんぞな。いままで先鋒を外さんこの太兵衛が留守番とは口惜しい。殿も若殿もわしを何と思うておるのじゃ」  常に黒田軍の先鋒として敵陣に切り込んで七十六級もの首を取った母里にしてみれば、これから戦が始まると知って尻に火が点いたように腰が落ち着かなかった。  七月十四日、荒木平太夫が中国から単身で大坂屋敷に帰ってきた。早速家老の栗山に注進した。 「吉川広家は七日に富田城を毛利家先鋒として立たれた由。小早川秀秋、秀包、毛利元康、秀元もその後出陣なされました。毛利家の総軍勢は五万に近いとか」 「五万か」  栗山四郎は毛利軍の総数を聞いて、あらためて大事になるなと思った。 「宇喜多秀家はどうした」 「秀家も二万近い軍勢を率いて大坂を目指しております。皆十五日前後には上洛されますでしょう」  栗山はまた唸った。まさかと思うが毛利と宇喜多が連合して大坂城に立て籠れば、徳川勢とは見たことのない大戦になる。上杉征伐どころではないと、栗山の顔が青ざめた。  翌日、栗山と母里がねね姫と光の方を、九州中津城までいかにして送り届けようかと思案している頃、一文字三星の旗を掲げた船団が大坂湾に直航していた。毛利輝元率いる水軍百艘が、陸路を進軍している毛利元康らの前軍を追い越して、大坂湾に入ろうとしていたのである。  七月十五日の晩、早くも輝元は大坂木津の毛利屋敷に入り、船旅で疲れた身体を休めた。遅い夕餉を食べ終ると、間もなく安国寺惠瓊と石田三成が連れだって屋敷を訪れてきた。 「これは、これは、輝元殿、早速遠路上坂頂き恐悦至極でござりまする。お拾いさま、淀殿もいたく感激されておられます。明日は大坂城にてご拝謁の後、饗応の宴を予定いたしております」  輝元は淀殿が喜んでいることを惠瓊から聞いて、大坂にすぐ来てよかったと本心から思った。淀殿とはいままで遠目でしか対面していなかっただけに、明日はその機会があるかもしれないと聴き心をときめかした。 「つきましては明朝、お拾い様から豊臣方の総大将ご就任の依頼がござりますが、よしなにお引き受け下さりますようお願い申しあげます」  輝元は総大将と聞いて我に返った。 「惠瓊、総大将とはなんぞや」 「この十二日、徳川家康並びに既に東上しておる大名は豊臣家に弓引く者として討伐すべく、全国の大名に三奉行から檄文を送りつけた次第でござります。何とぞお拾い様に代わって、総大将にお成りあそばすようお願い申しあげます」  淀殿との甘い出合いは、惠瓊の家康と呼びつける言葉で輝元の脳裏から吹き飛んだ。 「なに、家康と戦うとな」 「いかにも。今度の上杉攻めは家康の私戦でござります。家康は豊臣家の大老職の一人であり、官位もまだ従二位内大臣にすぎぬにもかかわらず勝手に太閤のご遺言に背き、徒党を組み天下の政道を乱そうとしております」  石田三成はなぜか黙っていた。輝元に家康の非道を考えさせようとしているかのようであった。  輝元は沈黙している三成を見て考え始めた。居間の大蝋燭の灯心がはじけるのを遠目に見つめていた。  確かに家康は豊臣家の筆頭大老に過ぎぬ。しかし、まるで天下人のように多くの大名と縁組し、徳川家への忠誠を誓わせている。しかも、大老前田利家の逝去にともない、その正室を人質に取って江戸にも送っている。  そして今度は、もう一人の大老である上杉景勝を、謀反の疑いということで征伐しようとしている。いま毛利家は徳川家と組んで上杉家を攻めようとしているが、上杉の次は毛利家を潰そうと狙っているかもしれぬ。家康は昨年、 [#ここから2字下げ] 今後|如何様《いかよう》の儀が出来しようとも兄弟の如く表裏|別心《べっしん》なく申し承る [#ここで字下げ終わり] と誓紙を送ってきていたが、惠瓊の言うとおり、うかうかと信じるわけにはいかないようにも思えてきた。 「宇喜多権中納言殿には、このことをお伝えしたのか」 「まだでござりますが、権中納言殿は秀吉公の実子ともいえるお方、豊臣家のために命を賭けても仇をなす方では万々ござりませぬ」  その時、惠瓊に代わり石田三成が初めて口を開いた。 「すでに愛知川に関所を作り、東上する大名をこの大坂城に呼び戻してござります。明日、秀家殿にも大坂城に入って頂きます。輝元殿が豊臣家の為にお拾い様をもり立て頂ければ、言わずもがな、権中納言はじめ、西国の大名は喜んでわれらに加勢しましょう」  輝元は三成の言葉を聞きながら、初めて自分の心に野心という欲望を感じた。これまで食においても、女においても、戦、芸事でも自分から欲することはなかった。また権勢にも執着がなかったが故に、十二年前に大きな失政を輝元は気づかずにしていた。  関白秀吉が京内野に聚楽第を造営した時、毛利家を代表して毛利輝元、吉川広家、小早川秀包の三将が招かれた。まだ若かった輝元はただその聚楽第の豪華絢爛さと関白の権勢に圧倒されて、まともに秀吉を見ることもできなかった。  結果として老獪な秀吉に手もなく懐柔され、あっけなく毛利家百二十万石は秀吉の風下に立ってしまったのである。  しかし、その当時に比べて今の輝元には自信があった。身体に肉が二貫ほどついたせいではないが、誰が見ても家康以上に天下人にふさわしい貫禄がついていた。あの大坂城に入れば一戦しても負けぬ、という気概が生まれていた。いつしか祖父元就の遺言である、天下を競望せずという言葉は遠く谺《こだま》のように輝元の頭から消えていた。  またわずか四十歳で早世した父隆元の悔しさを晴らすことも、自分の甲斐性に思えてきた。明日はお拾い様の前で総大将を潔く引き受けよう、と決心した。  翌十六日の朝、毛利軍先鋒の吉川広家は出雲街道を下って、姫路から山陽道に入っていた。兵庫の浜辺りで、中国路を上がってくる毛利元康、秀元たちの軍勢と待ち合わせるつもりであった。  広家は馬上からのんびりと波静かな播磨の海を見ながら、今回はおかしな戦だと思い返していた。総大将の徳川家康が大坂城を発ってからはや一ケ月が経つが、何の戦布《いくさぶ》れも吉川家には回ってきていなかった。唯一豊臣三奉行の連署で、七月以前の会津出陣は控えよとの命令書が来ただけであった。奥羽の情報は何も聞こえてこなかった。  広家の心はまた生前の秀吉時代と同じように、家康からも吉川家は無視されているのではないかという不安に苛まれ始めていた。会津の上杉が戦をせずに手打ちをしてくれれば、大坂あたりで帰れることをおぼろげに期待していた。このように多くの全国の大名が競って会津へ向かっては、とても働き甲斐が残っているように広家には思えなかったからである。  前軍から騎馬数頭が松並木越しに、自分に向かって駆けてくるのに気がついた。それは、前備の侍大将である熊谷元直であった。  熊谷は、広家に近づくと馬上から大声で叫んだ。 「殿、大殿が昨夜、木津の大坂屋敷に入られたとの注進でござる」  広家は一瞬、元直の言っていることがわからなかった。二度聞き返して、毛利輝元が一足早く海路大坂に入ったことを知った。驚くと同時に毛利家に何か異変が起きたのかと不安になって焦った。 「殿、大坂留守居役の益田|元祥《もとなが》からの知らせで、何やら大坂で戦が始まるそうだ。そして大殿が総大将になるとか」  鳥肌が全身に立つのを感じた。自分の知らない所で何かが起きている。広家は軍扇をしゃにむに振ると、全軍に大坂に向かって走れと命じた。  広家は供侍三十騎ほどと一足早く馬を走らせ、木津の毛利屋敷に飛び込んだ。日はすでにとっぷりと暮れて、深夜に近かった。しかし、屋敷に目指す毛利輝元はいなかった。輝元が石田三成、惠瓊と連れだって大坂城に移ったことを、大坂家老の益田から知らされた。  仕方なく、その晩は寝ることにした。蒲団に横たわった広家の身体は緊張で、疲れも眠さも感じていなかった。明日は長い日になると覚悟しながら、取り敢えず目をつむった。  翌朝、広家は朝餉を直臣の熊谷元直、宍戸元次と共に取った。早く大坂城へ駆けつけたい気持ちを抑えながら、無言で飯を口へ運んでいた。そこに安国寺惠瓊の家老島十郎が迎えにきたという知らせがあった。  大きくうなずくと、帯を下腹に収まるよう押さえつけた。案の定、輝元殿につまらぬことを焚き付けたのは惠瓊かと知って、腹の虫が収まらなくなっていた。事と次第では惠瓊と一戦するつもりであった。甲冑も着けずに、すぐに陣羽織だけを羽織って馬に乗った。  大坂城の五層の天守が、前を進む四間槍隊の槍衾《やりぶすま》を通して見えてきた。何度見ても巨大な城であった。あの身体の小さな太閤がなぜこのような巨大な城を造れたのか、いまもって不思議でならなかった。  本丸は金箔で貼られた五重の天守閣を中心に、豪壮、華麗な奥御殿と儀式、対面用の表御殿が殿舎を連ねていた。そしてその本丸は高い石垣と鉄御門で守られていた。本丸とその南側に面した二の丸は水濠と空濠で分離されており、それをつなぐ橋は京橋、門は桜門と呼ばれた。二の丸の外側はすべて水濠で、そのまた南面に三の丸があった。  三の丸の外には家臣の武家屋敷、町屋が置かれ、優に十万人を収容できる敷地があった。 その武家屋敷、町屋の外側に、西は天満川から水を引いて、西|惣構《そうがまえ》堀を造り城の西側の最遠防壁としていた。東側の東惣構堀は大和川、南惣構堀は大和川の支流の平野川から水が引かれ、人工の水堀で囲まれた巨大な城下町が造られていた。  島十郎の先導で、いくつもの濠と橋を渡って、広家は大坂城内の桜門に到着した。桜門の両側には虎石、龍石と呼ばれた五間四方もあるかと思われる巨岩が横たわっていた。  また城内の広い道を五町ほどまっすぐ歩くと、正面に表御殿の大きな屋根瓦群が見えてきた。熊谷と宍戸は御殿には入れないので、その前の腰掛の小屋で待たされた。  一人になった広家が通された所は、表御殿の中にある御対面所の屋敷であった。もし案内人がいなかったら、この広い城内から抜け出すのは至難の業のように思えた。  その屋敷の一室に、見慣れた惠瓊の顔があった。広家は、急に自分の顔がこわ張るのを感じた。惠瓊は金襴の派手な法衣を着ていた。 「吉川殿、豊臣方の総大将になられた輝元殿はいま西の丸で、全国の諸大名に内府違《ないふちがい》の檄文をお書きになっておられます」  家康は内大臣の官位についていたので、大坂城内では内府と呼ばれていた。 「待たれい、惠瓊殿。殿がいつ総大将になられた。して、内府檄文とは何でござるか」  広家は不快な感情を隠さずに、声高に惠瓊に問いつめた。  惠瓊は平然と表情を変えずに、 「昨日、宇喜多権中納言さまと三奉行がご相談の上、輝元様には豊臣方の総大将にお成り頂いた次第。徳川家康は太閤様が遺された御置目《おんおきめ》に背き、お拾い様を見捨てられて出馬なされた。したがって大坂在住の我らは武力を以て、内府の違背に制裁を加えることにした所存でござる。ここに、三奉行がまとめた内府違いの条書がござる」  惠瓊の話す言葉が、バテレンの異国話のように思えた。わずか六万石の僧大名の分際で、二百五十万石の家康と戦うとは気違い沙汰であった。 「つまる所、毛利はお拾い様にお味方し、内府と戦をしろと申されておるのか」  広家にとって惠瓊はもはや大名惠瓊ではなく、僧の分際で政道に口出す不届者としか見えなかった。 「毛利輝元さまがお拾い様を助け、奸臣家康を討つことが、太閤殿への御恩に報いることとは思われませぬか」 「ふん。御坊は太閤から恩を受けているかもしれぬが、不肖この吉川広家、一石といえど太閤から祿をもらったことはないわ」  広家は、昔の安国寺の僧名で呼び捨てた。  惠瓊は気まずい顔した。確かに吉川家はもともと毛利家領内の十一万石を有する大名であり、秀吉はこれまで吉川家に限って何の恩賞も与えていなかった。毛利家、小早川家に太閤の恩は通じても、吉川家には通じない話であった。 「それに御坊、そもそも備中高松で秀吉を討たせなかったのは、そなたではないのか。父、元春が痛恨の涙を飲んで諦めたことは、今でも忘れられぬわ。秀吉をあの時討っておれば、こんな話は聞かなくても済んだのではないのか」  広家は、心の中に長年鬱積した秀吉への恨みを露《あらわ》にしていた。そして、子供じみたように惠瓊に喧嘩を売っていた。  惠瓊は広家を説得できないと見ると、 「西の丸で輝元様がお待ちでござる。島、広家殿をご案内せよ」  広家は怒りに震える身体を抑えて、立ち上がった。残された恵瓊は憮然としてあらぬ方角を見ていた。今の毛利家の統率者は輝元の次は吉川広家である。広家が納得しないとなると、毛利三家を纏めるのは難しかった。三成に安請け合いをしたかなと、一瞬悔やんだ。  その日の午前中、輝元は本丸の表御殿で、待望の淀殿との対面をしていた。わずか三畳ほどの距離で、淀殿の美貌の面立をとくと拝見した輝元の顔は、歳にも似合わず紅潮し続けていた。  輝元は、これが天下人の御内室とあらためて見直した。中国地方広しといえど、これほど気品のある女性には会うことがなかった。自分の妻、南《みなみ》と比較すると、その差は歴然であった。 「輝元殿、よろしく権中納言と豊臣家を頼み申しまする」  輝元は淀殿の甘い声を聞きながら、権中納言が誰のことを指しているのかを考えていた。まさか宇喜多権中納言秀家のことではないだろう。  よく見ると、淀殿のそばに青白い顔をした子供が座っていた。輝元は、お拾いと言われるこの六歳の子供が権中納言秀頼と気づいて急に心が萎えた。しかし再度、淀殿の顔を見ると、秀頼を忘れて豊臣家にまた忠勤しようと思い定めた。  その日、淀殿は輝元と対面して、大坂城の総指揮権を正式に委譲した。人生で初めて自分が決断した記念すべき日であった。豊臣家のために賊敵を討てと口上したその瞬間、生を受けて三十五年にして、すべての軛《くびき》から自分が解放されたことを知った。  もう、母お市にも、姉妹にも、夫であった秀吉にも、高台院にも、そして西の丸に居座っていた家康も眼中にはなかった。自分はこの巨大な大坂城の主であるということだけが快感として、女盛りの豊満な身体を満たしていた。  あれはいつの夜であったか、寝所の蒲団をそっと持ち上げて黒い影が進入してきた。秀吉殿の床入にしては、侍女の知らせがないことを不審に思いながらも、眠気でそのまま目もあけずに臥せっていた。  背中にはりついた人の手が、軽く腰から尻をなでた。最近の殿は気だけ、お焦りになるだけで、殿御の役を果たされない。於茶々《おちゃちゃ》は子供が悪戯をするかのように、その手の動きを無視した。  しかしその手はすぐに大胆にも於茶々の太股から恥部に触れてきた。瞬間いつもと違うと思ったが、すぐに心地よい甘さが下半身の動きを止めていた。その時、急に背後から羽交締に抱きかかえられた。動きたくても、動けなかった。  声を出そうにも、下半身の動きは激しく、声にならなかった。熱い奔流が於茶々の体を満たした時、 「浅井家のお為でござる、御免」という太い男の声と共に、黒い影は背中から消えていた。  於茶々は残された温かい蒲団の中に、身体をそのまま横たえていた。高い格《ごう》天井の錦絵を見ながら、小谷城でのありし日の数々を思いだしていた。母お市や姉妹たちと過ごした楽しい出来事が走馬灯のように浮かんでは消えた。  涙の滴が枕に流れ落ちた。女にとってできることは、和子を産むことしかない。於茶々ははっきりと自分の使命を、その夜以来、身体の中に深く刻み付けた。それは自分が浅井長政の娘であり、それ以外に家はないということであった。  当主毛利輝元と表御殿の黒書院で対面した吉川広家はすぐに諫言を述べ始めた。しかし、書院とはいえ百畳もあるかと思える大部屋で、輝元は悠然としていた。  軽い笑顔を浮かべながら、激昂して納得しない広家を逆になぐさめた。 「広家、案ずることはない。お拾い様をわしがここでお守りしている限り、大義は我にある。誰も大坂城を攻めることはできない」 「殿、毛利が家康公に代わって天下を治めるのならともかく、いまのままでは手痛い火遊びになりましょうぞ。惠瓊や三成にそそのかされて、毛利百年の大計を見誤ってはなりませぬ」 「しかし、かれらが申すごとく、内府にこのまま天下の政道を委せるのもおかしい。さすれば、この輝元がお拾い様をここでお守りするのも意味があるのではないか、広家」  広家には、輝元の心境の変化を知るよすがもなかった。 「それはそれで、ようござりましょう。しかし家康殿と事を構えることは決してなされませぬことが肝要でござる。豊臣家の内紛に、毛利が巻き込まれる必要はござりませぬ」  過去、朝鮮において三成や惠瓊らの軍監と福島正則、加藤清正らの侍大将が色々と意見の齟齬《そご》から感情的な対立にいたったことを輝元自身が見聞していた。  大坂に来てから、確かに三成と惠瓊の動きが尋常でないことには気づいていた。その意味で、広家の提言にはうなずくことが多かった。 「あいわかった。広家、とりあえず軍監として、そちに徳川のことは任すとする。よきに計らえ」  広家は土壇場で毛利家軍監として、徳川家に対する軍事の指揮権を握った。その後、上方勢の副大将で今度の実戦の指揮者である宇喜多秀家と談合した。  秀家は黒地に錦糸で縫い取りされた鳳凰の陣羽織を纏って、手に軍扇を持ちながら広家の前に登場した。その華やかさは誠に太閤の申し子にふさわしかった。秀家は姉の婿からか、気軽に広家に話しかけた。 「備中高松の城攻めの折、広家殿は太閤を追いかけて戦う所存だったと洩れ聞いたが、あのとき毛利と太閤が戦っておればどうなりましたか」  思いがけない秀家の問いに、とっさに返事の言葉がでなかった。 「それがしも今度の戦はよくわかり申さぬ。しかし、それがしは太閤より人一倍恩義を受けた身、豊臣のために奉公するのがわが使命と思っております。この度も広家殿によろしく与力頂ければ、豊臣家は安泰でござる」  秀家はすでに広家が惠瓊と、毛利家の去就に関して大激論を交わしたことを知っていた。  当時の吉川家宗主元春が涙を飲んで秀吉の追撃を諦めたことを、今度の戦の譬《たと》えに持ち出して、昔と同じように豊臣側に合力させようとしていた。広家は機転の効いた文句を聞いて、豊臣家の中で秀家だけがまともな武将かと感慨深かった。 「戦は天、運、地の利が必要でござる。権中納言殿には、その運気を呼び寄せる力をお持ちのように拙者には思える。思うままに、この広家には申し遣わされよ」  親戚でもある副大将秀家にはあまり心労をかけたくないと思って、言葉を曖昧に濁した。 「かたじけない。それでは取り敢えず伏見城攻めに、毛利家も加勢して下され」  広家は黙ってうなずいた。そしてすぐに、小早川家の九州勢に伏見城攻めを命じた。   人 質  奇妙な戦が始まろうとしていた。誰しも、はっきりとした戦の大義を掴めないでいた。そもそも天下を取るということは何であるのか、どの大名も明確に答えることができなかった。秀吉のように大きな城を造り、高価な茶具を揃えて茶湯の会を催し、傾城《けいせい》の美女を多く召し抱え、遊興三昧に浸ることが天下人であろうと、多くの大名は安易に考えていた。  したがって自分の領土が一石でも増えて、一人でも多く家臣を養うことができれば、それで満足であった。その為には誰かの領土を切り取らねばならないということだけは、どの大名も皆明々白々に理解していた。朝廷から下賜《かし》される官位には誰も触手を伸ばさなかった。  すでに、大坂城付近には毛利勢五万六千人が集結していた。その他、備前の宇喜多秀家の一万七千、肥後の小西行長六千、近江石田三成の六千、大和の増田長盛が五千、伊予の小川祐忠の二千らの兵が意気軒昂として大坂城に入城してきていた。  また、中山道に入る手前の愛知川の関所を通れずに戻ってきた、肥前の鍋島勝茂、筑後の立花宗茂、伊予の脇坂安元、丹波の前田茂勝、阿波の蜂須賀家政らの軍勢が、それぞれ千名程度の兵を引き連れて大坂城に参集していた。その数はすでに十万に近い兵数に膨れ上がっていた。  土佐の長宗我部盛親も六千六百の兵を引き連れ、大坂城の門を仕方なく通った大名の一人であった。盛親は二十五歳にして、土佐二十二万石の家督を受け継いだばかりであった。盛親は若くして父親と共に秀吉の一軍として小田原、文禄、慶長の役にも出陣していた。しかし、親しかった兄、信親が豊後で島津軍に討たれてからは、素直に秀吉の意向に添えなくなっていた。  この六月に豊臣中納言秀頼からの奉書を受け取った時にも、反発しか感じなかった。秀頼の為に戦っても、領国が増えるとはとても思えなかったからである。過去に父と兄が、そして自分が豊臣家に命を賭けて得た物は何もなかった。  逆に、今回は家康を頼ろうと盛親は思っていた。しかし土佐は遠く、いつも大事な時に出遅れた。家康への密使は近江の水口の関所に止められて、東国へ行くことは叶わなかった。使者が落胆した顔で帰ってきた時、昔、小牧の戦で家康から秀吉打倒を与力された事を思い出した。あの時も、出陣に手間取りその内に戦は終わり、秀吉の天下が決まってしまった。 「運を天にまかせよう」  盛親は天井を仰いで、家老の吉田政重と吉田康俊に上方に加勢することを仕方なく伝えた。  天下分け目の戦に日和見は許されなかった。中立は大坂方からも徳川方からも糾弾されて逃げ道がなくなると思われた。全国の大名は心ならずも旗幟を鮮明にせざるを得なかった。  その頃、大坂城のある一室で石田三成、増田長盛、それに前田玄以の三人が密談を交わしていた。三成は人を人と思わぬ、尊大な以前の秀吉側近時の三成に戻っていた。  しかし、その態度も無理なかった。十万近い軍勢が大坂城を取り囲み、取り敢えず家康打倒の檄文に賛同して集まっていたからである。多くの侍、大名がいまだに続々と桜門をくぐっていた。  三成は席上、会津に出陣した大名の妻子を人質として大坂城に収監することを命じていた。  玄以は、剃り上げた青い頭を手で叩きながらつぶやいた。 「三成、うまくいくかな」  玄以には上方勢が関東の家康に対抗する気持ちはわからないではなかったが、戦となると三成の戦術で勝てるほど甘くはないと思っていた。妻子を人質にすることによって、却って彼等を手負いの虎にしてしまうのではないかと、三成を不安そうに見つめた。  しかし、三成は能面のように表情を変えずに 「これは戦でござる。敵に甘えは見せられませぬ。一人、二人は見せしめになっても差し支えぬ」  この一言で、大坂在住の大名の妻子すべてを人質として、大坂城に入城させることが決められた。  増田長盛は新めて総構えの土塁の各木戸に出入り番所、橋には川番所、河口には船番所をもれなく設け、大名の人質が逃げ出せないように警戒を強化した。大名屋敷は南惣構堀に面した玉造、天満、堺筋に集中連立していた。  黒田屋敷では如水の妻と長政の新妻を脱出させる算段で、二人の家老栗山と母里は相変わらず頭を悩ましていた。  長考の結果、太兵衛の荒々しい案が採用された。かよわい二人の女性を米俵に詰めて、太兵衛がそれを天秤で担いで、黒田家出入りの商人、納屋小左衛門の屋敷まで運ぼうという大胆な方策であった。そして、そこから船で九州に脱出させるつもりであった。  しばらくして米俵に入ることを勧められた如水の妻光は顔色一つ変えずに着物の裾を小紐で素早く縛ると、俵の中へ身体を素早く潜らせた。太兵衛は光の顔だけを残しながら、身体の周りにもれなく米粒を注ぎ込んだ。  それを横で見ていた十六歳の嫁ねね姫は気おくれして、青い顔をして立ちすくんでいた。ただでさえ暑い汗が吹き出す大坂の夏である。俵の中に入るだけで籾殻《もみがら》が体中につく気持ち悪さは、入る前から姫を硬直させていた。  それを見た太兵衛は面倒とばかり姫を抱き上げると、そのまま米俵の中へ放り込んだ。それから長刀を腰に差すと、二つの米俵の載った天秤棒を軽がると担ぎ挙げた。  黒田屋敷の表門で警備についていた兵士たちは、門から担がれて出てきた米俵を怪しいと思いながらも、母里の恐ろしげな武者姿を見ると声も立てられなかった。誰しも、太兵衛の勇猛果敢な武者振りを知っていたからである。  かたや栗山四郎は太兵衛が正室二人を運び去るや、事前に示し合わせていた似つかわしい影者の侍女を蚊帳の中に座らせた。そして夏の涼を取るかのように、座敷の障子、襖を開け放たせた。いずれ大坂方の見回りが庭内に入る、と見越しての処置であった。  母里太兵衛は、慎重に二つの米俵を納屋小左衛門の屋敷内に入れ込んだ。納屋は黒田家の御用商人だけに、屋敷の裏には淀川につながる土佐堀川があった。そこから船で淀川を下り、大坂湾に停泊している黒田家の百石船に二人を運びこむ算段にしていた。  そして母里も一緒にその船で中津へ戻り、如水と共に一戦するつもりであった。この大坂にいても、誰が敵で味方なのか皆目、見当がつかないでいたからである。  しかし納屋はおだやかな丸顔を見せながら、ゆっくりと太兵衛の性急さを諭した。 「太兵衛殿、わしが間違いなく、ご正室さまたちをお預かり申します。しかし大坂湾に入るには、船番所をうまく通らねばなりませぬ。暫く様子を見たいと思いますので、今少しお二人にはここでご逗留願いたいと存じます」  玉造の細川屋敷でも、大坂城から派遣された将兵たちが屋敷を取り囲んでいた。大名家の屋敷はそれぞれ一町の敷地に建てられていたが、その中でも細川屋敷は丹後十二万石の石高にしては贅沢な造りであった。  石田三成は人質の話をしている時、最初に浮かんだ人物が細川忠興の正室、玉子であった。玉子を大坂城に移すことができれば、日和見大名の代表ともいえる細川家が豊臣に味方したことを天下に知らしめることができると踏んだ。それに明智光秀の実の四女であり、明智家は豊臣家の仇敵である。その正室が力ずくでなく大坂城に参上してきたと噂を流せば、徳川方与力大名の妻子に対する影響力は計り知れないほど大きいと感じた。  三成は細川の正室を大坂城に移せと、毅然として将兵に命令した。三成は、以前に一度だけ玉子に会ったことがあった。  それは朝鮮の役で細川忠興が肥前名護屋城に滞在中、夫の留守見舞を口実に秀吉が大坂城に召し出した時であった。女好きの秀吉は忠興の純愛さを信じることより、離縁しなかった玉子という女性に好奇心を抱いていた。  一方、玉子は秀吉が留守見舞と称して大名の室を大坂城に呼び、気にいれば夜伽《よとぎ》をさせていたことをそれとなく知っていた。そこで召された時に、奇計を持って秀吉の情欲に対抗した。挨拶のお辞儀をした瞬間に、玉子は懐からわざと小刀を転がり落としたのである。  その時、目を細めて相好を崩していた秀吉の顔が白く頬ばんだ。澄んだ顔立ち、立ち振る舞いに、亡き明智光秀の姿を見たからであった。秀吉は何も言わずに、そのまま奥へ入ってしまった。  その一部始終を傍で見ていた三成は、玉子の秀吉に対する恨みが尋常ではないと感じた。三成はもともと兵を起こした暁には、伏見城の留守番役鳥居彦右衛門と、丹後の田辺城にいる細川忠興の父|幽斎《ゆうさい》を最初に攻めるつもりであった。  伏見城は秀吉が造りそして身罷った城であり、全国諸候に命令した思い出深い城である。それを敵方である徳川家の家臣どもに、いつまでも任せておく訳には心情的にいかなかった。伏見の徳川兵は首筋に纏わり付いた蛭《ひる》の感じであった。  三成は幽斎を、長岡|與一郎《よいちろう》と称した若い頃から知っていた。本能寺の変の直後、姫路城にいる秀吉に火急の書状を届けたことがあった。その中に、長岡家は明智光秀には与力しないという誓書が入っていたのである。それを読んだ三成は、大事を前に転んだ長岡與一郎という男を軽蔑した。  長岡與一郎と明智光秀は一緒に足利義昭と織田信長に仕官し、出世した親戚同志である。常日頃、肝胆相照らす仲だったにも拘らず、土壇場で保身の手紙を出す與一郎の不義理さを、敵ながら情けなく感じたことを思い出した。  また、ある時秀吉は、山城と丹後のいづれか好きな国の知行を与えようと、與一郎に申し渡したことがあった。與一郎は、即座に辺鄙《へんぴ》な丹後を所望した。なぜなら、その頃から好きな和歌に残りの人生を賭けようと、戦国大名から歌人に変身しようとしていたからである。血なまぐさい侍の人生に厭きて古今相伝の世界に生きるために、京に近い山城よりも戦乱の及ばない丹後の地を望んだ。  しかし三成には、與一郎の処世術すべてが自分勝手に思えた。案の定、武士を捨てた與一郎は、秀吉の死後いち早く豊臣家をも裏切り、徳川家に臣従した。太閤の前で幾度も代作の和歌を愛想笑いしながら創り詠んでいた幽斉が憎かった。その心中に成り上がり者、秀吉への軽蔑の思いが有ることを敏感に感じとっていたからであった。  今回、三成は大坂にいる細川忠興の室を人質に取ることによって、幽斎に対する遺恨も晴らそうとしていた。   覚 悟  石田三成の家臣小川平左衛門が率いる手勢が、玉造の細川屋敷に押しかけた。事前に三成は玉子を大坂城に移す手立てとして、澄欣《ちょうごん》という豊臣家出入りの比丘尼を細川家に派遣していた。手荒に連れ去っては、徳川方につこうとしている大名たちを牽制することにならなかったからである。その時、細川家で留守役を担っていた者は殆どが女性であった。長女のお長、次女の多羅《たら》、長男忠隆の妻千世、幽斎の姉の宮川らであった。  玉子は、無心で年配の澄欣に対面した。 「豊臣秀頼さまは大老毛利輝元様、宇喜多秀家様に豊臣家に仇なす者の討伐を命ぜられました。細川の殿さまは東国にお出でお留守、万一、周囲に不埒《ふらち》な者が出没してはご不安でござりましょう。この際大坂城にお移り頂くことが安全と、奉行の申し出をお伝えに参りました」  澄欣の話し方は、のんびりとしてまどろこしかった。 「これはわざわざ恐れいりまする。ご上意なれど、わたくしは細川忠興の名代としてこの屋敷を守っておりまする。ここを捨てて大坂城に移ったとなれば、わたしが殿より責められまする。それにここには女子が多数おりまするゆえ、城中、足手まといになりましょう」  玉子の婉曲な断りに、澄欣は不快な顔を隠さなかった。淀殿と親しい関係で、あくまでも豊臣家の正式な使者であるという尊大な態度を崩さずに、 「この屋敷は侍もおらぬようで、無用心。それでは、隣の宇喜多様のお屋敷に移られませ。身辺の警護も万全でござります」 「不肖私めも武将の妻でござります。戦となれば、覚悟はいつでもできておりまする。城を捨てて逃げる訳には参らぬと、御奉行様にお伝えくだされ」  夫が事の是非を越えて徳川家に随身する以上、豊臣家になびく言動は一切取るつもりはなかった。 「それでは仕方ござりませぬな。よしなに」  澄欣は険しい顔で玉子の前から立ち去った。蝉の声がひときわ大きく邸内に響きわたった。  澄欣が細川屋敷を出た後、玉子は直臣の小笠原秀清、金津正直、河北一成、三宅重利の四人を呼んだ。  家老の小笠原秀清は、玉子の警護と屋敷の留守番を命ぜられていた。金津と河北は玉子が細川家に輿入の時から御守役として、明智家からつき従ってきた忠臣であった。一番年の若い三宅重利は玉子の義兄、明智左馬助の子供で、坂本城落城の折、唯一人、城から逃げ落ちた明智家の直系であった。  玉子は、四人の忠臣の前で自分の思いを述べた。 「明日にも、大坂奉行は当家に兵を向けて参るであろう。護ろうにも男共はそなたたちだけ。私は何としても人質になるわけにはまいらぬ。そこで、私はここで自害することにいたしまする。これより、下女共を皆去らせてください。正直と一成はこの屋敷を人手に渡らぬよう、すべて焼きつくすよう手配をしてくだされ。重利、そなたは姉さまと子供たちを連れて、田辺の城まで案内しておくれ」  四人は玉子の悟り切った澄んだ声を聞いて、身体の汗が冷たく消えていった。無理もなかった。主人の正室が生害すると言った以上、自分たちも覚悟を決めなければならなかったからである。  玉子は夫の気性から、敵が攻めてきても、自分が屋外に逃れることは決して許されないと知っていた。他人にとっては不条理であっても、玉子にとって死以外に選択肢はなかった。  それから娘の長と多羅、それに長男の妻千世を呼んだ。 「戦が始まる。お長、そなたは多羅を連れてお祖父さまのいる丹後に参れ。千世は、隣屋敷の姉上豪姫の所に行かれよ」  三人共詳しいことは聞かされていなかったが、近々戦が起こることと、母がこの屋敷に最後まで留まる覚悟だけは推察できた。  お長は五年前に嫁ぎ先の前野景定から離縁され、この細川屋敷に帰っていた。夫の景定は関白秀次の家臣であった為に、秀次謀反事件に連座して父長康と共に自害していた。  戦国の世の非情さ、儚《はかな》さにわが身を憂いているお長を見て、自分のみならず可愛い娘の幸せまでも奪い取った秀吉を玉子は決して許せないと思った。それ以来キリシタンの教えに背いても、父を殺し、また娘を不幸にした秀吉にまた強い憎悪を抱き続けた。  お長は二十二歳、多羅は十三歳、まだまだ人生を終わらせるには若過ぎる。三人の娘たちに、母の代わりに強く生きることを命じた。 「女はどんなことがあっても、夫とともに生きるのが一番幸せなこと。そなたたちは、先に死んではなりませぬ。特に千世は必ず忠隆のもとを離れるではないぞ」  千世は前田利家の六女で、忠隆と同じ十九歳であった。結婚してまだ日が浅く、二人に子供はなかった。千世の姉になる豪姫が隣の宇喜多屋敷に住んでいた関係で、丹後に帰すよりも姉の側に置いた方が安全と玉子は考えた。  豪姫は高台院が育てた養女でもあり、宇喜多秀家の正室であった。邸内にいる限り、大坂方の武将は誰一人として手を出すことはできないはずであった。  しかし夫は、千世を敵方になるであろう宇喜多家に逃がしたと聞けば怒るかもしれないが、まもなくこの世にいなくなるかと思うと、それもさほど気にもならなかった。人生を終わるに当たり、好きな歌を残そうと考え自室に帰った。  三十八年の人生は長いようで、また短くも思えた。しかし今は思い残すことはなかった。不本意なことも、楽しいことも、悲しいことも多々あったが、それも人生の定めと思えば、すべてを夢の中に流し去ることができた。 [#ここから2字下げ] ちりぬべき時しりてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ [#ここで字下げ終わり]  辞世歌を詠いながら、夫忠興の顔を思い出した。夫はきっと、自分がここで死ぬことを悲しむより、逆に安堵するかもしれないと感じた。  夫にとって正室が明智家の娘であるという事実は、この十八年間どれだけの重しであっただろうか。夫も自分と同じように、大きな運命の波にもてあそばれてきただけなのかもしれない。  夫の頑《かたく》なさを想って、歌をもう一句詠んだ。 [#ここから2字下げ] 露をなどあだなるものと思いけん 我が身も草に置かねばかりを [#ここで字下げ終わり]  それから侍女の霜とおくを呼び、いましがた詠んだ歌を、東国にいる忠興殿に届けるよう言い遣わした。二人の侍女は、玉子の覚悟を知って一緒に死ぬことを願った。しかし、玉子は厳として許さなかった。 「そなたたちが死んだら、誰が長や多羅の面倒を見てくれるのですか。私からもお願いします。生ある限り、二人の面倒を頼みます。私は天上からデウスさまと共に、そなたたちを見守ります」  玉子に諭されて、霜とおくは泣きながら別れを告げた。  もう八十歳に届こうかという老臣河北一成は、息子の六右衛門と鉄砲隊指揮官の稲富《いなとみ》直家に口やかましく玉薬《たまぐすり》と油壷の移動の指図をしていた。  左眼は昔、敵の矢を受けて潰れていた。剛胆な一成は眼に矢を受けた時も、得意な弓でそのまま相手を射殺した明智家の勇士であった。一成は稲富と計って室が自害した後、細川屋敷全体を火薬で吹き飛ばし油で焼き尽くすことを決めた。しかし、男手が足りなかった。中間《げん》、小者を入れても三十名に満たなかったのである。仕方なく、玉薬を置くのは、居室の母屋だけにすることにした。  長く蒸し暑い夏の日が暮れようとしていた。玉子は白絹の子袖を纏うと、最後の別れを舅の姉宮川と交わした。 「私は人質にはなりませぬ。姉上は、京の建仁寺にお隠れください。千世は、隣の宇喜多邸に行かせまする。もともとこの身は、父が山崎で討たれた時に死ぬつもりでおりました。それが今まで生き延びたは、息子與一郎が幼かった故、しかし、おかげで今は立派に成人して、忠興殿と一緒に上杉攻めに参っております。私も、これで思い残すことはござりませぬ。長い間お世話になりました」  宮川は七十歳になっていた。不憫と思いながらも、玉子の取る道はこれしかないと納得していた。小袖の袂で顔の涙を拭いながら、 「弟も無常な男やの。なぜ兵を送って、そなたや女子どもを助けにこんのやろ。丹後に引きこもって、歌を詠んでいる時ではないのにな」  宮川は、三歳年下の弟幽斎の処世術の確かさには舌を巻くことが度々あったが、今度の大坂細川屋敷に対する仕打ちには憤懣の思いを消せなかった。  そのころ隠居した幽斎は、居城丹後の田辺城で多くの古書に埋もれていた。しかし、息子の忠興が細川家の全軍を率いて東上したため、城に残された兵は僅か五百名にも満たなかった。幽斎にとって、玉子たちを助け出したくても実際はできない相談であった。  その事情を知らない姉の宮川は、玉子が自害することで、細川家の男共の身勝手さと傲慢さが少しでも改まることを望みながら屋敷を後にした。  細川屋敷の回りには石田三成の兵がすでに多数取り囲んでいたが、目的は玉子を人質に取ることらしく、老婆の宮川は名を聞かれただけで監視の兵から無視された。   火 炎  夏の日は相変わらず暑かった。伏見|木幡山《こはたさん》上の木々の蝉声が、城内の空間の隙間を埋めつくしているかのようであった。伏見城に戻った木下勝俊は山里丸にある学問所から、桃山の丘陵を通してかすかに遠く見える大坂城の天守閣を眺めていた。そして浮かぬ顔で、汗ばんだ襟元に向かって団扇で風を送っていた。  間もなくこの静かな伏見城に自分の手勢が顔を見せることになるだろうと、勝俊は思案していた。若狭小浜城に残した手勢二千五百に、伏見城に参集する命令を出していたからである。小浜からこの伏見までは、二日もかからずに到着するであろう。  油蝉の声が勝俊の思いの邪魔をしていた。まさか豊臣の三奉行が石田三成と連んで、家康に対抗するとは思いつかなかった。それに毛利輝元までが大坂城に入って、徳川と一戦するという。勝俊にとってはどちらが勝つかより、いまは木下家の兄弟たちの動向の方が気になっていた。  弟の小早川秀秋は、毛利勢と一緒に動かざるを得ないだろう。しかし三男の延俊は、義兄の細川忠興とすでに会津に向かっている。それに、他の四人の兄弟の向背は不明である。  自ら戦が始まれば敵、味方に別れることになるだろう。それに自分は秀吉の身内でありながら、娘を家康の五男武田信吉に嫁がせている。また伏見城の留守番城主でありながら、守兵は皆徳川の家臣である。これほど矛盾した話はなかった。  そこに同じ気配を察したのか、城代家老の鳥居彦右衛門が足を引きずって学問所に現れた。 「少将殿、小早川勢がこの城を攻めにくるという噂が伝わってきておりますが」 「弟がまことか」  勝俊は表情を変えずに聞き返した。 「先程、大坂城西の丸におりました佐野綱正が、この城に帰ってきての知らせでござる」  勝俊も彦右衛門も、同じ厭な気分になった。佐野綱正は確か、家康公が大坂城に残した妻妾たちの面倒を見る留守役のはずであった。一人で大坂城から逃げ帰ってきた身勝手な綱正の心底を、勝俊は心から軽蔑した。秀吉の愛妾にさせられ苦労した母松の丸の立場が思い出されたからであった。  そう思いながらも、勝俊は大名暮らしに愛想を尽かし始めていた。所詮、武士の忠義と言えど、皆自分の保身を考えての言動でしかなかった。誰一人、豊臣家や徳川家のために命を賭けているわけではない。自家の栄達の為に、便法として命を賭けているに過ぎなかった。なまじ、ものの儚《はかな》さがわかるだけに、戦が始まると聞かされても迷惑なだけであった。 「少将殿、じつは御殿からは戦が始まる前に、勝俊さまにはこの城から落ちていただけと申しつかっております。我等徳川の身内はこの城を枕に腹を切るつもりでおりまするが、殿をここで死なすわけにはまいりませぬ」  気がつくと、彦右衛門の丸いあから顔が目の前にあった。勝俊も伏見城を背にして、弟達と戦うつもりは毛頭なかった。また豊臣家の一員として、徳川家相手に戦う気もさらさらなかった。そろそろ武士を捨てる頃合いかな、とも感じた。もともと自分のような風雅を生きがいとする雅《みやび》な性根は、武士には不似合いである。それに長嘯子《ちょうちょうし》の号を持つ歌人が何の大義もなく、詞一つ浮かばないような戦で死ぬ訳にはいかなかった。  もともと、この伏見城を守れと自分に言い渡したのは家康公である。その当人が戦を前に去れと言うなら、お咎めもあるまいと気楽に高を括った。 「彦右衛門殿、あいわかりました。それがし、これより城を出ましょう。それが一番話の早道のようじゃ」  勝俊は別れの言葉として、年配の彦右衛門に敬語を使った。そして明るく笑うと、腰の差物をその場に置いたまま部屋を出ていった。  彦右衛門は勝俊を見送りながら、これで一つ肩の荷を降ろすことができたと思った。  七月十七日の夜が来た。薄曇りの夜空に朧月が見える。玉子は最後の礼拝を済ますと、小笠原秀清を呼んだ。 「秀清、長い間お世話になりました。わらわはキリシタン教徒ゆえ、自害はできませぬ。そなたが、わらわを介錯《かいしゃく》してくだされ」  縁とは言え、主君忠興から正室のお守り役を命ぜられて、二十年以上の歳月が経つ。自分が主君の室の為に死ぬことはあっても、まさか手に掛けなければならないとは夢にも思わなかった。下を向いたまま、はたしてこのまま自害させてよいのかどうか自問自答していた。  秀清の心はいつしか主君のためより、正室のために戦い死ぬことを望むようになっていた。室を手にかける代償に、屋敷を取り囲んでいる石田勢と切り合って死のうと考えた。 「御台《みだい》さま、恐れながら某《それがし》が介錯いたしまする。しかしこの秀清、必ずや父上への許に三成の首めを持参する所存でござります」  玉子は、はっとして秀清の眼を見つめた。思いもがけない別れの言葉を聞いて、玉子の目は瞬時に赤くなった。 「かたじけぬ。そちらは余がゼウスの神にお願いして、天国に参らせるよう計りましょう。秀清、頼みます」  そう言うと、静かに目を閉じた。いまは幸せだった。まもなく天国で父と母に会えるかと思うと、死は少しも怖くなかった。玉子は心から神を信じて十字のクロスを切った。  秀清は腰の小刀を抜き、向かい合うようにして玉子の肩を左手で抱いた。 「御免」  右手で小刀を隠し持ち、そのまま玉子の白装束の襟を引き上げた。白い肌が見えた。秀清は狙いすまして、そのまま青光りしている刃を胸に差し込んだ。しかし、玉子の顔からは笑顔が消えなかった。  玉造の細川屋敷から爆発のような音がして、火炎が立ち上がった。見る間に、主殿が屋根を残して火に包まれた。屋敷を取り巻いていた石田勢の兵士たちの顔色が青ざめた。多くの兵士は、立ちすくんだままであった。その時、部隊長である小川平左衛門の大声があたりに響いた。 「何を見ているのだ。早く火を消さんか。人質が逃げるぞ」  その声で兵士達は我に返った。我れ先と、塀を乗り越えて邸内に入り始めた。  その時、細川家の表門が静かに内側から開けられた。そこに一人の老武士が額に白鉢巻きをきりりと締めて、両手に弓と矢を持って立っていた。松明《たいまつ》の明かりに浮かび上がったその顔は片目が潰れており、地獄からまい戻った不動明王の姿のようであった。 「それがしは細川家々臣河北一成、主命によってこの門からは何人も一歩も入れさせぬ。もしどうしても入りたければ、某がお相手つかまつる。遠慮なく参られよ」  一瞬怯んだ兵士たちはそれぞれ槍と刀を握り締めると、喊声を出して門内に飛び込んだ。しかし、数歩走り始めた一団が皆次々と腰を折って、前のめりに倒れこんだ。  老武士の矢が正確に彼等を射止めていた。矢をつがえる早さは、目にも見えないほどの神業であった。あっという間に十人ほどの兵士が胸や太ももを射抜かれて、門前で呻き声をあげていた。  驚いて一旦退いた石田勢は、しばらくしてから弓の射手たちを集めて、また対決した。今度は数十人の射手が数段の竹盾を前に置いて、老武士一人と対決した。  相手は顔色一つ変えず、そのまま不動の姿勢で立ちつくしていた。石田の弓兵が一斉に矢を放った。距離は数間である。矢が外れる距離ではなかった。多数の矢が面白いように、一瞬にして老武士の胸元を的のように突き刺した。  老武士は絶息したが、仁王のごとく倒れなかった。目は敵を見据えたままであった。石田勢の足軽の一人が動かない仁王立ちの一成を、槍で恐る恐る突き倒した。倒れるやいなや、兵たちは邸内に飛び込んだ。火炎は早くも主殿を包み、火の粉が辺り一面桜の花びらのように散り始めていた。  一団が走り始めると、また両手に大刀を握り締めた一人の武士が主殿の前に立ちはだかった。それは一成の息子河北六右衛門であった。何も語らず、正眼に両刀を構えていた。  数人の足軽が面倒とばかり、槍で六右衛門を叩いて倒そうと前進した。しかし槍の穂先が六右衛門を叩く前に、柄ごと切り倒されて槍は宙に飛んだ。また次の瞬間、数人の足軽達は真正面から刀を浴びて、後ろにのけぞった。  隊長である小川平左衛門は目前の切り合いよりも、火事が気が気ではなかった。早く屋敷の中にいると思われる細川の室を連れ出さなければ、焼け死んでしまう。何気なく上を見た平左衛門の目に、母屋の屋根が映った。最上段の丸瓦の上に、人が旗差物を持って立っているではないか。しまったと思った。目当ての人質はすでに自害したことを知った。  細川家の家臣たちが捨て身で邪魔しているのは、人質の亡骸《なきがら》を渡さないためと思われたからである。その時、平左衛門の身体にまた戦慄が走った。旗にかかれた紋様は細川家の九曜でなく、桔梗《ききょう》だと気づいたからである。桔梗は、言わずと知れた明智家の家紋であった。  屋根瓦の上で石田勢を近づけないようにして鼓舞しているのは、玉子をいましがた介錯したばかりの小笠原秀清であった。火炎の中で最後まで主君を守ろうとして鬼気迫るその姿は、石田勢全員の闘志を奪った。  大きな火炎の音とともに、主殿の大黒柱が倒れていった。その瞬間、秀清の姿と桔梗の花も、火に飲み込まれて消えた。細川家の庭内のすべてが昼間のような明るさに包まれ、見えないものはないほどの光りと熱さに変わっていた。  石田勢の討手が大きな紅蓮《ぐ》の炎に見とれている間に、六右衛門はもはやすべてが終わったと思ったのか、その火炎の中に飛び込んで行った。  その時、乾いた音と同時に小川平左衛門が後ろにのぞけった。額に赤い丸い穴があいていることを暗闇の部下たちは気がつかなかった。  一人の侍が手にした鉄砲をしまうと、屋敷の外の闇に消え去って行った。細川家の鉄砲隊長でもある稲富直家であった。  武士の世界の義理人情も、玉子の自刃も、直家にとっては別世界であった。主殿が完全に焼け落ちるのを見ると、満足気にもはや後ろを振り返らなかった。  荒木平太夫は暗くなった夜道を、納屋小佐衛門の自宅に向かって急いでいた。その晩、正室の光とねね姫を大坂湾の沖合に停泊している、黒田家の大船に移らせる手筈になっていたからである。淀川から大坂湾に出る海面には、大坂方の提灯を点けた船番の船が多数、浮遊していた。  平太夫は、船番の調べを受けずに二人を無事に小舟から大船に乗り移らせられるかどうか様子を見にいった帰りであった。しかし船番に隠れて黒田の船に着けることは無理のように思えて、平太夫の顔は暗かった。  急に、自分の歳を思い出していた。もう、とうに六十歳を越している。なまじ人よりも身体が頑強なのが仇になり、荒木家中の誰よりも長生きをしてしまった。しかし、自分の体力が続くのももうあと僅かだろう。この仕事が終わったら、如水に頼んで暇をもらおうと思った。故郷も身寄りもないが、どこかで何とか暮らせるだろうと考えた。  主君荒木村重が亡くなってから、十四年も黒田家に勤めたことになると知った。充分、村重殿の黒田如水に対する不義理の借りは返したはずである。確か、生き延びた和子の又兵衛殿が運よく成人されて、京でひとかどの絵師になっていると噂で聞いていた。暇をもらったら、でかけてみよう。懐かしい村重殿に今一度、会えるような気がした。そう思うと、いつしか平太夫の気持ちは明るくなっていた。  その時、玉造方面に上がった火の手と音に気がついて道を振り返った。紅蓮のような炎が闇の中に立ち上がっていた。火元がどの大名屋敷であるかを詮索するよりも、炎に見とれていた。これと同じ炎を何度も昔に見たような気がした。確か石山本願寺や本能寺でも見た青紫色がかった火炎だった。安土の城が燃えた時と同じ怨念の火の色だ。  平太夫は、その場でへたへたと座りこんだ。三条川原で首を切られた村重の室、たしの最期の顔が脳裏に浮かんできた。もう、戦国の世はまっぴら御免であった。戦国の無惨な輪廻《ね》の波は、いつになっても切れることはなかった。坊主の説く浄土とやらにすぐに連れってくれと、人目も構わずに号泣し始めた。  淀川と中之島を取り囲む堂島川と土佐堀川のすべての船番が、細川屋敷の火を目指して漕ぎ上がっていた。  納屋小左衛門は今だと思い、黒田如水の室と長政の室を乗せた小舟を淀川に向けてすべらせた。船番は皆細川屋敷の火事に見とれていて、誰も灯りを消した小舟に気がつかなかった。  その頃、石田三成も大坂城の二の丸に建つ千貫櫓《せんがんやぐら》の最上階から、玉造方面に上がった火の手を見ていた。三成はその火元が細川屋敷であり、玉子が自害したことも、忠臣小笠原秀清が明智家の旗差物と一緒に殉死したことも、まだ知らなかった。  ただ三成は遠い昔を懐かしむかのように、明日から大きく自分の運命が変わるだろうということを火炎を見ながら感じていた。そして太閤亡き後の豊臣家は自分が仕切っているという、大きな充実感に満ち溢れていた。こうして慶長五年の七月十七日の宵は騒然と、新しい時代を目指して動き始めていった。  承の巻   米 俵  夜の闇が、日没後ほどないにもかかわらず、普段よりも深かった。月はまだ上がっていない。淀川の葦が秋風に吹かれて、サワサワとなびいていた。  織田家の京奉行代官である木村次郎左衛門は身内の供廻り数人を連れて、八幡へ帰るところであった。高槻城の城主高山右近を訪れての帰り道である。思ったよりも談合に時間がかかってしまい、馬上の次郎左衛門は気がせいていた。明早朝には、中国攻めの号令があるかもしれなかった。戦の支度と、それに妻子ともゆっくりと別れをつげたいと思う気持ちが、矢も楯もたまらずに馬を早足で駆けさせていた。  何気なく淀川を見つめた次郎左衛門は、暗い川面を下って行く一艘の高瀬船《たかせぶね》に気がついた。船上に膨らんだ異様な物は、よく見ると米俵のように思えた。はて今ごろ百姓が米を運ぶとは奇妙なことだと次郎左衛門は自問した。  それに水夫《かこ》を見ると水夫らしくない。近づくために、馬を急に蘆の原に乗り入れた。 「そこの船頭、船をとめよ」  戦になれた次郎左衛門の音声は、暗い川面に響き渡った。闇のかなたで櫓を漕いでいた船頭が体を縮めて、声の方に振り向いた。 「いま時分、何をどこぞへ運んでおるのや」  船頭に見えた水夫は近づくと、足軽姿のようであった。米俵の重さで船の喫水は水面ぎりぎりに下がっており、船足はひどく遅かった。  米俵に隠れて見えなかった同僚の足軽が、反対側から顔をのぞかせた。二人はお互いに顔を見合わせると、 「我らは荒木家の者、有岡《ありおか》城から華熊《はなくま》のお城へ兵糧を運んでいるところや。お主は何者だ」 「荒木家の家中が華熊城へだと、たわけたことをぬかすではないぞ。大坂の海に出る前に本願寺勢に捕まるがおちぞ。それがしは京奉行の代官木村次郎左衛門、ちと調べるゆえ船を止めよ」  二人の水夫は京奉行と聞くなり、櫓を強く漕ぎ始めた。 「待て、待てや」  次郎左衛門は腰の後ろに差してある二尺ほどの手投げ槍を取ると、馬を川岸に沿って走らせた。鐙《あぶみ》に力を入れて中腰になると、鍛え抜かれた右腕から渾身の力を入れて槍を船に向かって放った。三枚羽根のついた槍は空中に大きく弧を描いて、足軽の一人の太腿を深く突き刺した。  足軽は悲鳴をあげると、しばらくして痛さのあまりからか淀川に落ち込んだ。  それを待ち望んでいたように、次郎左衛門の家臣たちは胸まで水に浸かりながら、素早く水の中でもがいている足軽を捕えた。  それを見た船上の足軽は仲間を見捨てると、櫓を滅多矢鱈《めったやたら》と慌ただしく動かし、沖合いへ去ろうとした。 「捨て置け。一人捕えれば充分じゃろ」  次郎左衛門の声で、手傷を負った足軽は馬前に突き飛ばされた。 「名はなんと申す」  足軽は、呻きながらも話そうとはしなかった。次郎左衛門は目くばせすると、中間は無慈悲に手荒く、太腿に刺さった槍の柄を円く動かした。太腿から黒い蛇のような血が流れてきた。  足軽の激痛の悲鳴とともに、 「やめてくれ、やめてくれや。わしは中川家の足軽だ」 「なに、中川瀬兵衛の配下か。よし、奉行所で詳しく話を聞こう。引きたてい」  中間は慣れた手つきで足軽の太腿を足げに踏みつけるやいなや、力まかせに槍を引き抜いた。足軽は一段と大きな声で絶叫した。  木村次郎左衛門は出陣の布令《ふれ》が、明日はないことを祈りながら馬の腹を蹴った。  朝霧が晴れると、琵琶湖の湖面に勇壮にそびえ建つ坂本の城が見えてくる。城の大手門の一方は湖に面しており、湖面から船でそのまま城内に入れるよう工夫がしてある。堀には琵琶湖から水を引き入れ、湖面に浮かぶ水城《みずき》であった。城は簡素であったが、白壁と太い黒柱が清楚な姿を造り出していた。背面には比叡山がその高さを誇り、それが城と調和して美しい景色を湖面に映しだしていた。  城内の居間で、明智|惟任《これとう》日向守光秀はいつもより早い朝餉を取っていた。居間は琵琶湖の湖面が一望にのぞめるよう二階に造られていた。湖の対岸には三上山《みがみやま》と呼ばれる小さな小山がそびえており、光秀は日本一高い不二の山を見たことがなかったが、人伝えに三上山がそっくりだと聞いて満足していた。  光秀は、具足姿に着替えていつでも出陣できる姿であった。羽柴秀吉の後詰として、播磨国境の上月城攻めに出陣するところであった。白髪が混じった鬢をなでるようにして、横に控えている妻のひろ子に話かけた。 「範子も玉子も、こうしていまごろ朝粥を婿たちに用意していような」  範子は光秀夫妻の長女で、一年ほど前に摂津の大名である荒木摂津守村重の総領新五郎のもとに嫁いでいた。荒木新五郎は、荒木家の持城の一つである華熊城を任されていた。  四女の玉子は一ケ月前に長岡與一郎の嫡男忠興のもとに嫁いで、山城の青龍寺城にあった。 「はい、ほんにうまくお世話ができておるやら」  ひろ子は近江坂本から長女の住む摂津の華熊城にも、玉子のいる山城の青龍寺城にもまだ行ったことがなかった。しかし時折娘たちから届けられる書状の日付から、さほど遠くはないことだけが安心の材料だった。  その時、慌ただしく取り次ぎの家臣が甲冑姿で踏み込んできた。光秀の前に立ひざをついて、一礼すると書状を手渡した。 「早馬にて、京奉行の代官木村次郎左衛門よりの書付でござる」  光秀は、不安げにその書付の封を破いた。 [#ここから2字下げ] 長門守安土に参陣中故 火急の用件にて惟任殿のご判断を仰ぎたきこと 昨夜高槻近くの淀川沿いで 中川瀬兵衛の足軽米俵十俵を 大坂本願寺門徒に売りし所を捕縛 足軽の処置いかがに [#ここで字下げ終わり]  次郎左衛門の上役は京都所司代の村井|長門守《ながとのかみ》貞勝であったが、その日安土城に出仕しており京には不在であった。本来ならこの報告は、安土にいる貞勝に出さなければならない決まりである。光秀は、その意味をさぐっていた。いつのまにか、妻はその場から消えていた。  光秀は丹波、丹後、摂津、三ケ国の織田軍団の総指揮官であったので、次郎左衛門が摂津の問題として光秀に問い合わせてきても不思議はなかった。しかし書状に書かれた内容は重大であった。  もし貞勝がこの書付を見て、信長公に直接報告すれば中川瀬兵衛清秀への厳罰は避けられない。さらに瀬兵衛の上役である荒木村重、ひいては自分にまでその罰は及んでくる。貞勝は、信長公の若い日からの忠臣である。即この件を話してしまう恐れは充分にあった。次郎左衛門が苦慮して、自分に書状を送ってきた意味がわかるような気がした。  この際この件は不問にしよう。明日にも戦がまた始まる。そうすれば、誰もこの事に構わなくなる。しかし、摂津守のためにも瀬兵衛《せいべい》にはきつく申しつけよう。 「ご苦労だった。いま、返書をしるす」  次郎左衛門への返書の中に、その足軽を斬れと書き記した。そして、この件は光秀が取り計らうゆえ他言無用とも指示したのである。  天正六年五月十三日の朝、織田信長は安土城から織田家の全軍団に播磨侵攻を命じた。その総兵力は四万の大軍団であった。尾張、美濃、伊勢の三ケ国の兵を率いて、嫡男である三位中将信忠、次男の北畠|信雄《のぶかつ》、三男の神戸《かんべ》信孝も参陣していた。  京暦の五月は梅雨である。総大将が安土城の東門を出たころから、大雨が降り出した。信長は気に入っているポルトガル製の赤いビロードのコートを身に纏い、頭には鉄製の丸い兜を被っていた。  雨は白い滝となって、馬上の信長を容赦なく叩き続けた。しかし、歴戦練磨の織田本軍は雨を気にすることなく進軍を続けた。一刻ほどたって、ぬかるみ道の前方に野洲《やす》川の濁流が見えてきた。その濁流の勢いは、いかに勇猛な信長でも渡河を諦めざるをえないほどの状況をもたらしていた。多分、瀬田の大橋もこの大雨では渡れないに違いないと、多くの将兵は感じていた。  信長の馬が止まり、廻りの将兵が主君の顔を注視した。全員が自分の指示を待っていることを知ると、珍しく笑顔を作り、 「長門、そちの作った橋はもう流されておるだろう。戻るぞ」  近くにつき添っていた老いぼれて風采のあがらない武将に言葉を投げかけると、馬首をまた安土城の方向に向けた。信長は京都所司代の村井貞勝が最近、四条の橋を架け直したことを知っていた。  その日から大雨は三日間も続き、京の都は大洪水に見舞われ多くの町々は水に浸かった。四条の橋も結局流されてしまった。  そのころ木村次郎左衛門の使者も瀬田川を前に、逆巻く激流をむなしく見つめていた。次郎左衛門はことの顛末《てんまつ》を書き記して、とりあえず上役の村井貞勝に書状を送ることにしたのである。しかし結局、書状は安土には届かなかった。  その日の夕刻には明智光秀を軍団長とする長岡與一郎、荒木村重、高山右近、中川瀬兵衛らの摂津勢一万二千の将兵はすでに神戸の浜まで進軍していた。  風雨は激しく、陣幕も風にあおられ、雨が隙間を通して流れ込んでいた。皆、甲冑を通して肌に伝わってくる冷たい雨水に辟易して無言であった。荒作りの仮小屋では、この激しい雨をさえぎることはできなかった。  光秀は近くの寺を借りさせ、主だった諸将にその夜の宿をとることにさせた。重苦しい甲冑を脱ぎ下着を着替え、熱い茶を一気に飲みほすと、まるで生き返ったようなさわやかな解放感を感じた。最近とみに軍旅がつらくなっていた。五十の齢を越したことが、心もち体の疲労を感じさせるようでもあった。  光秀は、腹心の溝尾庄兵衛を呼んだ。故郷の美濃明智城が守護の斉藤氏に攻め滅ぼされて以来、浪人の時にも日夜つき添ってきた忠臣であった。 「ご苦労だが、中川瀬兵衛をここへ呼んできてくれぬか」  庄兵衛の白い髭と、鎧から落ちる水が庫裡《くり》の床を濡らしている。 「軍議でござるか」 「いや。今朝がた京奉行より、瀬兵衛が米を本願寺に売っているらしいという知らせがあってな。ちと仔細を聞こうと思っておる」 「それはまた、もしも、まことなら、一大事でござる」 「わかっている。瀬兵衛には茶でもふるまうと言って連れてこい。気づかれるな」  庄兵衛は即座に立ち上がると、荒々しく床板を踏んで出て行った。しばらくすると床板のまたきしむ音がして、庄兵衛がすぐに帰って来た。 「殿、この件がまことなら安土にご報告なさるのか」 「それは、そうせざるを得ないじゃろ」  庄兵衛はまた、光秀の前にあぐらをかいた。 「それでは、摂津守に先にお話された方が無難でござる。瀬兵衛はもともと摂津守の姻戚。もし瀬兵衛が逆心《さかごころ》を企てているとすれば、荒木殿も無事ではすみませぬ」 「うむ、村重はわしの義理の父御《ててご》にもあたるしな」  光秀は、瀬兵衛の代わりに荒木摂津守村重を呼ぶことにした。その時、伝令の使者が庫裡に訪れた。 「殿、荒木摂津守より伝令でござります。今宵の風雨での野宿は望ましからず、わが城華熊は一里手前ゆえ、是非城に一泊されたしとのこと」  二人は、偶然の一致に期せずして顔を見合わせた。  その夜、光秀は重臣十数名を引き連れ、馬首を荒木村重の持城の一つである華熊城に向けた。馬上で光秀は、荒木新五郎に嫁いでいる娘の範子に会えるかと思うと、激しい風雨にもかかわらずなぜか気分が軽やかになっていった。  華熊城は神戸の海が一望に見渡せる高台の石垣の上にあったが、その夜は漆黒の闇に閉ざされて、雨風以外は何も見えなかった。  光秀一行は早速、城内に通され、丁寧な扱いを若い城主荒木新五郎から受けた。すでに用意されていた乾いた着物に着替えると、遅い夕飼に招かれた。  城内の大広間には百目《ひゃくめ》蝋燭の燭台と灯台が多数置かれ、暗い闇になれた目には眩いばかりであった。光秀は、村重の案内する上席に座った。待ちかねていた村重は、列の上段に座している息子の新五郎に目くばせをした。 「惟任日向殿には華熊城にお出で頂き恐悦至極です。ごゆるりとご逗留くだされませ」 「新五郎、われらはこれから戦に出かける身ぞ。ゆるりと逗留できる暇などあるか。  舅殿、取りあえず冷えた体を酒でも飲んで暖めてくだされ。それに、丹波の猪を鍋にしてあるのでな」  村重の大声で、きらびやかに着飾った侍女達が徳利から酒を光秀の杯に満たした。 「かたじけない。生き返った思いだ」  光秀は軽く村重に頭を下げると、新五郎に声をかけた。 「いろいろと気づかい、礼を申す。範子は息災かの」 「はい」  新五郎の声は、なぜか細くおびえたようであった。光秀は、あらためて婿の線の細さが気になった。  会食者の腹がくちくなった頃、一人の妙齢な白拍子が現れた。腰には象嵌《ぞうがん》された細太刀を吊っていた。鞘を抜いて真剣を取り出すと、その刃を背にして頭の髪の上に載せた。そして懐から鈴のついた白扇を開くと、詠いながら踊りを始めたのである。頭上の刀剣は、踊りの舞が激しくなっても、微動だにしなかった。期せずして、会場から拍手が上がった。  余興と酒で、座はいつしか盛り上がっていた。光秀は頃合《ころあい》かと、村重に何気なく聞いた。 「ところで、中川瀬兵衛の配下の者が本願寺に米を売っているという、うわさをご存じかな」  村重の食べる口が一瞬止まり、光秀を見上げた。 「なに、瀬兵衛が本願寺と通じていると」 「昨日、京奉行より知らせがまいった。瀬兵衛は村重殿の家臣でもあり、そなたより真偽を聞いてもらえぬか」  村重は顔を赤くして憤った。しかしすぐに真顔で、 「ところで光秀殿、信長公にはこの話は届いておるのか」 「いや、京奉行には口止めをさせてある。殿はまだ何も知らぬはず」  信長公にこのことが漏れたら、ただでは済まない。村重は急に宴席を、明朝の出陣に差し支えると言って撤かせた。  翌早朝、光秀の寝所に茶を持って範子が現れた。範子は、しばらく見ない間に生娘から女房に変わっていた。若い時の妻ひろ子に生き写しであった。 「息災か、母が心配しておってな」 「いたりませぬが、何とか」  正室らしくなった範子ではあったが、その顔は父に会った嬉しさよりも何か憂いに満ちているように思えた。光秀は茶を一飲みすると、出陣すると言って立ち上がった。範子は頭をたれたまま父の顔を二度と見ようとはしなかった。  華熊城を出た時には、すでに村重の姿はどこにも見えなかった。夜半の内に城を出て中川清秀の陣に向かったに違いなかった。光秀は瀬兵衛のことよりも、娘範子の元気のなさが気にかかっていた。この戦が終わったら一度里帰りでもさせようと思った。   上月城  さわやかな初夏の風が、山々の緑の中を心地よく通り過ぎていく。高倉山の頂きから羽柴筑前守秀吉は眼前の熊見川を越えて、前方の山上に見える上月《こうづき》城をみつめていた。  こうして毎日静まった上月城を見つめるのも二ケ月近い。城壁の上には誰もいないように見える。しかし城の中には尼子勝久を城主として、三千人近い味方が閉じ込められていることを一日として忘れてはいなかった。  秀吉は、正面の上月城から視線を左右の山並みに移した。右翼側は大平山、左翼側は大亀山と呼ばれている。大平山の頂上にも、上月城の半分ほどの大きさの城があった。上月城の旧城である。しかし、そこにはためいている旗指物は毛利家の一文字三星の紋所と、吉川《きつかわ》家の丸に三つ引きの家紋であった。左翼の大亀山には、小早川家の三頭巴《みつがしらともえ》の旗が所狭しと山の緑を埋めていた。  秀吉の顔の皺は陽に焼けて、いよいよ深く刻まれていた。とても、覇気ある織田家の中国攻め総大将の顔には見えなかった。猿と若い時から愚弄されていた容貌は一段と小さくなり、まだ四十歳そこそこの姿はまるで老いた猿が立っているようであった。  秀吉は、側にいた小姓に黒田官兵衛を呼ぶように命じた。しばらくして黒の甲冑を身につけた若侍が現れ、秀吉の前にひざまずいた。  官兵衛と呼ばれた武士は意気軒昂としており、まだ二十代にも見える青年武士であった。もともと姫路の城主小寺|政職《まさのり》の家臣であったが、小寺家が毛利の陣営から織田方に付いた折に、その働きを秀吉が見込んで最近召し抱えた侍であった。 「官兵衛、宇喜多《うきた》の調略はなんとかならんとかや」  毛利軍の援兵として、備前宇喜多家の兵一万ほどが南一里の高地に滞陣していた。秀吉は万に一つ宇喜多家が寝返って、戦況が大きく変わることを期待していた。 「申し訳ありません。毛利も宇喜多も、われらの退却を目がけて攻めかかる算段で、とてもそれがしの話には乗りませぬ」  いつしか二人の背後に、秀吉の異父弟である羽柴|小一郎《こいちろう》が立っていた。小一郎は兄の秀吉と違って上背も体格もはるかに大きく、知らなければ二人が兄弟とは思えなかった。 「兄者《あにじゃ》」  小一郎はよほどのことではない限り秀吉を兄とは呼ばなかった。兄と呼ぶときは、秀吉が生死をかけて深刻に悩んでいるときに限られた。 「昨夜、城から逃げてきた足軽の話によれば、城内の水は切られて食糧もほぼ尽きて、上月城は落ちたのも同然のようじゃ。それに、信長の大殿《おおとの》は京の洪水で安土へ戻られてしもうたと聞く。兄者、敵は正面だけで五万を越しておる。このままでは退却が心配ぞえ」  秀吉は顔を一段としかめて、 「ちぇ、しかたなか。やはり、安土の殿に直接ご出馬願うしかなか。小一郎、わしが帰るまでこの高倉山をささえよ。わかったな」  早口で申し渡すや否や、山を駆け降り一気に安土に向かって早馬をしたてさせた。秀吉は非力であったが、なぜか乗馬だけは得意であった。昼夜兼行で馬に乗ることも苦にはしなかった。この高倉山の二万に満たない軍勢で何もできずにいるよりも、馬を走らせることで何とか窮地をひらきたいと感じていた。  部屋には灯がなく、暗く夜のようである。荒木村重は華熊城の奥まった一室で、従兄弟でもあり、家中一の重臣でもある中川瀬兵衛と向かい合っていた。二人とも重苦しく言葉がなかった。しばらく思案していた村重が思い切ったように、 「やはり、わしが大殿の所に詫びに行こう」 「摂津守、それがし瀬兵衛の手落ちであった、申し訳ない。この通り詫びる」  瀬兵衛は村重の前に手をついて、頭を深くたれた。 「しかし村重殿、信長の殿はわれらをお許しくださるかな」 「わからぬ。しかし謝らざるをえんじゃろ」  瀬兵衛は若くして、はえ上がった頭を上げると、急に目を赤く燃やして、 「信長の殿は執念深いお方。今回許して頂いても、今後われわれの出世はおぼつかぬのではないか」  二人はまた深く、長い沈黙に落ち入った。 「ところで、村重殿は仏を信じられるか」 「仏か」 「どう考えても、仏に仕える本願寺がなぜ悪いのかようわからん。本願寺に味方する毛利の方が道理ではないのか。もともとは信長殿が、石山寺を退散せよと無理難題を吹きかけたのが、この長戦《ながいくさ》のていたらくじゃ」  村重の妻たしの実家は石山本願寺の有力な檀家でもあったので、よけい村重の顔は暗く重かった。日頃の豪快な面影はみじんも無かった。  瀬兵衛の考えの方が正しいように思えた。しかし、いづれにしろ信長公は今回の米騒動を許してくれるだろうか。もし許してくれなければ、瀬兵衛は織田家にたてつくに違いない。戦にはめっぽう強く重宝するのだが、生来金には弱い男だった。本願寺に米が高く売れれば、敵でも平気で売る男であることをよく知っていた。  目前の瀬兵衛の言動を見ていると、すでに本願寺や毛利からかなりの金をもらっているようにも思えた。はたして、簡単に信長公は瀬兵衛を許すだろうか。 「安土《あづち》へ行っても一文の得にもならぬ。この際西に眼を向けて、播磨一国でももらう方が、ええのではないか」  瀬兵衛は、村重の腹の中を見透かすようにとぼけた。  事実このまま信長公に仕えていても、領土が増える保証はなかった。瀬兵衛は、もう腹をくくっているようであった。もはや、織田家に戻る気持ちはないようである。しかし、思慮のない男ではあったが村重の軍団にとってはかけがえのない同志であった。もし瀬兵衛を失えば、今のように信長公は摂津一国を自分に任せてはくれないかもしれない。生まれ故郷の摂津の国は自分のすべてであった。国替えなど夢にも考えられなかった。  いつしか心中、信長公に不満を持っている自分を見いだしていた。なぜこの村重を播磨攻めに使ってくださらぬのか。秀吉のような下手な戦はせぬ。わしなら、今ごろ備中まで切り取っておるものを。播磨が不都合なら丹波攻めでも構わぬ。光秀殿よりわしの方が戦はうまいことは、信長公は本願寺の戦でもおわかりのはず。村重は、信長の家臣であることをいつしか忘れていた。  その頃、明智光秀率いる近江の軍団は、明石浜の近くまで進軍していた。派遣された織田軍の武将たちにとっては、この戦ははかばかしいものではなかった。  この二月から、播磨八郡二十八万石を領する別所|長治《ながはる》が織田家に謀反し、三木城で抵抗していた。また長治の妻が丹波八上城主|波多野《はたの》秀治の娘である関係で、いち早く波多野氏も反織田の旗幟を鮮明にしていた。  明石の先の加古川を越えると、前面の山々には毛利、吉川、小早川、宇喜多の中国勢が待ち構えている。そして後方には別所や長井などの土豪の反乱軍がおり、必然的に織田軍は敵に挟まれることになった。唯一、織田軍は海沿いの山陽道を姫路まで確保しているに過ぎなかった。海路は、毛利水軍が大坂まで制海権を握っていた。  しかし、光秀の関心はいま後方にあった。馬上から、後を気にして何度も振り返っていた。荒木村重が率いる摂津の軍団がまだ見えないからである。当然、配下の中川瀬兵衛や高山右近の旗頭も見えなかった。すでに織田軍の先遣部隊である筒井|順慶《じゅんけい》、滝川一益らの軍団は、最前線の姫路城に到着しているころであった。  光秀は四年前に大和の城主筒井順慶の所に、次男の十次郎|光慶《みつよし》を養子として出していた。 順慶が初陣として光慶を連れて来てくれていたら、姫路で会えるかもしれないと思った。  明智家と筒井家の関係は最近特に親しくなっていた。順慶にはもともと子供がなく養子にした定次にも、光秀は五女とも子を前年嫁がせていた。したがって光秀は織田家の上役、また舅として大和の守護職である筒井家を実質的に支配していた。  その時、道のはるか前方から白い砂ぼこりを立てて、数十騎の騎馬軍が全速でこちらに駆けてくるのが見えた。  旗本たちの顔が一瞬、緊張した。光秀の馬を、旗本たちが防御のために取り囲む。近くにいた一人の武者が馬上から大声で、 「早く、何者か確かめよ」  その声で、数騎の騎馬武者が一目散に駆け出した。  しばらくして桔梗の旗を背に差した袰武者が戻ってきて、光秀に近づいた。その若武者は甥の明智|左馬助《さまのすけ》であった。 「殿、筑前守でござる。火急の用件でこのまま安土の上様の所まで突っ走るゆえ、挨拶はご無用にとのことでござる」  左馬助の話が終わるや否や、黒い騎馬隊の一群が大きな蹄の音を立てて近づいてきた。その音は、南蛮製の蹄鉄が嵌《は》めてある音であった。光秀の馬には相変わらずまだ藁編みの馬沓《うまぐつ》を履かせていたので、何か出し抜かれた気分であった。仕方なく秀吉一行を通り過ぎさせるために、馬を道端に寄せた。黒い馬団の中で秀吉だけが河原毛の白馬に乗っていた。 「惟任殿、大儀でござる。安土に急ぐゆえ御免」  秀吉の皺くちゃの顔が笑っていて、白い歯が見えた。あっという間に騎馬隊の一団は通り過ぎた。光秀は前線で何か良くないことが起きたように思えて、また不安にとらわれた。  琵琶湖の湖面が見えてきた。あと一刻も馬を駆けさせれば、安土の城も見えてくるはずであった。上月城の高倉山を出てから、四日目の朝を秀吉は迎えていた。さすがに乗り疲れて尻の皮が破れたので、昨夜から駕籠に乗り換えていた。  安土の山が見えてくると、秀吉は駕籠から出てまた馬に跨がった。安土城は山頂の石垣の上に五層の天主を持つ予定であったが、最上階の天主閣はまだ普請中で、白木の柱が張りめぐらされていた。奇妙な形の天主閣を見なれてから、もう三年近くになっていた。  来年にはこの天主閣も完成するだろう。しかし自分の中国攻めはいつ終わるのか、考えもつかなかった。  秀吉は琵琶湖から水を引いた堀に架かっている蓮池橋を渡って、安土山の南面の麓にある自分の屋敷に入った。安土城のある安土山のまわりは、すべて沼や蓮池に囲まれており、西側の橋と大手門に通じる南の橋以外からは安土城に入れない仕組みになっていた。  いつ信長公から召し出されてもいいように自宅で待機していたが、ほとんど不眠不休できた身体はすぐに深い眠りに入ってしまった。結局召されたのは、一眠りした後の夕刻であった。  秀吉は、普段、信長公が使う本丸の書院ではなく、天主の二層にある信長公の十二畳の居間に通された。まわりの襖には鵞鳥《がちょう》が描かれてあり「鵞鳥の間」と呼ばれていた。  しばらくして待ちかねたように、勢いよく信長が杉戸の引き戸を開けて入ってきた。御座に描かれた金箔の雉《きじ》の絵を背にして信長が座った。左側の棚には鳩が描かれてあり、この居間は鳥が主題になっているようであった 「筑前、上月城はどうした」 「恐れながら、上月城は山城、大軍を動かす訳にはまいりませぬ。城を毛利の軍勢五万が囲んでおりますゆえ、動きが双方取れませぬ。いかがいたすれば」  秀吉はおかしいくらい神妙であった。信長は、普段なら減らず口の一つでもたたく、秀吉が青黒い顔をしてうずくまっているのを見て、事が順常でないことを感じたようである 「筑前、みなの者が播磨攻めは力攻めがきかぬと申すわ。一旦退いて神吉《かみよし》城の神吉藤大夫、しかるのちに三木城の別所長治を攻めよ」  秀吉は信長公が自ら出陣してくれるかと淡い期待を持っていたが、透き通った声でその期待は無残に打ち砕かれた。 「さすれば、上月城内の尼子一党はいかがすれば」 「構わぬ、うち捨てい」  秀吉は、喉まで出かかった反駁《はんばく》の言葉を腹に飲み込んだ。気まずい思いで早々に暇を告げると、信長公もしいて引き止めなかった。  城門を出ると、外は夜の帳《とばり》がすでに落ちていた。真っ暗になった山道を下って自宅に戻った。  飲めない酒を一人で飲んでいると、自分に賭けてくれた山中鹿之助の顔が思いだされた。鹿之助は毛利につぶされた尼子家の重臣で、主家の再興を願って秀吉に与力したのである。今ごろ何も食べる物もない城で、わしの救いを待っているだろう。自分の力の無さで何千という兵を死地に追いやらねばならない業《ごう》に、秀吉の心は疼いた。  思い起こすと、無断で加賀攻めから戻り、長浜城での一ケ月の謹慎を命じられた。辛かった。それが解けた時、信長公から播磨攻めを申しつかった。死んでも戦功をあげなければと思った。  喜び勇んで六千の兵と播磨の国に攻め入ったのが半年前の天正五年の暮れであった。新しく姫路で雇いいれた黒田官兵衛と軍師竹中半兵衛の協力で、播磨の国境にある上月城までたちまちに攻め上ることができた。  しかし、大国の毛利家はそれほど甘くはなかった。秀吉が深く毛利の領土に入ってから、後方の別所氏や宇喜多勢を動かして挟み撃ちの戦術を取ったのである。上月城を起点に、毛利勢に包囲されてしまった。まさかこれほど中国攻めが苦労するとは、出陣時には全く思いつかなかった。  秀吉は、近くの長浜城にいる妻の祢《ね》と母なかに無性に会いたかった。長浜の方角を見上げると、星が一つきらめいているのが見えた。  しかし明日の早朝には、また馬を飛ばして播磨へ戻らざるをえない。いつ、毛利が総攻撃を仕掛けてくるか分からなかった。撤退をしくじれば、羽柴家の存亡にも響くだろう。祢に愚痴を聞いてもらう暇はなかった。   鬼ケ嶽城  それから三ケ月後、明智光秀は丹波と丹後の国境沿いに自軍を進めていた。織田信長は播磨攻略を一時あきらめ、大坂の石山本願寺を海から攻めるために水軍を強化していた。したがってその間、新たに丹波と丹後攻めを命令されたのである。  光秀の与力に入ったのは長岡與一郎であった。與一郎は光秀にとって年も近いこともあり、同じ労苦を若い時から分かちあっていて、最も信頼できる十年来の輩《ともがら》であった。  光秀と與一郎は趣味、嗜好までよく合っていた。特に和歌や茶道についてはお互いに競いあう数寄者《すきしゃ》でもあった。この天正六年の正月も安土城で、二人は信長から初釜の茶湯を頂いた。信長は腕力だけの荒くれ大名よりも、風雅を理解する二人をより好んでいたようであった。  この八月、両家は信長の仲立で親戚になった。光秀の四女玉子が長岡家の嫡男忠興に嫁いだからである。忠興は信長の小姓を勤めており、覚えも良かった。  光秀は秀吉が播磨で苦境におちいっている今、丹波、丹後を攻略して織田家の一番出世を目指したかった。秀吉は尼子勢が立てこもる上月城を見捨てる際、撤退に失敗して多くの武将を失っていた。  大江山が連なる、ある山腹から、光秀は|鬼ケ嶽《おにがたけ》城を見つめていた。秀吉の機先を制するよい機会が訪れていた。城主は長年織田家に盾突いている赤井悪右衛門直正であった。この城を落とせば、丹波から丹後に侵入できる。  鬼ケ嶽城は山の頂上に本曲輪《ほんくるわ》を造り、その麓の尾根の三か所に出城を築いていた。城の前面を川が流れており、容易く落とせそうにはみえなかった。しかし石垣はなく、土塁の上に高い柵と逆茂木を組んで城の館を防護していた。  光秀はしばらく城の様子を観察した後、腹心の藤田伝五を呼んだ。 「伝五、鬼ケ嶽城には幸いにも石垣がない。夕刻からは山風が吹くはず、火攻めにするがよいと思うが」 「よい思いに存じます」 「うむ。火がまわって敵が城を出てきたら、鉄砲五十挺ばかりで打ち掛けよう。敵には名だたる侍はいないと聞く」 「早速、手配いたしまする」  小柄な伝五は身軽に山を下っていった。  案の定、夕刻から光秀が予告した通り、強い山風が山頂に向かって吹き始めた。明智勢は一斉に火矢と松明を使って、城を攻め始めた。要所には薪を積み上げて火勢を強めた。明智の家臣たちにとって、火攻めは得意の戦法であった。比叡山の焼き打ち、越前の一向一揆の戦など数多く火を使っていたからである。  火は折からの風にあおられて、城の館を焼き始めた。その時、煙の中から数百名ほどの将兵が柵木を押し倒して、喊声を挙げながら明智軍に向かってきた。火つけの明智の兵士たちは我先と逃げ去る。  赤井の軍勢は勢いつけて、山を下って明智軍の先鋒に切り掛かろうとした。その時、静かに横手の木々の間から明智の鉄砲隊があらわれた。最初の大きな砲声は、五十匁筒の一斉発射の音であった。  込められた四十発の散弾は至近距離の敵兵を確実に撃ち倒した。赤井勢の動きが止まった。それと同時に、硝煙の中で乾いた音が続いた。明智の鉄砲隊が、立ち止まった標的を狙い撃ち始めたのである。それは恐ろしく正確であった。百発百中の感があった。  一番後方にいた赤井勢の一団が、早足で退却し始めた。それにつれて、赤井勢は総崩れになって後退していく。明智軍の先鋒の槍、刀が火に反射してきらめく。明智軍の追撃も見事であった。出城を攻撃している間に、いつのまにか本隊の一軍が本曲輪に向かってもう攻撃を始めていた。  光秀は、緊張感もなく味方の攻撃を眺めていた。あと一刻もすれば勝ちどきを挙げられると思っていた。  夜が暮れた時、すべてが終わっていた。しかし、敵将赤井悪右衛門の姿は見えなかった。あまりにもあっけない勝利であった。焼けただれた鬼ケ嶽城の址で、その夜の野営をとることにした。幕僚たちにとってみれば、山の頂上であれば、敵の来襲も受けることはないと高を括っていた。光秀は日中の疲れもあって、握り飯を食べた後、すぐに深い眠りに落ち入った。  何刻後、周囲の騒がしい音で眼を覚ました。小姓が慌てて駆けよってくる。 「殿、すぐにお立ちくだされ。赤井勢の夜襲でござる」  赤井悪右衛門は明智勢が攻め込む前に精鋭を連れて城を出て、近くの林に待ちぶせしていたのである。悪右衛門の精鋭が、光秀の本陣めがけて攻めかかってきていた。左馬助が、馬に乗ったまま光秀に声をかける。 「殿、それがしの鞍にお乗りください」  左馬助は乗馬が巧みであった。このような一大事に乗馬がそれほど得意ではない光秀が、暗い山上で馬を乗り廻す自信はなかった。素直に左馬助の手を取って、後ろの鞍にまたがった。  光秀を乗せた左馬助は軽々と愛馬を駆って、細い山道を一気に下っていった。光秀は、敵の夜襲の不安感よりも、手綱さばきの見事さにみとれていた。  夜が白々と明けるころ、光秀は肌寒い大気を感じながら、鬼ケ嶽城の山頂を麓からじっと見つめていた。若駒に昔、齧《かじ》られた右手の中指が疼いていた。  白い煙が、山中のあちらこちらから立ち上っていた。大きな死傷者はなかったとはいえ、悪右衛門の逆襲を許して逃げざるをえなかったことは、明智軍にとって後味の悪い失態であった。近くの猪崎城を攻めている長岡與一郎に顔を会わせるのが恥づかしかった。光秀は兵をまとめさせ、丹後の海を見ることなく五里ほど手前の福知山城を目指して戻ることにした。  ついていない一日を終わろうとしていた光秀に、もう一つ悪報が福知山城に届いた。丹波の居城である亀山城の城番として残っていた、家老の四王天《しおうてん》政孝からの早飛脚であった。  四王天の書状を細い蝋燭の灯の下で読み始めると、自分の顔が青ざめていくのがわかった。書状には、信長公からの指図書も同封されていた。祐筆が書いた見事な文字は、何度読んでも信じられなかった。 [#ここから2字下げ] 荒木摂津守村重逆心の疑いあり事の真偽を知らせよ もし真なら思い止まらせよ [#ここで字下げ終わり]  村重が謀反。あの米騒動は中川瀬兵衛ではなかったか。瀬兵衛の謀反ではないのか。人里離れた福知山では調べようがなかった。光秀は藤田伝五に二千の兵を預けると、残りの三千の兵に即刻亀山城に帰還させる命令をだした。  一方、長岡與一郎には明朝亀山城に戻るよう指示した。あまりうろたえては、秘密が露見する恐れがあったからである。與一郎には亀山で話をしよう。  水色の桔梗の紋の幟と旗指物が、細い山道をうねってつないでいた。光秀は、馬上で眠気を忘れて村重謀反の理由を考えていた。そういえば、瀬兵衛の米騒動の顛末を忙しさにまぎれて村重に確認していなかった。自分らしくない失策であった。しかし、信長公自身が村重を助けようとしている文面が、光秀の気持ちをまだ軽くしていた。  同じ頃姫路の城内では、秀吉が主だった重臣を集めて右往左往していた。秀吉が得ていた情報は光秀よりも悪かった。荒木村重の謀反だけでなく、配下の中川瀬兵衛と高山右近も同じく同心し、毛利と石山本願寺に合力したというのである。  秀吉はまた皺を一段と深くして、ため息をついた。軍議に出席している全員が、羽柴軍の危機を感じていた。高山右近は高槻城、中川瀬兵衛《せいべい》は茨木城、荒木村重は有岡、尼崎、そして華熊城を居城としている。  誰に話さなくても、淀川以西は敵地になるということであった。そのことは秀吉の軍団が一人、敵地の中に奥深く取り残されたことを意味していた。四十二歳はやはり厄年なのかと、秀吉は一人別のことを考えていた。 「殿、時間はありませぬ。もたもたしていれば、毛利が攻めてまいりましょう。この姫路の平城《ひらじろ》では、毛利の大軍を押し止めることはできませぬ」  竹中半兵衛が青白い顔で、秀吉に注意を喚起した。  秀吉は不機嫌に、 「わかっておるわな。半兵衛、どうすりゃいいとな」  その時、黒田官兵衛が秀吉の前ににじり寄った。 「恐れながら、この官兵衛、摂津守とも多少面識があり、今一度、謀反を思いとどまるよう談判したいと存じますが」 「なに、それがし自ら有岡に出向くかと」 「御意」  官兵衛には一計があった。元の城主小寺政職と荒木村重が懇意であったからである。官兵衛自身、村重とは面識はなかったが、政職に頼めば仲介の労を取ってくれると楽観していた。 「よっしゃ。見事、村重を口説いてこいや」  止めても行くなと感じた秀吉は、明るく官兵衛に許可を与えた。   摂津の国  摂津《せっつ》の国の伊丹は交通の要地である。伊丹を左に下れば播磨、備前、備中に通づる山陽道へ、右に折れれば丹波、丹後、但馬、伯耆《ほうき》への山陰道に通じている。伊丹《いたみ》城はその分岐点に位置していた。  村重は典型的な戦国大名であった。摂津池田氏の郎党の身から一国一城の主に成り上がっただけに、その胆力、知謀、武道にはことさら優れていた。そして村重は、それだけに城の造り方もよく知っていた。  伊丹城は摂津でも名の知れた堅城であり、最大の規模を誇っていた。信長は村重が新しく城を改築した折、名前を従来の伊丹城から有岡城に変えるように命令した。有岡とはひときわ目立つ意味であった。  村重は謀反の噂を知りながら、一人の人物と有岡城で対面していた。その男は中年過ぎにも、四十前にも見えた。浅黒く大柄な顔は、その男が旅人でもあることを感じさせた。 「荒木摂津守どのにお会いできて恐悦至極でござります。それがし島井宗室と申す博多の商人《あきんど》で、よろしく今後ともお見しりおきくださいんませ」  なまり言葉の強い、その男は九州博多の豪商島井宗室であった。 「うむ、荒木村重だ」 「手前、これまで明《みん》と朝鮮の貿易で、九州のお大名さまがたのご厚誼を頂いている者でごわす。これから摂津一の大々名でござる村重殿にも、よろしくお取り引き賜りたく厚かましう参上つかまりました」  宗室は用意してきた引き出物の風呂敷袋を、腰の後ろから村重の前に差し出した。 「これは明の絹で織った小袖どす。どうぞ奥方さまへお使いくだされ」 「うむ、これは女房どもが喜ぶわ。かたじけない」  しかし、その眼は喜んでいなかった。逆に気がかりそうに、宗室の眼を見つめた。  宗室は勘するどく胸元から黙って二通の書状を取り出し、頭を下げたまま村重の面前に差し出した。 「こちらは小早川隆景さま、こちらの書付けは本願寺|顕如上人《けんにょしょうにん》さまの起証文でございます」  最初に備前の左衛門隆景と裏付けに書かれた書状を取り上げ、読み始めた。いま村重は、織田家からの独立を真剣に考え始めていた。そのためには何としても、毛利の軍事的後盾が必要であった。しかし隆景の書状には支援の具体的な約束はなく、単に村重の寝返りを感謝する形式的な手紙であった。  気落ちした村重は、顕如の起証文を開いた。しかしそこには自筆で、本願寺の明確な与力の内容が書かれていた。特に毛利家に隠遁している前の室町将軍義昭に掛け合い、摂津ならびに望みの領国をもらい受けるとも書かれていた。そして、代わりに新たな兵糧の寄進を求めていた。  しかし、村重は嬉しくなかった。本願寺だけでは、織田家に勝てないからである。読みながら、毛利の優柔さに腹を立て始めていた。いま織田勢が浮き足立っている間に早く播磨の秀吉を撃つべく兵を送るのが、戦術の定石だと思っていたからである。  村重の顔色を見て宗室は、 「隆景さまからは、もし今後、毛利家に何か仰せつけられることがあれば、京の東福寺|塔頭《たっちゅう》の惠瓊さまに申しつけられたいとのご伝言でございました」 「えけい」 「てまえ、織田方の殿がたからは憎まれております故、なかなかこちらへ参るのは難儀でござりますわ。惠瓊さまは毛利に仕える僧でありながら、自由にこの地をお歩きできるなお方、きっと村重さまのお役にたてましょう」  話が盛り上がらないと知った宗室は、商売人らしく腰を上げようとした。そこに急に入ってきた、いかつい侍が宗室を無視して村重に言上し始めた。それは物頭《ものがしら》で宮脇という足軽大将だった。 「羽柴秀吉の家臣、黒田官兵衛という者が殿に目通りしたいと参っておりますが」  宗室は軽く会釈して部屋を出た。  村重はそれを気にもとめず、黒田という名前を考えていた。聞いたことがあるようであったが、思い出せなかった。 「わしは知らん」 「それでは、こちらでよしなに取扱います」  村重は、目を書きつけから離さずにうなずいた。毛利家がまだ自分を信頼していないことを知って、気が重くなった。そのまま二通の書き付けを懐にすると、渋い顔をして奥の間に消えた。  宮脇は黒田官兵衛と名乗る男を、敵方の間者と思い込んだ。秀吉の重臣なら、小者も連れずに単身で訪れるはずがなかったからである。宮脇は官兵衛に馳走をすると言って、奥の座敷にあげ、そのまま足軽数人で取り押さえ石牢に監禁してしまった。  その夜、村重は新妻のたしと閨《ねや》を共にしていた。たしは二十歳を迎えたばかりで、四十歳を越した村重とは夫婦としては不釣り合いであった。村重は正直、女子《おなご》が好きであった。  ぼんぼりの灯にほのかに映る、たしの白くて柔らかな暖かい肌を抱いていると、何ともいえない幸せな気分に満たされた。若い時から多数の女子と交わった。しかし、たしだけは今までの幾多の女子とは違っていた。年が若いからかもしれなかったが、女の業のいやらしさを少しも見せない女であった。かといって、閨でも村重を十分に堪能させる不思議な魅力を持っていた。たしとは、いくらまぐわっても飽きなかった。そこで年がいもなく、最近たしを正室としたのである。  たしの好きな芸事は歌を詠《よ》むことであった。戦の荒ごとに日々を過ごす村重にとって歌など無縁であったが、たしが唯一夫に望んだことは同じ歌を詠むことであった。いつしか村重もたしに見習って、少しづつ歌を創れるようになっていた。  たしとの乳くりが終り、一段落するとあおむけに蒲団に転がった。たしが村重の厚い胸にもたれかかりながら、 「とのさま、信長さまといくさをなさりますのか」 「うむ、わからぬ」 「信長さまは無情なお方ゆえ、われらも殺されますな」 「たし、そなたたちをそのような目には会わせはせぬ」  村重は、今もって謀反している気持ちはなかった。ただ、信長公に一緒について行く気持ちが失せていた。長年奉公していながら、信長公の人柄がいまだに分からなかった。なぜあのように戦をしたがるのか、なぜ非情に多くの民百姓を殺すことができるのか。石山本願寺の門徒との戦い、長島、越前の一向一揆との戦い、どれも納得いかなかった。  特に三年前の本願寺門徒一万五千を攻めた時、信長公はわずか三千の兵で雑賀《さいが》衆の鉄砲隊が待ちかねる場所に無謀にも突撃していった。村重はその時右翼を任されていたが、五町ほど先に一揆勢と戦っている信長公が見えた。村重の突撃で敵の包囲が一瞬ゆるみ、その隙に信長公は素早く馬を駆って天王寺砦に入られた。負け戦ではあったが戦後、村重は恩賞として播磨一国を急に任されたのである。  あの時、信長公は玉を太腿に受けて、大傷を負っていた。正直、鉄砲玉の位置があと少しずれていれば、動脈を切って死ぬところだったろう。自分の命を助けてくれた村重に、 「摂津には先陣をさせなくてよかった」  皮肉ともとれる独特な信長公の褒美の言葉を聞いて、村重はより感激した。口には出さないが、信長公はわしを好んでおられるとその時感じた。  しかし、よく考えると信長公は神、仏がからむと、普段と違って前後の見境がなくなるようだ。いくら信徒だからといって百姓を皆殺しにしては、米、野菜を誰が作るのか。村重の思いでは百姓は守るもので、殺す者ではなかった。それに、信長公はキリシタン教徒には仏教徒よりも寛容に見える。なぜなのだ。  村重は、たしに背をむけて寝返りをうった。明日、光秀が来るという。返答を考えると気が重かったが、いつしか眠りに落ちていた。  光秀は亀山城に帰ると、しばらく休息した後、坂本城に寄らずに安土城を目指した。体は疲れていた。馬に落とされないように鞍に乗っているのが精一杯だった。  あれは確か今年の正月のことだった。あの時は坂本城から船で安土城へ向かったことを思い出していた。明智丸と名づけられた軍船は五十人の兵員を乗せて、一刻あまりで琵琶湖を北上し安土まで行くことができた。  元旦の朝日を船上で浴びながら、身体は爽快で軽かった。供には光秀の茶道の師匠であり、堺の商人でもある津田|宗及《そうきゅう》が茶頭として従っていた。あの時は信長公の招客として恥ずかしくないよう船中、宗及に色々と質問していたことを思いだした。  安土城の天主閣の門を通り、本丸にある狩野永徳が墨絵で描いた梅の花の部屋に案内された。二十畳敷きの部屋には十一人の織田家の大将が招かれていた。その中の一人に選ばれたという喜びは、天にも昇る誇らしさで、身にあまる光栄であった。  招客の十一人にとっても、それは初めての経験であった。なぜなら、その年初めて天主閣を除いた四層の天主ができ上がり、正式な茶会を催すことができるようになったからである。  茶室の座敷には黒い布が一面に敷かれてあった。落ち着いてから部屋を見渡すと、床の間には右に松島、左に三日月、中央に玉澗《ぎょっかん》筆の岸の絵が掛けられていた。道具は海を表す四角の盆、それに万歳大海と呼ばれる茶壺、帰り花と呼ばれる水差し、花入れは鎖でつるした花入れ筒であった。お点前は、信長公の祐筆でもある松井有閑が務めていた。  そこには晴れがましく上座から嫡男の中将織田信忠、長老の林佐渡守通勝、滝川一益が並んでいる。いつもいなければいけない織田家の重臣柴田勝家の、いかめしい顔は見えなかった。きっと、越前から雪でこれなかったのであろう。  光秀の右隣は配下の長岡與一郎、そして左側は荒木村重であった。気心しれた三人がまとめて座れたので安心であった。與一郎も村重も茶道では自分より優れており、二人を手本にすれば良かったからである。多分、自分が泰然自若に振舞えているのは、そのためであろうと思った。  対面する列の中に、羽柴秀吉が小さな身体をことさら胸を張って座っているのが見えた。前年の暮れに但馬、播磨平定の褒美として、乙御前《おとめごぜん》の釜を与えられていた。そしてその折、秀吉は織田家中で正式に茶湯を開ける御茶湯政道《おちゃゆせいどう》の免許を頂いていた。  茶湯の点前が終わると、武将たちは信長公に一人づつ年賀の挨拶をしなければならなかった。四番目に呼ばれた光秀は、あわてて信長公の前ににじり寄った。  上機嫌であった。生来、自分の感情を腹にとめておくことができない性格であった。主君の顔を見れば、どのような気持ちであるか容易に判断できたのである。光秀にとって、その意味では仕えやすい主君であった。 「惟任、松永久秀討伐ではよう働いたによって、本年より茶の湯を許す。ついてはそなたに八角釜と牧谿の椿絵を褒美につかわす」  前年の八月に、織田家の重臣である松永山城守久秀が上杉謙信と計って謀反をおこしたのであった。じつに三度目の裏切りであった。それ故、信長公は、光秀が筒井順慶と組んで、憎い松永久秀を討ったことを評価してくれていた。  全員の目が光秀に注がれた。その中で秀吉の目がことさら光った。光秀は信長公の好意に、しばらく頭を上げることができなかった。仕えてからわずか十年にして、誰よりも早く外様大名の中で茶湯免許を許されたからである。  次に荒木村重が呼ばれた。光秀には二人の話がよく聞こえなかったが、正面から見える信長公の顔には腹立ちの時に表れる青筋が浮かんでいた。  村重が席に戻ってくるなり、小声で話しかけた。 「摂津守、いかがなされた」  村重は少しも表情を変えることなく、芒洋として答えた。 「なに、殿がわしの青磁の花入れを見たいと申すので、田舎大名の花入れなどお気に召しますまいと答えたら、えらく怒られてしもうた」  村重の表情からは腹の内は見えなかった。  その日は、他の織田家の武将にとっても感動の一日であった。信長公から正月の盃を頂戴した後、天主閣の名品を見学したからである。各層とも狩野永徳、光信親子に描かせた金碧障壁画の見事さに圧倒された。信長はそれらを逐一、家臣たちに懇切丁寧に説明し続けた。  光秀が見たことのない信長公の一面であった。木村次郎左衛門が安土城天主の普請奉行の一人でもあったので、話はそれとなく聞いていたが、天主閣がこれほど豪華なものとは想像がつかなかった。中でも圧巻は、吹きぬけ中央に張り出された空中の能舞台であった。  天主閣の見学後、四階の松の間で料理が出された。部屋の襖は、すべて松の絵で描かれていた。雑煮の汁は今し方殺した鶴でつくったと、信長は自慢気であった。  光秀はその鶴の一羽を光栄にも頂戴することになり、十日後の坂本城の茶会に同じ鶴の汁を招客に振舞ったことを、船上から思いだしていた。  しかし、いま光秀の入った安土城は正月とは一転して、凜と張りつめた空気に包まれていた。身が自然と引き締まった。光秀はなぜか、建築中の最上階の天主閣に上げられた。天主の中央は吹き抜けており、地階ははるか下方に暗く、地の底につながる感じであった。吹き抜けのまわりの回廊柱は朱塗りで、壁にはすべて金箔が張られていた。三間四方の部屋には中国の三皇五帝の絵が描かれていた。  信長は光秀の顔を見るなり、睨みつけるようにして、 「惟任、村重は何が不満だ」 「申し訳ありませぬ、しかとわかりませぬ。それがし早速、有岡の城へ出向き、翻意させるつもりでござります」 「よし、かならず翻意させ連れて参れ。村重はわしがよき家臣じゃ。見捨てておらんと、よう伝えよ」  村重を思う気持ちが、切々と伝わってきた。 「瀬兵衛に筑前を、右近にはフロイスを差し向けてある。惟任、そなたには松井|有閑《ゆうかん》をつけるゆえ、すぐに有岡へ参れ」  あきらかに苛立っていた。もし摂津の三大名が敵対すれば、織田家は天正元年に武田、浅井、朝倉氏連合と石山、加賀、長島の本願寺門徒に包囲された悪夢をまた見なければならなかった。  信長はすでに荒木村重だけでなく、翻意させるために中川瀬兵衛には羽柴秀吉を、高山右近にはキリシタン神父で中部日本布教長であるルイス・フロイスを口説いて派遣していた。  天主閣からの階段を降りながら、琵琶湖の沖島の島影を通して比叡の山がはっきりと見えた。比叡山の下には坂本の城がある。当分、坂本にも帰れないと光秀は思った。   バテレン  戦国の世の殺し合いは、もう百年以上続いていた。ある意味では死はあまりにも身近すぎて考える対象にもなっていなかった。人が死ぬことは当然すぎて、考える対象になりにくかった。  しかし一方、死について真剣に考え行動する人々があらわれてきた。その多くは当然、武士階級の人間であった。侍があまりにも安易に、無節操に腹を切ってしまう弊害の反省でもあった。そして特にここ十年ほどの間にキリシタンといわれる異人の宗教が武士間に広がり始めていた。  木村次郎左衛門は高槻に向かう道を、フロイスと同道していた。ポルトガルから伝来したといわれる宗教が自分の知る浄土宗などとどう違うのか、興味を持っていた。折しも信長公から直々にイエズス会のバテレンであるフロイスを、高山右近に会わせる命令を受けたのである。  フロイスは同じ三十代のように見えた。道すがら、たどたどしい日本語を馬上で話し続けた。 「キムラサマ タカヤマノトノノセンレイナハジュストデス。ゴゾンジデスカ」  次郎左衛門は右近殿がつい最近まで、キリシタン教徒であるとは迂闊にもしらなかった。まして洗礼とかいうことも知らなかったし、ジュストという奇妙な名前も初めて聞いた。次郎左衛門が難しい顔をして、黙っていたにもかかわらず、 「キリシタンノオシエデハ シュクンニソムイテハ ナラナイトオシエテマス。デスカラジュストサマモ ノブナガサマニサカラワナイデス」  外国では謀反や裏切りはないのかと思った。もし右近殿が謀反をすると、キリシタンの教えは面子を失うことになる。さすれば信長公もキリシタンのバテレンにはきびしくあたることになるなと、次郎左衛門は考えていた。  また話を聞きながら、フロイスが首からかけている銀色の十字架を見つめていた。日本では、罪人を磔《はりつけ》にする時に使う十字架を、なぜ後生大事にしているのか。聞こうとしたが、話が長くなるようなのでやめにした。  それよりも、高槻の城に入れるかどうかの方が重大事であった。まさか右近殿が我々を殺しはしないだろうが、命の保証はできかねた。  京を出てから半日ほどで、高槻の城が見えてきた。城は静まりかえって、わずかに二本の旗差物だけが翩翻とひるがえっていた。右近殿はすでに家族を人質として、有岡の荒木村重に送っているという。はたして信仰だけで説得できるものか、次郎左衛門は不安であった。  高槻の城内ではフロイスと高山右近が熱のこもった論議を始めた。次郎左衛門は、もっぱら聞き役にまわっていた。話の内容が異国語とキリシタンの教義にもとづくものが多く、よくわからなかったからである。謀反の疑いとキリシタンがなぜ結びつくのか正直、判断できなかった。  高山右近はわずか二十五歳で荒木村重から抜擢され、小さな城ながら城持ちの大名になっていた。右近は荒くれ侍の多い中でその容姿は色が白く繊細で、高槻の城主であると言われない限り、誰も大名であることが信じられなかった。  次郎左衛門が二人の話を聞きながら判断したことは、もし右近殿が信長公を裏切ると、信長公は領内二万人のキリシタン教徒を迫害して皆殺しにしかねない。したがって主君を裏切ることは神に対する罪にあたるというようなことを、フロイスは主張し続けていた。  右近は髪をかきむしりながら、自分がキリシタン教徒ジュストとして生きれば恩義ある主君荒木村重を裏切ることになり、また荒木家に人質として出している愛する妹と子供が殺されるだろう。それに父高山友照は村重との信義を重んじ、決して織田方にはつかないと言って悩んでいた。  フロイスも右近殿の意見も、それぞれ一理があるようで、次郎左衛門にもどうすれば良いのか判断がつかなかった。しかし唯一の朗報は、まだ荒木村重が裏切ると決めたわけではなさそうであるということであった。  一方、有岡の城内の大広間では、荒木村重とその嗣子荒木新五郎、一族の長老荒木元清、その男《むすこ》元満、重臣野村丹後守、池田和泉守等、荒木家の諸将がきら星のごとく列座していた。  その座敷の中央に明智光秀を先頭に長岡與一郎、松井有閑の三名が、城主荒木村重に対面していた。大広間の雰囲気は重く、衣擦れの音一つなく静まりかえっていた。  右筆の松井有閑が、使者の代表として口上を述べた。 「摂津守殿、近ごろ不穏なうわさが安土まで聞こえてまいる。信長公にはいたくご心痛あそばされ、至急、安土まで参上、ご機嫌伺いにまいられたいとの仰せでござるが」  村重は手にした扇子で額を叩きながら、 「これは、これは惟任殿はじめ、ご重役が参られ恐悦至極。村重もじつは参っておる。なぜ、そのような噂が広がっているのか、ようわからん。毛利が流しておるのかな」  光秀が少し頬をゆるめて、 「摂津守は織田家の重鎮、浅慮は困りますぞ。いづれにしろ一日も早く、上様に事なきことを言上されたい」 「あいわかっておる。しかし、これまでのことで信長公にご不審があるかもしれぬ故、それがしの母を安土に早速遣わせるとしよう。松井殿、信長公にこのこと、よしなにお取り次ぎ願いたい」 「いかにも」  母親を人質に送ることを聞いて噂は杞憂に終わりそうで、三人は少し安堵の顔を見せた。 「惟任殿、與一郎殿、それに有閑殿、お役目ご苦労でござった。われらが手の者も顔を揃えておる。早速、一献かたむけようや。のう、舅殿」  しかし光秀以下三人の顔は厳しく、酒を傾ける雰囲気ではなかった。荒木家の武将たちもなぜか誰も動こうとはしていなかった。 「村重殿、そなたが安土から帰られてから、酒はゆっくり頂こう。それではこれで」  光秀は村重の誘いを断って、立ち上がった。 「光秀殿、近々、範子を里帰りさせようと思っている」 「くれぐれも早く安土へ」  光秀は大勢の前で、不用意な親しさを村重に見せるわけにはいかなかった。 「うむ、あいわかった」  村重の顔には精彩がなかった。やはり、何か思いつめているようであった。三人は最後に軽く会釈をすると、有岡城の大広間を後にした。  村重は、いつまでも大広間の床の間から動かなかった。心中に、些細な信長とのやりとりを思い出していた。正月の茶会で信長が自分の青磁の花入れを欲しがり、それを断ったときの恐ろしい顔であった。家臣の持ち物を子供のように欲しがる主君に、強い嫌悪感を抱き始めていた。いつしか家臣たちも一人、二人と消え、残っているのは腹心の小姓の平太夫だけになっていた。 「平太夫、京の東福寺へ行ってくれぬか」 「いかにも。して何を」 「毛利の使僧で、惠瓊という僧がいるはず。村重が少々話をしたいと、連れてまいれ」  平太夫は、それ以上何も聞かずに座を立った。  その夜は月がいつもより白く大きかった。菊月の満月であった。村重は久しぶりに何年振りかの重陽《ちょうよう》の宴を女房、子供たちと催していた。女、子供たちの嬌声を聞きながら、感慨深げに酒を飲んでいた。ほろ酔い気分で、満月を見るために座敷から縁側に出た。月が青白く丸く光っていた。 「殿、盃に月が映りまするか」  化粧の匂いを感じると、何時の間にか、たしがそばにいた。 「たし、ほれ、ここを見よ。月が逆さに見えるぞ」  村重は黒塗りの盃に満たされた酒の上に、満月をうまく反射させていた。たしは盃を横から眺めて笑った。 「きっと、来年はよいことがありますな。月がこんなにきれいに映っております」  たしの柔らかな声を聞きながら、少しも幸せな気分になれない自分を見出していた。側には、たしに生ませた千代と又兵衛の二人の幼い子供がまとわりついていた。  いつしか、初めて信長に会った日を思い出していた。あれは、いまから十年前の永禄十二年正月であった。村重は当時の茨木城主池田勝政の家臣で、荒木|弥助《やすけ》と呼ばれていた。  正月四日大雪の日、三好三人衆が京の六条の館におられる足利義昭将軍を取り囲んだ。将軍を助けるため、弥助は主君と共に、三好勢と奮戦したのである。この時、明智十兵衛、すなわち若き日の光秀は将軍を守って六条の館にいた。そして将軍の旗本であった長岡與一郎は、桂川を渡ってまた三好勢と戦っていたのである。  奇しくも、この六条の合戦で活躍した三人の話を信長が聞き止め、後日、三人は誘われて織田家に仕官した。それから、三人とも皆城持ちの大名に出世していた。  しかし、もともと自らの手で主君池田勝政を追放して、攝津の国をわが物にした村重にとって、信長に仕えてからはまだ大きな恩賞はもらっていなかった。このまま信長に仕えていて、領国が広がるのだろうか。気づくと、平太夫が側で控えていた。 「おう、平太夫帰ったか。早かったな」 「殿、惠瓊殿をお連れもうしました」  平太夫は手で庭の築地を指さした。暗くてよく分からなかったが、そこに身の丈六尺を越すと思われる大柄な僧が立っていた。京都五山臨済宗東福寺の塔頭で退耕庵主の安国寺惠瓊であった。  村重は平太夫に命じて、すぐに別室に案内させた。  蝋燭の灯が惠瓊の影を、大きく障子に映していた。鉢ひらきの頭が異様に大きく、眉も太く、眼がまた黒く大きく光っている。惠瓊は、一度会ったら忘れない顔相をしていた。 「さっそくお越し頂き、恐縮至極でござる」 「摂津守のお召しとあって、取り敢えず参上いたしました」  村重は、すぐ膳を惠瓊の前に運ばせた。 「お疲れであろう。惠瓊殿は酒はたしなむのかな」 「かたじけないが、拙僧は不調法でござってな。この淀川大根を頂こう。なかなかうまそうじゃ」  惠瓊が膳の上の料理を食べるのを、村重はしばらく黙って見ていた。 「惠瓊殿、毛利家は上洛する気持ちがあるのかな」  村重は単刀直入に問いかけた。惠瓊は箸をゆっくりと置くと、 「毛利家では三道並進策《さんどうへいしんさく》と申しております。まず、宗家毛利輝元さまと、小早川隆景さまが将軍足利義昭さまを奉じて、備後、播磨から京へ入ります。そして吉川元春さまの軍が但馬、丹波から京の背後に廻り、越前と美濃の織田を分断します。すでに毛利の水軍が大坂の本願寺目指して、この尼崎の海を進んでいるころと思われます」  惠瓊の落ち着いた話し方は戦略にかなっていた。村重が毛利輝元でも、同じ作戦を取ったと思われるからである。惠瓊はそんな村重の気持ちを巧みに汲み取ってか、 「輝元さまからは、もし摂津守さまが毛利にご同心いただければ、摂津は論ずるまでもなく、播磨、但馬、丹後、丹波の五ケ国を差し上げるとのご内意を頂いております」  村重の気持ちが急に明るくなった。織田家を裏切れば備後、播磨、摂津の道が京まで一気に通じてしまう。摂津を含めれば、優に百万石を越す大領地である。 「毛利輝元殿は確かに五ケ国を、この村重に与えると言われておるのか」 「いかにも。それでなければ拙僧がのこのこと命を賭けて、ここに参られようか」  村重はまた黙って考え始めた。はたして、毛利は織田軍に勝つことができるのか。しかし、毛利軍は現に上月城で羽柴の軍勢を打ち破っているではないか。自分も出陣していて毛利勢につけいる隙はなく、手も足もでなかったではないか。惠瓊の言うとおり毛利、小早川、吉川、そして石山本願寺が本気で動けば、中国の地から織田軍を追い払うことができるかもしれないと思い始めていた。  村重は酒を盃に満たすと、急にそれを惠瓊に突き出した。 「惠瓊、固めの酒だ。これだけは飲め」  惠瓊は村重ににじり寄ると、盃を受け取り一直線に村重を見つめた。そして、何も言わずに酒を一気に飲みほした。村重は安堵の笑いを浮かべた。 「貴僧が考える織田家中の武将の評判を聞きたい」  惠瓊は初めて笑みを浮かべて、 「左様でござりますな。まず信長殿は、いずれ高転《たかころ》びなされるでしょうな」 「ほう、してその子細は」 「竹馬に乗れば遠くが見えますが、足下の石にすくわれます」  惠瓊のわかりやすい表現が妙に的を射ているのに感心し、何となく納得できた。 「それでは、次の織田家を継ぐのは誰だ」 「左様、多分惟任さまか、筑前殿の相争いでしょうな」 「わしは惟任殿の配下じゃ。これは好都合ではないか」 「いえ、殿のご武運は惟任さまと一緒では吸い取られ、衰運となりまする」 「惠瓊は占いもするのか」 「少々。戯事《ざれごと》でござる」  村重には、惠瓊の占いが戯事には到底思えなかった。舅の光秀も自分の味方にはなれないのかと、不思議な気がした。  冬の訪れが一日、一日と近づいていた。木の葉が風に散って、湖面の上に飛んでいく。光秀は、久し振りに坂本城で茶を立てていた。信長公から拝領した八角釜を鎖で釣って、薄茶を楽しんでいた。湯が煮えたぎって、乾いた音をたてているのが心地良かった。  その時、重臣の一人である伊勢貞知が茶室に入ってきた。貞知は前《さきの》足利義昭将軍の家来であり、織田家に仕官後そのまま光秀の家臣になっていた。 「殿、長岡殿がお見えになりました」  茶室に腰をかがめて入ってきた與一郎は具足姿であった。 「これからまた丹後攻めに参る所だが、京の村井さまよりの火急の知らせを持ってまいった」  與一郎の細い顔がとくに青白く見えた。何か悪い知らせだと、光秀は直感で感じた。案の定、與一郎の言葉は衝撃であった。  荒木村重は約束した安土伺候を、いまだもってしていないという。光秀の顔も青くなった。人質に送ると言った母親も、依然として有岡城にいるという。 「何ということだ。村重は本気で逆心するのか。與一郎」 「光秀殿、それに摂津守は信長公の目付《めつけ》を京に追い払ったと、今日聞いた所でござる」  どう見ても、荒木村重の謀反は明白なようであった。しかし、荒木家に差し向けた織田家の小姓たちを村重が殺さなかっただけ、まだ救われると光秀は思った。  與一郎と貞知が善後策を話し合っているところに、今度は明智左馬助が入室してきた。また何かあったようである。 「殿、範子《のりこ》さまが華熊城より、里帰りなさいました」  光秀は範子が無事帰国したことを聞くと、頬が弛んだ。しかし左馬助の顔が暗いのを見て、 「どうした。範子に何ぞあったのか」 「じつは、嫁入り道具をすべてお持ち帰りになられました」  村重が嫡男新五郎の嫁の範子を離縁させることにより、その決意を見せようとしていることに気がついた。光秀は與一郎に茶を立てようとして、柄杓《ひしゃく》に注いだ白湯《さゆ》をそのまま静かに八角釜の中に戻した。手にした黒茶碗の中には、漆黒の闇があった。   対 決  誰もが考えたくないことが起ころうとしていた。年の暮れには家族と一緒に過ごしたいと思う気持ちは、織田家の武将も変わりなかった。しかしそう思う前に、戦国の世はまた大きく動き始め、誰にも止められなかった。  光秀は、荒木村重謀反の子細を安土に書状として差し出した。信長はその書き付けを見るやいなや、安土城から馬を駆って京の二条の館に入った。すぐさま光秀、秀吉それに小姓でもある松井有閑が呼ばれた。  二条の館の大広間は、信長の命で一年間かけて新築されていた。光秀は工事を村井貞勝と一緒に手がけたので、馴染みの部屋であった。その大広間で信長公と対面すると、その顔は村重に対する怒りを通り越して、すでに冷静に対決する普段の顔つきになっているのを感じた。  光秀は配下の将である荒木村重らの不始末の責任を取るためにも、今一度、信長公に村重翻意の猶予を求めざるを得なかった。  信長は即座に答えて、 「惟任、村重はこの信長を見くびっておる。力をば見せてやらねばならんわ。有閑、中将信忠に命じて、織田の全軍に陣布《じんぶれ》をさせよ。明日、摂津表に余は出陣する」  信長は織田家の総力を挙げて、謀反人荒木村重、中川瀬兵衛、高山右近を討つつもりのようであった。幼少より多くの親族、家臣が信長を裏切ってきた。まして自分の愛する者が反逆するほど悲しいことはなかった。しかし、いつもそれを一人で耐えてきた。愛する者から受けた裏切りの報いは、ある時点から恐ろしいほどの憎悪と復讐に変化した。憎しみの心に変心した後は阿修羅のごとくなり、何人も信長の行動を止めることはできなかった。  四年前の正月には、姻戚でもあった浅井長政親子と朝倉義景の頭蓋骨を漆で固め、それに金泥を塗った薄濃《はくだみ》にした。その首を酒の魚として、馬廻り衆と酒宴をおこなったと聞いて、光秀も鳥肌が立ったのをよくおぼえていた。それは、四年間にわたる死の脅迫に対する信長の仕返しでもあった。  村重たちへの怒りが復讐に変わるまでに、何とか翻意させなければならないと光秀は感じた。まだ時間はある。運よく、信長は光秀に向かって命令した。 「惟任、御所に参って、毛利との和平勧告の綸旨《りんし》をもらってまいれ」 「和平の綸旨でござりますか」 「すぐに勅使を毛利に送るよう手配せよ」  信長公が村重謀反で勅使を送りたくなるほど、真剣に悩んでいることを知って驚いた。まだ村重を救う機会があるように思えた。  二条の館を出ると、秀吉は摂津に出向き、光秀は京の町に残った。  光秀は京の町が好きだった。美濃で育った自分が、京の町ではことさら田舎者に見えたからでもある。それを自覚させるだけの風雅が、京の都には充分あった。自分の無知を知るにつれ、それを上回る向学心が胸に燃えた。  二十年ほど前に、初めて京を訪れた浪人明智十兵衛が最初に知り合った人物が、吉田神社の神官吉田|兼和《かねかず》であった。昔兼和の父|兼右《かねみぎ》が吉田神道の布教の折、光秀の父である光国を美濃の明智城に訪ねて以来の縁であった。  初対面ではあったが、光秀と兼和は生まれ年が同じこともあって、すぐに親しい知己になった。代々京の都の神社を司る神祇の家柄であった吉田家は、朝廷の公家たちとも親しかった。兼和の紹介で、職のなかった光秀は足利義昭に仕官できたのである。兼和は、友人以上に恩人でもあった。  光秀は夕暮れ時、従三位吉田兼和の自宅を訪れるために、二条の館を出て御所の南側を通り、賀茂川を渡って、その先の小高い吉田山を目指して馬を進めていた。  吉田神社はその吉田山の麓にあった。入口に松並木の参道があり、奥に見える神社の朱色が夕陽に映えてまぶしかった。兼和の自宅は神社の裏側の広大な杉林の中にあった。  兼和は光秀の顔を見ると、鼻髭に笑みを浮かべて、一番良い奥の客間に案内した。 「よう、しばらくであったの、息災かの。しばらくお顔が見えんだったので、心配しておったがの」 「うむ、摂津の戦で忙しくてな。兼和殿、今日はまた頼みがあって参った」 「十兵衛の頼みであれば何なりと。荒木の殿のことかな」  兼和の勘は鋭かった。光秀は午前中に二条の館で、信長公から受けた話をこと細かに説明した。兼和は顔をしかめて、難しい顔をした。 「さてさて、信長さまは先に、室町の将軍さまとの和平の綸旨をお受けにならんで、主上のご機嫌斜めと聞いております。またまた身勝手に申されても、勧修寺晴豊《かじゅうじはるとよ》さまが伝奏してくれますかな」 「いかにも、そなたの言う通りだ。しかし和平ができれば、村重を助けることができる。何とかならぬか」 「そうですな。荒木さまは殿の舅でもありましたな。それでは取り敢えず、近衛|前久《さきひさ》さまに話してみましょう」 「かたじけない。恩に着る、兼和」 「何をおっしゃります。明智の殿さまは、もっとご出世なさらねばなりません。手前のできることなどお易いものです」  兼和は、光秀の依頼を心よく引き受けた。しかし急に細い肩を落とすと、小声で、 「問題は、毛利が応じるかどうかわかりませんな。これも取り敢えず、毛利家使僧の惠瓊さまと話てみましょう」 「良いとなれば、わしが出向いて話をつけることにしよう」  二人の深刻な話が終わると、兼和は手を叩いた。 しばらくして、妙齢な女性が茶を運んできた。並の侍女や巫女《みこ》とは瞬間的に違うと思わせる雰囲気を持っていた。光秀の前に高麗の井戸茶碗を差し出すと、 「吉田の妻になりました伊也《いや》でござります。よろしゅう、おみしりおきくださいませ」  兼和が大分以前に妻を亡くして、一人でいることは知っていたが、急に後添えを紹介されて光秀は素直に驚いた。 「兼和、人が悪いな。なぜ早く知らせぬ。この女房はどちらの家から」  兼和は年がいもなく照れて、頭を掻いた。 「言おう言おうと思っていたが、ついつい言いそびれてな。伊也は長岡與一郎さまの娘ごじゃ。祝言は戦が落ち着いてからと思うてな」 「そういえば、娘玉子の祝言の時、父上からそなたを紹介されたように思うたが、忙しさに紛れて失念してしまっていた。許されい。そうすると、兼和とわしはこれで親戚になるのかのう」  光秀は昨年まで、丹後守護職である一色氏を攻めあぐんでいた。そこで一計を案じて、長岡與一郎の娘を一色義定に添わせて和睦を計った。しかし、その後すぐに義定が寝返ったために、與一郎は嫁入り直後の娘を実家に戻した経緯があった。しかし、まさか目の前の女性が長岡與一郎の娘伊也とは気づかなかった。  光秀と兼和は運命のいたずらを感じて、大声で笑い合った。これで何事も隠さずに、兼和には話せる気持ちになっていた。二人はいつしか連歌の会に誰を呼ぶかを論じ始めた。光秀にとって、それが何よりも今の重苦しい荒木村重の圧迫から逃れる唯一の道であった。  数日後、光秀は供に溝尾庄兵衛一人を連れて、惠瓊の住む東福寺を訪れた。日はまだ高いにもかかわらず、冬の日は早くも夕暮れを思わせ、寺の参拝客も見当たらず辺りは閑散としていた。  その広大な東福寺の境内には、自慢の紅葉が赤、黄色と咲き誇り、一瞬、光秀の気持ちをなごませてくれた。光秀は、商人の姿に身を扮装していた。  僧房の一室で二人は向かい合った。光秀も惠瓊もお互いに名前は知っていたものの、初対面であった 「早速でござるが、信長公よりの申し出を、毛利輝元殿にお伝えして頂きたく参上仕まつった。摂津守村重はもともと織田家の家臣でござる。村重の大義なき謀反で毛利と織田が相争うは、両家にとって栓なきことと存ずる。昨日、信長公は天皇に和平の綸旨を奏請されておりますので、近々、勅使が毛利輝元殿に遣わされると思われます。ぜひ、この件よしなにお取り継ぎ頂きたい」 「これはこれは、惟任日向守さまともあろうお方が、愚僧ごときにもったいないお申し出でござる。早速、国もとの輝元公にお知らせつかまつろう」 「これは有り難い。すぐに、信長公にもお伝えいたす」  惠瓊は大きな眼をぎょろりとさせると、急に厳しい顔になり、 「それはそうと、わが殿は信長殿には少々ご不信の念をお持ちでござる。輝元公は、本願寺の熱心な信徒でもござる。まずもって村重殿の和平を奏上する前に、石山本願寺との手打を先になさるのが筋ではござらぬか」  惠瓊の言い分は尤もであった。村重が毛利に寝返った訳も、織田家と本願寺との戦にすべてが端を発していたからである。光秀が困った顔をしていると、 「それはそうと、もし信長殿が毛利家を攻めないと約束すれば、毛利は惟任殿の話に乗るかもしれませんな」 「どうすれればいいのだ、惠瓊殿」  惠瓊は投げた餌に光秀が食いついてきたと知ると、とぼけて、 「信長さまの中国攻めをしないという誓紙が頂ければ、摂津はお返しもうそう」 「しかし、時間が」 「それではここで惟任殿の一筆が頂ければ、それを持って拙僧が輝元さまの郡山《こおりやま》城まで走りましょう」  光秀は一瞬ひるんだが、信長公が毛利との和平を望んでいるなら、自分が代わりに一筆書いても問題はないだろうと思った。惠瓊が書いて差し出した文案を見ると、 [#ここから2字下げ] 織田家は毛利家の領国に踏みいらずして 毛利家は摂津国に拘わりせずこと 天正六年十一月吉日 [#ここで字下げ終わり] とあった。光秀は、信長公の代りに惟任の花押を書き記した。しかし思いとは別に、戦場では血生臭い風がすでに吹きはじめていた。   海 戦  冬の海にしては暖かな風があった。甲鉄船《こうてつせん》の船上で、九鬼嘉隆《くきよしたか》は霧がでないことを祈っていた。前夜、毛利の軍船六百余艘が石山本願寺に向かっているという知らせを受けて、嘉隆は六艘の甲鉄船を率いて夜半過ぎに堺の港を出港した。そして石山本願寺につながる木津川の河口で毛利の軍船を待っていた。  この同じ海域で二年前、織田の水軍は大|安宅《あたか》船十艘、それに百隻以上の軍船と歴戦の武将を失う大敗を喫していた。信長はそこで自らの織田水軍の再建を諦め、志摩の九鬼家に助力を申し入れたのであった。  宗主の九鬼定隆は当時、天下一の毛利水軍と戦うのは家の誉と、息子嘉隆に九鬼水軍の全権を与えたのである。嘉隆三十五歳は、嬉々として織田家の配下に入った。  夜が白んできていた。あと半刻もすれば夜が明ける。大坂湾の海は波一つなく静かだった。これから始まる戦には好都合であった。波が高いと、大砲《おおづつ》の外れる距離が大きくなる恐れがあったからである。  嘉隆は巨大な甲鉄船に乗っていた。それは前年、信長が毛利の安宅船に負けない大安宅船を造ることを命じた船であった。なお毛利水軍の使う海上火薬である焙烙《ほうろく》と火矢を防ぐために、舷側の盾板はすべて厚い鉄板で覆われていた。また、乗り込まれないように、船首から船尾までは総矢倉になっていた。大きさは、少なくとも毛利の安宅船の倍であった。大砲は船首と船尾に二門づつ配置され、兵員百名を積んで百挺の櫓で動く様は完全な水城《みずき》であった。  最初の甲鉄船を旗船として、「鬼宿丸《おにやどまる》」と命名した。しかし、今日の敵は毛利の水軍である。一揆勢のような素人の集団ではない。それに毛利水軍は二年前に、この場所で織田水軍と戦い、一方的な勝利をおさめている水軍である。油断はできなかった。  嘉隆は次第に緊張して、肌に武者ぶるいが始まった。敵はもうすぐ現れる。嘉隆のいくさ勘はいつも正しかった。  備後三原城の高窓からは因島、能島、来島が見える。まさに村上水軍三百艘が因島の各港から、朝日を浴びて大坂へ向けて出航しようとしていた。船首の帆に翻る「一文字三つ星」と「丸に上」の船紋が大きくはためいていた。  毛利水軍の大将小早川隆景は何の不安も、出帆していく毛利水軍に抱かなかった。三百艘の軍船の後には、六百艘の兵糧を積んだ船が付き従う。これで、本願寺もしばらく本格的に戦えるだろう。  船を見送った後、隆景は京の惠瓊から受け取った密書を見つめた。それは、摂津の荒木村重、中川瀬兵衛、高山右近が毛利に同心した、という嬉しい知らせであった。  隆景は久し振りにのばした口髭の長さを気にしながら、早急に三木城の別所長治と有岡城の荒木村重との合同軍議を開かねばならないと感じていた。新しい同盟軍と毛利勢で、まず最初に播磨の姫路にいる羽柴秀吉を、摂津と備中から挟み撃ちにして、息の根を止める作戦を考えていた。とりあえず、それが成功すれば全中国は毛利のものとなり、当分、安泰になる。隆景は今一度、石山本願寺への兵糧輸送の成功を祈念した。  九鬼嘉隆は鬼宿丸を微速前進させながら、朝霧のかなたを今や遅しと待ちかねていた。かすかに櫓を漕ぐ音に混ざって、多くの船の波を切る音が聞こえてくる。その瞬間日が差し込み、朝霧が海面から一斉に消え去っていった。前方に黒い船団が、ごまのように見える。待ちに待った、毛利の水軍に間違いなかった。  嘉隆は、帆柱に九鬼水軍の旗をあげさせた。それは織田家の木瓜《もっこう》の紋所ではなく、九鬼家の七つ星の旗と、「あら波」と書かれた金泥の旗であった。今回は織田家の水軍として戦うのでなく、志摩の九鬼家と毛利家の戦いであると考えていた。  嘉隆は代々九鬼家に伝わる黄金の御幣《ごへい》の船采配を大きく振り、他の僚船五艘に鋒矢《ほうし》の隊形を取らせた。しかし、わずか六艘の船で、雲霞のような大軍に突っ込んでいくのは、大船といえ、さすがに勇気がいった。  矢の先端である嘉隆の船が、毛利の児玉就英、浦兵部の海将に率いられた船団に突入するやいなや、毛利水軍の火矢が花火のように甲鉄船に落下した。  その時天をゆるがす轟音が炸裂し、海面を揺すった。見ると、前方の毛利安宅船の矢倉が吹っ飛んでいた。  嘉隆は他の船長に、戦が始まったら小船には構うな、毛利の大将船だけを砲撃するよう命令していた。案の定、毛利の小早船《こばやぶね》と関船《せきぶね》による攻撃は何の被害も甲鉄船には与えなかった。  前の戦闘で織田水軍を壊滅させた焙烙《ほうろく》火矢の爆弾も、一寸以上もある甲鉄船の鉄板は破壊できなかった。毛利の大将船には大砲が一門積んであったが、飛距離も破壊力も織田水軍の大砲にはかなわなかった。  結果として嘉隆の率いる甲鉄船は自由きままに毛利の安宅船に近づき、ことごとく砲撃した。兵糧を満載していた安宅船は喫水を撃ち破られ沈没、又は炎上して海面をさまよった。  二刻後には大将船を失い、毛利の軍船は武器、兵糧を海に投げ捨てて、戦場から離脱し始めた。嘉隆の艦隊はまだ右往左往している毛利の小船百艘近くを、木津川の河口の中洲に追い込み、閉じ込めることに成功した。  兵糧船の多くはそのまま中国に戻り、本願寺にとって頼みの米は一粒も届かなかった。毛利家にとっては、取り返しのつかない大敗北であった。毛利水軍にとっては悪夢であり、また、瀬戸内海の覇権を失った屈辱の日であった。  信長はその日の早朝、摂津表へ出陣しようと小姓たちに準備をさせていた。そこに、小姓の仙千代が廊下をあわただしく駆けてきた。木津川沖で九鬼嘉隆の水軍が、毛利水軍と戦闘に入った、という知らせを伝えにきたのであった。  信長は、出陣を取りやめて居間に戻った。今度こそ、かつて長篠で武田の騎馬隊を織田鉄砲隊が壊滅させたように、織田の水軍が劇的な勝利を挙げることを真に願っていた。  昼過ぎ松井有閑が笑みを浮かべて、大勝利の知らせをつげた。 「嘉隆、でかしたぞ」  喜びのあまり、有閑の前で小躍りした。信長公が不得意な海戦で勝ったことを喜んだのか、自分の代わりに九鬼嘉隆という若者に賭けた正しさを喜んだのか、よくわからなかった。  三日後、信長は摂津山崎に陣を張った。そして、高山右近の高槻城と中川瀬兵衛の茨木城を織田軍主力が包囲した。陣をしいた主だった武将は織田信忠、北畠信雄、神戸信孝、佐久間信盛、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、長岡與一郎、稲葉一鉄、前田利家、佐々成政、筒井順慶、池田勝三郎らの諸将約三万五千の大軍であった。  早速、各諸将は割り当てられた場所に付け城を造成し、そこに兵を入れた。高槻城と茨木城は完全に分断、包囲されて蟻一匹はい出せない有様になった。信長はそれを見て、明智、滝川、丹羽の三将に荒木村重の本城である有岡城に向かうように指令を発した。  光秀は部下たちが手当たり次第、城の付近の民家を焼き払い、略奪するのを黙って見ていた。黒煙が野火のように広がっていた。織田家の武将たちは、木津川沖で毛利水軍に勝利したことをすでに知っていて勢いづいていた。  村重の戦略は序盤から狂い始めていた。光秀は今ならまだ間に合う、村重、信長殿に頭を下げろと心の中で念じていた。  高槻城の天守閣から、高山右近は夜の屋外を見つめていた。城の周囲に赤く炎が点々と広がっている。織田方の陣中で火を焚いているからであった。夜気は真冬を思わせるほど冷たく寒かった。織田方の将兵も寒いのであろう、篝火《かがりび》はことさら大きく見えた。  三層の天守閣から降りて、右近は静かに居間に入った。妻のジュスタが銀の十字架を手に一心に祈っていた。燭台の灯がゆれて、妻の顔が一瞬、聖母マリアのように見えた。 「城のまわりは織田一色。このままでは、城を枕に皆殺しにあおう。ジュスタ、予は決めた。武士をいまからやめることにした」  その声に驚いて、ジュスタは夫、ジュストを見あげた。 「武士をやめるとは」 「予が侍をやめることで、領民とキリシタン衆徒の命を助ける道が見つかるかもしれぬ。今後は、すべてを神の御心にまかせるつもりだ。父と主だった者を呼んでくれ」  妻は、夫がすべてをデウスの御心に、一族の運命を任せる覚悟を決めたことで、何かほっとしていた。  大広間に高山家の主だった者が、深夜ながら集まった。右近の父親高山友照、洗礼名ダリヨが白髪頭を目立たせながら一番前に座っている。右近はゆっくりと静かに立って、皆に語りかけた 「皆の者、今宵、予は一つの大きな決断をした。予は幼い時よりキリシタン教徒として、今日まで神の御加護を頂いてきた。しかし高山家にとって、われらを取り巻く状況は尋常ではない。もし信長公に逆心を続ければ、われら一族だけでなく、他の多くの罪なきキリシタンが殺されるだろう。また信長公に仕えたとしても、荒木家に差し出したわが嫡男と妹は磔になる定めであろう。それ故、予はデウスの教えにしたがって自分のすべてをを犠牲にし、捨てることにした。これが、われらのために犠牲になられた、主の愛にむくいることであろうと思うからである」 「わしは信長に同心せぬぞ。可愛い孫を殺す訳にはいかぬがの」  ダリヨは話を折った。ダリヨは年のせいか、右近の説く道理を理解できないでいた。しかし右近は気にせずに、そのまま話を続けた。 「そこで予はすべての所領を捨て、予を助けてくれた御身らの許を去ることにする。ここで剃髪し、教会に参る所存」  言い終わるや否や、腰の小刀をすばやく抜くと一気に髻《もとどり》を切り落とした。家臣たちは軽い悲鳴を上げると、すすり泣きが始まった。  小刀を洗礼を授けてくれた父ダリヨに与えると肩衣を脱いだ。肌衣の下からは、紙衣《かみぎぬ》の着物が現れた。右近はすでに死を覚悟していた。最後に愛する妻ジュスタに肩身離さずに愛用していたロザリオと切った頭髪を手渡した。もはや、ダリヨは何も言わなかった。  右近はそのまま一人で暗い城門を出ると、織田方の篝火が見える陣地に向かって歩き始めた。折しもその晩は月が出ていたので、明かりがなくても歩くのにさほど不自由ではなかった。  これから自分の身がどうなるのか、わからなかった。しばらく歩くと、当然のごとくすぐさま織田方の見張りに見つかった。  歩哨の武士は異様な姿の武将が高槻城主高山右近であると知り、すぐさま上司である佐久間信盛の陣所に右近を連れていった。  深夜でありながら信盛は具足姿で、すぐさま右近の前に現れた。そしてほどなく近くに陣を張っていた秀吉も駆けつけてきた。二人は髻を切って紙衣に身を纏った右近を見て、衝撃を受けた。かっての同僚である右近が自害するのではないか、と恐れたからである。  秀吉は必死になって今一度、信長公に会うことを勧めた。右近を以前から好いていることも知っていた秀吉は信長公が見捨てるはずはないという信念を持っていた。また信盛は、誰一人として右近自らが織田家に謀反したとは思っていないと説得した。  しかしそれは本意ではない、この場所で頭を剃って蟄居《ちっきょ》するのが自分の意志であると右近は主張し続けた。長談議の後キリシタン教徒への迫害を避けるために、終に信長公に会うことに右近は同意した。  翌早朝、右近は二人に同道されて信長の陣所に着いた。その時まだ、父ダリヨが高槻の城を出て、荒木村重のいる有岡城に向かったことを知らなかった。  信長は右近を見ると我が子が戻ったかのように喜び、自分が着ていた羽織を脱いで凍えている右近に着せた。 「右近、よく戻った。帰参のほうびに馬をつかわす。歩いては高槻に帰れぬだろうからな」  信長は、人目もはばからず大笑いした。まわりの織田家の武将は皆、信じられない顔をして顔を見合わせた。  信長公の思いもがけぬ言動に、右近に熱い思いが湧き上がった。感激にむせんで頭を上げられないでいると、 「右近、所領安堵を許す。さらに芥川郡四千石を与える」 「それがしキリシタン教徒として、殿を裏切ることはできもうせんでした。それだけを言上《ごんじょう》に参っただけで、そのような過分な所領を何の手柄もなく頂くわけにはまいりません」 「よい、右近。本日より村重征伐を命じる」  信長の眼は、いつものように厳しいものに変わっていた。寝返った者はその先陣に立つのが、戦国のしきたりであった。  空は冬空の下でどんよりと曇っていた。大気の冷え方は、じきに雪が降ることを意味していた。 その日の午後、信長の馬標である金色の傘印と永楽銭の軍旗が木立の中にかいま見えた。中川|瀬兵衛《せべい》清秀の茨木城も、周囲を織田家の大軍に包囲されていた。  瀬兵衛は、雪が空から降ってくるのを城中で飽きずに見ていた。地面がたちまち白く変わっていく。この冬の雪が溶けるまで、毛利も荒木も動けないだろう。しかし、信長は別だ。冬将軍は雪の中でも自由に動く。  瀬兵衛は独特の勘で、自分の選択が間違ったことを認めた。風の噂で、右近が信長に詫びて許され、父友照は村重の所に走ったということを聞いた。  高槻城が開城しては、この茨木の城も支えることはできない。しかし、ここで犬死にはできない。今信長に詫びを入れれば、右近を許した以上、自分を殺すことはないだろう。村重殿には不憫だが、ここは今一度、寝返るしかないと判断した。  決心した瀬兵衛の行動は早かった。身内の家臣三人を呼ぶと、荒木村重に忠誠を誓っている重臣石田伊予守と渡辺勘大夫の二人を策略で、城から追い出すことを算段した。まず瀬兵衛は娘婿の古田左介を使者として、羽柴筑前守の陣所に走らせた。このような場合、筑前守が一番信長の説得に適役であると見たからであった。案の定、秀吉は自分の手柄になると踏んで、信長への取り成しを城明け渡しを条件に引き受けてきた。  深夜、城兵が寝静まったころ瀬兵衛は門を開け、秀吉の軍兵を侵入させた。裏切りを良しとしない石田、渡辺以下数十名が城を出て、あっけなく茨木城は陥落した。  秀吉はわずか五日の間に、高山右近と中川瀬兵衛を寝返らせた功績をあげることになり、中国攻めの責任者として鼻高々であった。  信長は今度も瀬兵衛の帰参を喜んで許し、黄金参十枚、裏切った家臣三人にも黄金六枚と着物を褒美として与えた。右近もまた、黄金二十枚を頂戴した。瀬兵衛は白刃の下をかろうじて潜りぬけられたと思った時、脇の下にびっしりと汗をかいているの感じた。結果として中川家を高く売ることができたし、城がなくても黄金参十枚で家臣を一年間食べさせることができると思った。  一方、有岡城では荒木村重のもとにも、細作《さいさく》を通じて逐一、状況が知らされていた。村重にとって瀬兵衛の裏切りは当然といえば当然で、それほどの驚きはなかった。所詮金で動く野盗と変わりはないと、見捨てた。しかし高山右近が織田方についたことは、村重にとっては誤算であった。  以前より右近が度々忠告をしてきたことを、今思いだした。信長公に背くことは、恩義を受けている身として正当ではない。それに織田軍の兵力、武器、富は我らよりはるかに強大であるが故に、戦っても勝てる見込みはない。もしこの戦に負ければ、一族郎党に降りかかる災難は想像を絶するものになる、したがって信長公を裏切ることは得策ではない、という主張であった。  右近の言うことは、少しも間違っていなかった。しかし織田信長の軍が目前に迫っていても、村重はやはり何か素直には従えなかった。その原因が何なのか、今もって、はっきりとわからなかった。それがわかれば右近を離すことはしない、また、それができないことが口惜しかった。  右近の父高山友照がこの城に身を寄せてきていた。長年、友照には若い時から引き立ててくれた恩義が有り、有岡の城に逗留するなとは言えなかった。しかし他の荒木家の家臣たちは、右近が裏切った以上、その人質である妹と子供を殺すべきだと強く村重に迫っていた。  この期におよんでは、右近はもう二度とここには帰ってこないことを感じていた。村重は戦以外のことで籠城中、城内で血を流すことを許さなかった。結果として、右近がもっとも心配していた家族の生命は救われることになる。  信長は雪が一面を埋めた十二月に入っても、荒木氏討伐の兵を引くことはなかった。旗本の馬廻りである堀久太郎、菅谷九右衛門、それに小姓でもある万見仙千代に鉄砲隊を三百挺率いて、有岡城を攻めることを命じた。また弓隊には火矢で城内の建物を焼きはらうように命じた。  寄せ手の織田軍は鉄砲を射かけながら、有岡城の大手門城壁近くまで押し寄せた。しかし、荒木の軍団はそれほど弱くはなかった。  城壁の狭間から黒煙があがると、織田方の鉄砲隊が竹盾ごと弾き飛ばされて倒れた。大鉄砲で反撃してきたのである。それと同時に南の城門が開いて、騎馬武者、足軽が一斉に濠橋を渡り、織田方の兵に突進してきた。歴戦のつわものが多い荒木軍は、あっという間に正面から織田軍を突き崩した。  逃げ遅れた仙千代は孤軍奮闘したが馬上の騎馬武者から背中を槍で刺され、あえなく絶死した。いつしか、城外には数百の死体がうち捨てられていた。信長は、寵愛していた仙千代に手柄を立てさせようと戦に参加させたことが仇になって戦死させたことを、ひどく悔やんだ。  力攻めでは有岡の城は簡単に落とせないと信長は知って、包囲作戦を継続することにした。有岡城は有岡の町そのものが城となる総曲輪の構造になっており、堀と土塁と砦に囲まれ一里四方の広さを誇っていた。そこで信長は有岡、尼崎、華熊の城を包囲させる付城を十三個所も造らせ、兵糧攻めをすることにした。その包囲軍には当然、高山右近、中川瀬兵衛も参加していた。  また毛利勢の反撃を警戒した信長は先手を打って、播磨と丹波に圧力をかけることにした。秀吉に三木城の別所長治、そして光秀に八上《やがみ》城の波多野秀治を攻めさせたのである。特に八上城を攻めることは丹波から摂津と播磨への武器、兵糧の道を後方から断つことになり、軍事的には非常に有効な作戦であった。  しかし、光秀は波多野攻めを急がなかった。力攻めをして、もし負ければ、毛利勢がこれ幸いと押しかけることになる。ここは静かに長期戦で戦わずに、勝たなければならないと知っていた。手勢三千で八上城のまわり三里四方に柵、塀、堀を何重にもつくり、犬一匹はい出られぬようにさせた。完全な兵糧攻めの作戦であった。  包囲の準備が終わったとき光秀は急に、池田の本陣に至急出頭するよう命じられた。信長公がまた何か大きなことを自分に指示するのではないかと、嫌な予感がした。惠瓊に会ってから、もう一月近くになる。それきり、毛利からの返事はまだなかった。しかし吉田兼和からは、大納言庭田重保と中納言勧修寺晴豊が勅使として、この十一月二十六日に毛利家に出立すると伝えてきていた。  光秀はあせっていた。丹波にしばらく遠征している内に、信長公の考えがよくわからなくなっていたからである。  光秀は、具足姿で久し振りに信長公の前にまかり出た。 「惟任、朝廷の綸旨はもういらん。毛利は荒木を見捨てたようだ」  信長は最近、毛利の救援の動きが鈍いのをよく知っていた。それに織田軍の包囲作戦が効を奏しており、兵糧は荒木一族の各城に届かなくなっていた。  光秀はその理由を、自分が毛利に和平を申し入れた結果であると考えていた。しかしそれ以上に、信長公が朝廷に奏請した綸旨を取り消すとは夢にも思わなかった。 「しかしこの二十六日には、勅使が安芸へ出発すると聞いておりますが」 「かまわぬ、取り消せ。仙千代を討った荒木は許さぬ」  頭が白くなった。惠瓊に渡した覚え書きを思い出すと、冷や汗が全身に流れてきた。信長公は仙千代を失った悲しみで、荒木氏に対する怒りが復讐に変わっているのを知った。  光秀は仕方なく京へ戻った。吉田兼和に会わす顔がなかった。天皇は勿論、関白も皆朝廷の公家方は織田家にまた反目してくるだろう。光秀は、何か空しい戦いを長年してきたのではないかと感じた。  兼和の所に行く前に、信長公が唯一心を許している権大納言の山科|言継《ときつぐ》を訪問することにした。言継なら何か良い知恵を出してくれるか、と思ったからである。言継は数年前まで、信長と朝廷の間の伝奏を一手に引き受けていた。  御所東側の土居の一角に正二位山科言継の屋敷がこぢんまりとあった。しかし塀は崩れ、庭には雑草と樹木が生い茂り、とても元大納言の屋敷の成り合いには見えなかった。  言継は高齢で、最近は寝たきりのようであった。案の定、次男の権中納言山科|言経《ときつね》が玄関の式台で応対した。 「惟任殿、お気持ちはよくわかりますが、もし今回、信長さまが綸旨をお受けにならないと、多分、御上はもう何も御聞きにならないと思います。なにせ信長さまは、すでに二度も和平の綸旨を反古《ほご》にされておいでですから。逆に今回は、何とか信長さまに今一度、翻意して頂けないでしょうか」  公家らしい優しい話し方であった。 「そのことを父君に何とか御願いしたいと思って、お伺いしたのですが」 「生憎、父はもう長くないでしょう。信長さまがもし父を見舞ってくれれば、その折にさせることができるかもしれませんが」  言経が言うように信長は最初に入洛した頃、一度、山科邸を訪れていた。しかしその時も、権大納言言継は信長を部屋へ上げずに玄関で応対したという。通せる座敷が当時もなかったからである。  光秀の気持ちはまた暗くなった。たとえ信長公が言継殿を見舞っても、荒木氏に対する恨みは消えないだろうと思った。肩に雪が舞い落ちてくる。頭にかぶった笠が、すぐに白くなっていった。馬上の光秀はゆっくりと馬を進めながら、暗い正月を迎えなければならないと覚悟を決めた。   春の恋  長く冷たい冬が終わろうとしていた。比叡の山おろしが止み、近江の野山にも草木が青く萌え始めていた。琵琶湖の水もぬるむ頃、坂本城の水門から一艘の屋形船が湖面に走り出た、船が沖合いにでたころ、障子をゆっくりと開けて一人の若い女姓が顔を出した。それは前年、華熊城から帰ってきた範子であった。範子は振り向いて、後ろに控えている明智左馬助に話かけた。顔は明るく、以前の暗い面影はなかった。 「まあ、桜がきれい。左馬助さま」  左馬助は何となく照れながら、顔を船窓から出して城の周りに咲く桜並木を眺めた。 「範子さまも、城の中にいつもおいでだったので退屈されたでしょう」 「左馬助さま、これからもおりおり外に連れ出してください」 「いや、殿にしかられます。万一のことがあると」  二人は、久し振りに他愛のない話に熱狂していた。  左馬助にとってみれば、幼い時から傍で見ていた範子が元気であることが一番嬉しかった。 「左馬助さま、この次は馬に乗せてください。明智の家中で一番、乗馬がお上手と聞いております。ぜひ、お教えください」 「姫が馬に乗る必要はありません」 「でも戦国の世は女子でも、馬ぐらい乗れなければいけないと思います」 「華熊では、馬に乗られなかったのですか」  一瞬、華熊と聞くと顔を暗くした。まだ、織田軍が荒木氏の城々を包囲していたからである。範子は話題を変えるように、 「この湖で、左馬助さまは馬に乗ることができます」 「夏になったらお見せしましょう。今は馬が風邪をひきますので」  範子と左馬助は、期せずして大声をだして笑った。  伊丹の里では山桃、桃、すももの花が次々と咲き散って、木々の梢に青葉が目に眩しく映える季節になっていた。織田軍の主力は、荒木氏一族の城をまだ包囲していた。戦はここ数ケ月なにもなかった。将兵たちは、なぜこのような悠長な兵糧攻めをしているのか、よくわからなかった。  有岡の城内では荒木村重が髭を伸ばしたまま具足姿で、一族の長老である荒木久左衛門といらだった顔で打ち合せをしていた。 「久左衛門、毛利はどうして動かぬのだ。これで何度、頼みの使者を送ったか。惠瓊の糞坊主は何をしているのだ」 「一月の十五日までには必ず兵馬をだし、吉川、小早川、宇喜多勢で尼崎まで押し出すと知らせがありましたが」 「いつまでも、阿呆なことを言っておるな。いまは何月だ。まもなく梅雨だぞ」 「殿、このまま籠城しても先が見えませぬ。何とか手だてを考えねば」 「わしも、それを考えておるところじゃ」  そこに、獄舎の看守である加藤重徳が二人の間に割って入ってきた。久左衛門が厭な顔をして、 「何事だ、加藤」 「お館の命令で、昨年捕えて石牢に入れておった官兵衛と申すものが、この書状を是非お館に見て欲しいと、くどく申すので」  一瞬、村重は加藤の言う意味がわからなかった。足軽大将の宮脇が、勝手に捕らえたようであった。事の詮索をするのは面倒だった。看守が差し出した書き付けは、汚れてどろどろになって墨字は滲んで見えなくなっていた。村重は、官兵衛が後生大事に懐にでも隠しておいた書状だと見当をつけた。  その封書を手に取って見ると、宛名は荒木摂津守と読めた。裏を返すと、滲んでいたが小寺と書いてあるようであった。名は読めなかった。しかし瞬間、その馴染みのある字は姫路|御着《ごちゃく》城主小寺政職だと気がついた。封をあわてて切って見ると、中身は読める状態で残っていた。読みながら、村重は顔色を変えた。そして、そのままくずれた書状を久左衛門の前に投げた。  人の心がまた信じられなくなった。それは、裏切った元家臣を城主である小寺が村重に殺してくれ、という内容だったからであった。初めて、官兵衛という侍が誰であるかに気がついた。姫路の小寺家を毛利家から寝返りさせるために、家老の黒田官兵衛という者を秀吉が召し抱えたということを思い出した。  久左衛門が書状を読み終わって、 「殿、官兵衛を殺しますか」 「殺すな。何かに使えるだろう。籠城中に血は流すな。羽柴の陣中には、官兵衛は有岡の城で人質として預かっていると、それとなく噂を流しておけ」  村重は、戦以外で血が流れて人が死ぬことをなぜか嫌っていた。それは武士道に反すると思っていた。もし官兵衛が秀吉にとって必要な人物なら、何か取り引きに使えるだろうと思った。それに、依頼人である小寺政職は一月ほど前、織田信忠の軍勢に城を落され、どこかに逐電して行方がしれなかった。  暗く湿気のある石牢に、官兵衛はもう半年も閉じ込められていた。牢は狭く、立つこともできなかった。最近では、足がうまく動かなくなってきていた。それに蚊と虱《しらみ》が間段なく襲ってくるために、頭と膝はかきむしった瘡でおおわれていた。  このまま朽ち果てるとしても、新しい主君秀吉に寝返ったと思われるのが唯一の心残りであった。今ごろは秀吉に預けた息子の松寿丸は殺されているかもしれない。思うと、小寺政職から紹介の添え書きをもらっておきながら、それをすぐ村重に見せなかったことが悔やまれた。 しかし遅きに失したが、看守を通じての書状はいま頃摂津守に渡っていると思われた。何らかの動きがじきにあるだろう。  しかし、その後も牢番が一日一回、わずかな臭い飯と汁を持ってくる以外、なんの変化も起きなかった。官兵衛の気持ちはまた暗くなり、何も考えないようにした。  官兵衛は死を覚悟していた。しかし万一助かるときがあれば、異国キリシタンの神を信じようと思った。日本の仏は人を殺すだけで、誰も助けない。最近、妻光の夢をよく見るようになっていた。きまって光は幼い、婚礼の日の笑顔で現れた。  それは官兵衛が二十二歳、光はわずか十五歳の日のことであった。初夜の晩、素顔を見た官兵衛は、光の端正で清純な顔に一目惚れをした。その日以来、官兵衛は戦国の侍と違って他の女を近づけなかった。なぜか、光以外に女を考えられなかったからである。  牢格子から竹藪が見える。その背後は池になっており、城外までつながっていた。官兵衛は、足が動かなくても池に浮くことはできるだろうと考えた。このまま泳いでいけば、光や松寿丸に会えるだろうと夢想した。  光秀は暗い正月を過ごした。来年は明るい年にしたいと、心から願っていた。光秀の願いは、家族や友人と、坂本の城で心おきなく連歌や茶道を楽しむことであった。  そのためには、目の前に見える波多野氏の八上城を落さなければならなかった。もう完全に包囲してから、半年になろうとしていた。さすがに籠城側にも食糧が尽きたようで、最近では城外に草木や食べられる物を探しに、やせ細った下郎や足軽が現れるようになった。しかし光秀は、見つけしだい切り捨てるように厳命した。  信長公がまだ毛利の領土に攻め入らないことで、光秀は安心していた。朝廷との義理を重んじていられるのか、或はこの光秀の顔を立てようとされているのか、その気持が思い量れなかったが、その前に一日も早く丹波を落とさなければならないと強く感じていた。  光秀は本陣に明智家の重臣全員を集合させて軍議を開いた。出席者は、光秀の次女の婿である明智光忠、伊勢貞知、阿閉貞征《あつじさだゆき》、明智左馬助、四王天政孝、藤田伝五、妻木《つまき》藤右衛門、御牧三佐衛門、溝尾庄兵衛らの面々であった。 「そろそろ潮時と存じる。波多野秀治に降伏を勧めようと思うが」 「しかし、一筋縄ではいかぬと存じますが」  溝尾庄兵衛が席の後方から声を発した。 「城兵の命を助けるかわりに、秀治兄弟に腹を斬らせるということではいかんかな」 「そう素直に腹を斬りますかな。ここはひとつ、策略を持ってあたるがよかろうと存ずるが」  謀《はかりごと》に強い伊勢貞知が発言した。 「どのような手だてを取るのじゃ」 「左様、もし城を開けば信長公に波多野兄弟の帰参を許す、という条件は如何でしょう」  光秀はしばらく考えながら、 「はたして、信長公が許してくださるかな」 「そこが策略でござる。安土に彼らを送ることができれば、後は大殿が決めて下さる。許されればそれで良し、許されなくても仕方あるまいと覚悟してくだされ。策略でござる」  評定はそれからしばらく続いたが、結局、貞治の意見を採用して、伊勢と溝尾が敵方との交渉にあたることになった。しかし波多野兄弟は、安土に出向くことを条件に、光秀の身内の人質を出すことを要求してきた。苦慮の末、光秀は妻ひろ子の母を八上城に送ることにした。  辛い選択ではあったが、戦国時代の習いとして家族も犠牲になることは仕方のないことであった。年老いた義母が城に入ると同時に、波多野三兄弟は安土城に伺候することに同意した。護送の役は、妻の実家である妻木藤右衛門が引き受けた。  三兄弟は亀山城を経由して、六月四日安土城の外郭に位置する総見寺《そうけんじ》に留め置かれた。  光秀は亀山城でいらいらしながら、藤右衛門の知らせを待っていた。ひろ子の泣き顔は見たくないと、心の中で念じていた。できれば母親の牧《まき》が健在で、人質になってくれていた方がどれだけ気が楽かと思った。  溝尾庄兵衛が静かに居間に入ってきた。光秀は、何も言わずに庄兵衛の顔を見た。 「大殿は昨日、波多野三兄弟を磔になされました」 「母上が殺されたら、城兵は一人残らず切り捨てよ」  冷たく庄兵衛につげた。それ以上、何も言いたくなかった。  庄兵衛は主君の気持ちを察して、また静かに部屋を立ち去って行った。すぐに庄兵衛は、騎馬隊を率いて八上城に直行した。  寄せ手の大将である明智光忠と副将阿閉貞征が城内に入った。光忠は痩せて骨だらけの将兵たちを前に、張りのきいた声で命令した。 「織田信長公の暖かいお計らいで、波多野家全員に城を出ることを許す。所領は安堵する」  しかし、波多野家の長老が光忠に問い正した。 「われらが城主秀治はどこに」 「今、安土で信長公とお会いなされておる。もし餓死したくなければ、ここを退散せよ。明智の母上をすぐに連れてまいれ」  有無を言わさぬ光忠の恫喝に、一度命が助かると思った城兵たちに抵抗できる力はなかった。城主の命よりも、自分たちの命の方が飢えきった兵には大事であった。光忠たちの機転によって、光秀の義母は城中から助けられた。  八上城攻め以降、光秀は逆に狂ったように丹波攻めを急がせた。明智軍のすべての作戦が一変して、力攻めになっていた。急ぐ理由は、秀吉の弟羽柴小一郎が播磨から但馬入りし、わずか一ケ月たたぬ間に七つの小城を落していることを聞いたからであった。  波多野城に次いで、昨年八月に鬼ケ嶽城で負けた赤井悪右衛門直正の居城黒井城を攻めた。  総攻撃の前夜、脇坂甚内という家臣が内密で単身、城内に乗り込んだ。栗のような赤黒く丸い顔をした甚内が、必死に悪右衛門に降伏を勧めた。 「甚内とやら、この直正に降参という言葉はないと光秀に伝えよ」  翌日、赤井悪右衛門は颯爽と雲竜を描いた白い陣羽織を着て、城から五百の兵を率いて討ち出してきた。甚内は運よく悪右衛門を見つけ、馬を一気に駆けさせ一番槍をつけた。数度槍を合わせると、二人は組んだまま馬から共に地面に落ちた。  運悪く持病である悪右衛門の背中の疔《ちょう》がつぶれて、膿と血があたりに飛び散った。あまりの痛さに気を失いかけた悪右衛門を見て、若い甚内は素早く脇差しでその首を掻き切った。大将が討たれたと知った赤井軍は総崩れになり、逃げ去ったのであった。  しかし光秀は、大将首を討ち取った手柄一番の甚内に恩賞を与えなかった。許しもなく城に乗り込み、抜け駆けの調略をおこなったことに腹を立てたからであった。甚内もつれない大将に愛想を尽かすと、勝手に悪右衛門愛用の貂《てん》の指物を手にして明智の軍から去っていった。  かくして、丹波は明智軍によって平定された。光秀は信長公から思いがけなく、すぐに感状を貰った。 [#ここから2字下げ] 永々丹波に在国候て粉骨の度々高名名誉なき [#ここで字下げ終わり] というものであった。信長公が常に自分を見守ってくれていた、ということに感動した。早速、御礼に駿馬を、左馬助に選ばせて贈ろうと思った。感状を貰ったことで少しは義母を人質にした罪滅ぼしができるかと思うと、肩のこりが軽くなったような気がした。  それに、これで秀吉に少し勝ったような気がした。以前はこれといって秀吉の存在を感じたことはないのに、最近気になるようになっていた。奇妙なことだ。一度この競争心が心のどこからくるのか暇な時に考えてみようと、光秀は思った。  一方その頃、秀吉の心中は少しも穏やかではなかった。有岡城の包囲は滝川一益が担当していた。そして播磨三木城の別所長治は織田信忠が仕切っており、秀吉は後詰として無為に日々を過ごす毎日だったからである。光秀が丹波を平定し、丹後も間近に攻め落とすことを聞いていた。いずれ信長公は光秀に丹波、丹後の支配を許すだろう。それに比べてわしは、播磨一郡もよう抑えきっていない。それを考えると、光秀に対する嫉妬の気持ちが沸き上がり面白くなかった。それに弟の小一郎が毛利に寝返った福知山城を落としたにもかかわらず、信長公の指示で城を明智軍に渡されてしまったことにも、よけい不快感をつのらせていた。  唯一の朗報は、裏切ったかと思っていた黒田官兵衛が有岡の城に捕らわれているということを聞いた時であった。しかしすぐに、秀吉は激しい慚愧《ざんき》の念に捕らわれた。官兵衛から人質として預かった嫡男で八歳の松寿丸《まつじゅまる》を、竹中半兵衛に命じて殺させてしまっていたからである。 「すまん官兵衛、生きていろよ。必ず助けてやる」  固く秀吉は心に誓った。   逃 亡  可憐な卯の花が散り去って、有岡城は蒸し暑い夏を迎えていた。伊丹から何度も、安芸の郡山城に向かって使者が送られた。しかしいずれの返事も、毛利が兵馬を動かせない理由をくどくどと述べたものであった。  いつしか夏も過ぎ、また葉が落ちる季節となっていた。荒木村重はたしと一緒に、その散る木々の葉に思いをこめて見つめていた。 「たし、わが城の戦意も、この落ち葉のように日一日と失せていく。詮なきことだ。わしは今宵この城を出て、取り敢えず尼崎の城に行くことにする。そこから、様子を見て安芸まで行こうと思う」 「毛利さまの所でござりますか」 「左様。これ以上、毛利の不実を許すことができぬ。必ず援軍をつれて帰って参るゆえ、つらかろうが待っていてくれ」  たしは答えず、近くの手箱から筆と紙を取り出して書き始めた。差し出した仮名の細い字が悲しく見えた。 [#ここから2字下げ] 消ゆる身は惜しむべきにもなきものを 母の思いぞ障りとはなる [#ここで字下げ終わり]  村重は胸がつまった。若い新妻は、すでに死を覚悟していたからである。村重も言葉より歌に、自分の気持ちを託して二首の歌を詠んだ。 [#ここから2字下げ] いくたびも毛利を頼みにありをかや けふ思い立つ天の羽衣 百年に思いしことは夢なれや また後の代のまた後の世は [#ここで字下げ終わり]  たしは軽く目を通すと、その歌文を頬にあてて夫に別れをつげた。  村重は妻子を有岡城に残したまま、荒木久佐衛門、平太夫ら腹心の家臣数人を連れて尼崎城に移った。そして、すぐに尼崎から華熊城に移動した。織田の包囲陣は、村重の逐電に気づいていなかった。  息子新五郎と対面した後、平太夫一人を連れ備後の三原城に向かった。村重は頭を剃り、坊主姿に身をやつしていた。馬で行くことも考えたが、織田方に見つからぬように徒歩で行くことにした。  通る村落はほとんど焼かれて壊されているか、誰もいない家屋がほとんどであった。住民は織田軍の殺戮《さつりく》を恐れて、山に逃げ込んでいた。村重は、それを見るたびに胸が痛んだ。さぞかし、国人たちは自分を恨んでいるだろうと思った。  明石を過ぎて播磨に入ると、羽柴の軍が三木城を取り囲み、加古川以西は通れないないことを知った。平太夫は若い漁師二人を雇い、播磨の浜から姫路の先まで海路を行くことにした。  海は静かだった。波間に月の銀波《ぎんぱ》が天の川のように細く長く伸びている。陸沿いに所々灯りが見えた。昼は漁船といえ目につくからであった  漁師の一人が、櫓を太い腕でゆっくり漕いでいる。黒い肌が闇夜に消えていた。 「あれは、羽柴の軍勢が夜ごと燃やしている街道の馬溜の灯りだ。お蔭で夜もわけはない」  漁師は明るく笑った。  村重が目を覚ますと、日は明るく上がっていた。岸が間近に迫っていた。漁師は徹夜の疲れも見せず、御津《みつ》の浜だと大声で叫んだ。御津は、姫路をすでに越した揖保川の河口にあった。もう、織田家の勢力外の地であった。  村重は、心から漁師の好意に対して頭を下げた。平太夫に、船賃をはずめと指示をした。平太夫は、懐から吹いた大きな銀子一枚を渡した。びた銭しか見たことのない漁師にとって、本物の銀子は驚きであった。二人の漁師は、浜の砂地に頭をつけて礼をし続けた。  五里ほど歩くと、赤穂の町に着いた。赤穂の千種川を越すと、そこは備前の国、宇喜多家の領土であった。ここまでくれば、もう毛利家の守備圏である。取り敢えず生命の危険は遠のいた。それでもまだ、備後の三原まで三日以上の道のりがあった。  初冬なのに三原はまだ陽が暖かく、南国を思わせた。ほとんどの木がまだ赤、黄色に紅葉しており葉は散っていなかった。所々に、柿の実がたわんでぶらさがっていた。村重は、別天地に来たような気分であった。どこにも、あの血なまぐさい戦場の匂いは感じられなかった。歩く人々ものんびりとしており、摂津のような血走ったあせりはなかった。どこかで取るべき手を間違えたことを知った。無理しても、たしをここに連れてくるべきだったと後悔した。  次の日、早速、村重は三原城で小早川隆景と面談した。歳は村重と同じ頃であったが、背筋を伸ばして落ち着いた隆景の風格は村重を圧倒していた。妙に沈着な隆景を見ると、感情が無性に激昂して止められなくなった。 「小早川殿、なぜ毛利は援軍を送らぬのか。武士の信義とは、嘘をつくことなのか」 「荒木摂津守、毛利は嘘をついてはおりませぬ。ただ諸々のことで、いまだ兵を送れぬのは申し訳ない」 「一年もたつのに一兵も送れぬとは、虚言でなくて、なんでござるか」  ますます村重は気が高まり、手は怒りで震えていた。 「村重、一生の不覚でござった。毛利のような弱腰と組んだとは。それがし、ここで腹を切って家臣に詫びることにする」 「お言葉でござるが、ここで腹を切る前に、お伝えしなければならないことがござります」 「なんとな」 「京におる惠瓊と申す僧を、摂津守もご存じだと思うが」 「いかにも。あの坊主が、毛利が味方すると伝えに来たのじゃ。憎らしき奴」 「それが言いにくきことでござるが、織田信長よりの和議が内々、惠瓊を通じてあったもので、当方としてもあけすけに兵を動かすわけにはいかなかったのでござる」 「それは、いつのことでござる」 「さよう、昨年の暮れのことだった」 「なに、一年も前とおっしゃるのか」  村重は、脳天から太刀を浴びた気分になった。力なく問い返した。 「して、織田方は誰が細工したのか」 「惠瓊は、惟任日向守とか申しておった」  村重は絶句した。光秀が惠瓊と和議を計っていたとは、夢にも思わなかった。瞬時に事態を把握することができず、黙ったままであった。  しばらくしてから、深い失望と怒りを、胸の中に感じた。自分が光秀を裏切ったと同じように、光秀も自分を裏切った。仕方のないことと思い直したが、それを見通せなかった自分自身に対する憤りだけはいつまでも消えなかった。  小早川隆景は、村重の気持ちを会う前から痛いほどわかっていた。村重ほどの勇者が戦をせずに一年間も籠城しなければならなかった無念さは、譬《たと》えようがなかっただろう。しかし、戦国の世は謀略の時代である。理屈が立つか立たぬかより、騙された者の負けであった。  ちょうど一年前の毛利水軍の大敗は、隆景もまさかのことに我を失った。摂津の村重に兵を送りたくても、お家の事情が許さなかった。それゆえ、惠瓊の持ってきた光秀の書き置きは有り難かった。毛利家における隆景の軍監の立場としての申し訳が、一応立ったからである。  村重は今悟った。毛利がなぜ動かなかったのか、もっと前に、その理《ことわり》に気がつくべきだった。信長が強く自分に攻めかからなかったことの方が、おかしかった。 「あいわかった。村重、腹を切るのはやめにした。もう一度信長の命を取るまでは、死なぬことにした」 「それでこそ、村重殿。毛利はいつでもお味方でござる」 「もう、毛利はいらぬ。これよりは一人で戦う。邪魔をした、隆景殿」  村重は平太夫を連れて、すぐに三原の城を後にした。帰り途、村重はすべてを捨てて出家することを考えていた。  自分は前世で、何か好からぬこととをしたのではないか。来世で皆が幸せになれる方法を知りたかった。それでなければ、今生で地獄を見たまま死ぬわけにはいかなかった。死んだ家臣、またこれから自分のために死ぬ多くの家族、家臣に顔向けできないと思った。  村重の深い悩みを反映するかのように、摂津では地獄絵が再現された。城主の去った有岡城では、織田方への裏切りが続出していた。まず、足軽大将の宮脇が城外の砦に滝川一益の兵を入れて、荒木の兵を討たさせたのである。そして砦を守っていた大将の渡辺勘大夫、野村丹後守も寝返り、織田方に投降した。城は本曲輪を残すだけで、城外の砦はことごとく落とされていた。  荒木家の武将の妻子たちが残された本丸は、信長の甥である織田信澄がその包囲を縮めていた。多くの残された女房たちは、援軍の訪れをまだ一日千秋の思いで待ち続けていた。  しかし、主のいない荒木家の崩壊を止めることはできなかった。一月も経たずに、たしの居る有岡城が降伏した。そして、すぐに尼崎城も落ちた。華熊城を守っていた荒木元清と嫡男荒木新五郎もこれまでと、城を捨てて逐電した。  信長は、荒木家中の節操がないことを聞き心底から怒った。家臣たちの態度は自分への恭順ではなく、意図的な見返しに思えたからであった。信長は、投降した荒木家の妻子、一族、家臣を村重への見せしめとして厳罰に処することを命じた。  まず、暮れも迫った十二月十三日の早朝、尼崎にて荒木方武将の妻子百二十二人の処刑を滝川一益、蜂屋頼隆、丹羽長秀が執行した。どの武将の女房も今生の別れと死化粧をほどこし、一番美しい子袖を纏い、覚悟の顔で処刑場にあらわれた。しかし、殺気だった荒くれの武将たちは彼女たちの意思を無視して、全員を磔に架けた。幼い子供は、そのまま女房に抱かせたままであった。  織田家の兵たちは思い思いに鉄砲で撃ち殺し、また槍、長刀《なぎなた》で人質を刺し殺し始めた。百二十二人が一度に殺される悲鳴は天にも届く恐ろしい音声《おんじょう》となり、見物人には正視できない光景となった。磔台はすぐに血と悲鳴で地獄図そのままの光景となり、見た人の脳裏にいつまでも焼き付くことになった。  地獄絵はそれだけに終わらなかった。殺された女房たちの侍女三百八十八人、それに男の付人百二十四人も処刑されたからである。彼らは四つの小屋に閉じ込められ、兵士たちはまわりに枯れ草を積んで、火をつけた。  最初、人々は煙と火を避けるために魚の群れのように動いていたが、炎がまわるにつれ人々は上へ、上へと躍り飛び上がった。その悲鳴はまた、煙とともに空に響いた。  またもや見物人は肝をつぶし、口にもだせない衝撃を受けた。まるで、自分が焦熱地獄で焼き殺されているかのように思えたからである。黒い煙は、遠く淀川の対岸の石山本願寺からも見えた。本願寺勢が大きな後盾を失った日でもあった。  光秀は、その処刑方法を逐一、信長公が命令されたと聞き、その場に居合わさなかったことで胸をなでおろした。  信長は、現世にいながら地獄を見せる鬼を演じ続けた。その三日後、信長は摂津山崎から京の屋敷である妙覚寺に戻ると、荒木村重の妻と一族の妻子十六名を京の六条河原で辰の刻に成敗することを命じた。  たしを初めとする妻子一党は八両の車に乗せられ、京の市中を引き回された。町人がどよめくのと同時に、馬に乗った成敗の奉行衆が多くの足軽、侍を連れて近づいてきた。最初の囚人車の警護役奉行は、越前の前田利家と佐々《さっさ》内蔵助であった。  多くの見物人に混じって、一人の無精髭をはやした汚れた身なりの僧がその行列を見つめていた。人波の肩ごしに、車に乗せられた、たしと前妻の娘はやの姿が垣間見えた。たしは、経帷子《きょうかたびら》の下に好きだった若草色の子袖を着ていた。  その瞬間、僧の隣に立つ平太夫の手に熱いものがこぼれ落ちてきた。平太夫が、僧の手を固く握り返した。昔の村重ならばこの場で白刃を抜いて、武者たちに突進していたはずであった。  次々と顔なじみの家族が通り過ぎるたびに、二人は合掌して見送った。  市中引き回しの一団がその場所から通り去った後も、僧は石のように動かなかった。仕方なく平太夫は、皆を送りに六条河原に行きますと言い、一人、小走りにそこを立ち去った。  小者姿の平太夫は、急いで六条河原に駆けつけた。すでに河原はあふれる見物人で、刑場内は見えなかった。しかし無理やり人をかきのけて、何とか竹矢来が見える場所まで近づいた。  たしは駕籠車から降りると乱れた髪をもう一度高々と結い直し、それから帯をゆっくりと締め直した。警護の侍も落ち着いた、たしの行動を咎めなかった。たしは一度まわりをゆっくりと見渡してから、莚《むしろ》の上に座った。小袖の背をゆっくりと後ろに引くと、そのまま静かに首を前にたらした。白刃が青い空に光った。  「奥方」平太夫は、声にならない声を挙げた。もうそれ以上、その場にいられなかった。見物人の悲鳴を肩で聞きながら、六条河原を後にした。  妙覚寺の信長の許に、奉行の前田利家が具足姿で報告に現れた。事の子細を表情を変えずに聞いていた信長は、処刑奉行である不破《ふわ》光治が来ないことを怪訝に思って、 「不破はどうした。なぜ参らぬ」 「申し訳ござりませぬ。なぜか年のせいで気分が悪くなり、休んでおりまする」  利家は知っていた。間近に処刑をつぶさに見ていた不破は役目がら涙を拭くこともできずに、顔を皺くちゃにして堪えていたことを。 「又左《またざ》、村重の子供は娘と聞いておる、殺すにはおよばぬ」  又左衛門利家は、心の底から有り難いと思い平伏した。信長はそのまま御奥に入った。村重に男子がいることも知っていたが、利家は黙って畳の目を見つめていた。  霜月の初め、光秀は信長御殿と呼ばれる京の二条家の屋敷に呼ばれた。三ケ月前から大規模に改築がなされていた。光秀が新築なった屋敷の中を覗くと、それは信長御殿というより御所の成り様であった。  信長は住まいである隣の妙覚寺から歩いてきて、馬鞭を持ちながら最後の工事の督促をしているところであった。 「惟任、ここを新御所とする。今月の良き日に、親王にはこちらに御成頂く。日取りを決めてまいれ」 「して公家たちには、この話はなされておりますでしょうか」 「前久《さきひさ》には荒木征伐が終わり次第、二条の御所を御礼に誠仁《さねひと》親王に献上すると伝えてある」  近衛前久は前関白ではあったが、今は退任しており朝廷への正式な話とは言い難かった。二条新御所に誠仁親王が移徙《わたわし》頂くことは、天皇にとっては親王を人質に取られたと思われるに違いないと瞬間感じた。また、吉田兼和の気まずい顔を思い浮かべることになった  しかし十一月二十二日早朝、誠仁親王は黙って二条新御所に移徙された。その日の午後、二条御所に信長は早速、光秀を連れて親王を訪問した。誠仁親王はお会いにならなかったが、代理に近衛前久が応対をした。そしてなぜか、吉田神社の吉田兼和もその場に列席していた。  信長はそこで、黄金二十枚と貢ぎ物を贈った。それは、摂津国荒木村重謀反を本日無事征伐したという報告と、朝廷への御礼であった。  近衛前久は太った身体をくねらせて、鷹揚《おうよう》に黄金と引き出物を垣間見た。御所の困窮状態をよく知っているだけに、信長の勝手さに辟易しながらも文句を言うわけにはいかなかった。  光秀はごま塩混じりの頭を下げながら、これで何とか自分の恥を兼和に返せたと思った。しかし、一歩間違えば愛娘の範子も六条川原で殺されていたかと思うと、村重の好意がいまさら身にしみた。  光秀にとって、天正七年は丹波の国を拝領した良い年になっていた。一年前の暗い正月を思い出し、今年は良い正月を迎えられると久し振りに上機嫌であった。  坂本城への帰り道、光秀は雪道を駕籠に乗りながら、来年は範子と左馬助を添わそうと考えていた。二人とも似合いの夫婦になるだろうと、一人で苦笑した。   長 浜  天正八年の元旦は終日、雪が降っていた。信長は、この年も安土城への参賀を中止させた。織田家の武将たちが安心して年賀に来られるほど、周囲を取り巻く状況はまだ甘くなかったからである。摂津の荒木家が降伏したといえど、もともとの織田家の領土が戻ったに過ぎず、中国戦線は播磨で膠《こう》着していて進展はなかった。  秀吉は別所長治の三木城の包囲に携わっていたが、大将である織田信忠が自国の美濃に年末に帰ったので、留守居を弟小一郎に任せると久し振りに居城長浜に帰ることにした。  琵琶湖の湖面から吹いてくる風が、積もった雪を白く霧のように舞いあげていた。長浜の村は、近年になく大雪に埋もれていた。秀吉は有り余るほどの土産を持って、湖畔に建つ長浜城に入った。長浜城は秀吉が初めて城持ちになった思い出深い城で、どの場所よりも気に入っていた。  正月のお節料理を、母なかと妻の祢と水入らずで会食した。秀吉は終始上機嫌で冗談を言い続け、二人を笑わせながら好きな鮒鮓《ふなす》を舐めていた。ここ数年の中国地方での労苦を一気に忘れさりたかった。荒木家の妻子の成敗や光秀の母の人質話を聞くと、口にはださなかったが自分の家族たちも例外ではないと思わざるをえなかった。  食事後、久し振りに秀吉は祢と火鉢を囲んで二人きりになった。祢は器用に、弱火になっていた炭をすぐにつけ直した。  秀吉は、真剣な顔をして祢を見つめた。そして弁解するように告白した。 「ねね、わしはまた、しもうたことをしでかした」 「なんでござりまする」 「黒田官兵衛は死んだと思っていたが、一年以上も有岡の城内に捕らわれていたのだ。わしに寝返ったと思われたくない一念で、生きのびたのじゃ。左足がかたわになってしもうて、可哀想なことをした。しかし、そうとは知らずに、そなたに預けた松寿丸を殺させたことや」  長浜で祢が人質として預かっていた嫡男の松寿丸を殺させたことを、恥じていたのだ。祢は、夫の懺悔《ざんげ》の言葉を聞きながら少しも動じなかった。まだ、炭を火箸でいじくっていた。 「ねね、そなた悲しくはないのか」 「あい、松寿丸は元気でおります。何の心配もござりません」  秀吉はあっけにとられて、祢の顔を見た。 「おまんさまが何を考えておるか、わかります。松寿丸はとうに竹中さまのとこに、お預けしてあります。何の心配もいらんでよ」 「半兵衛か。信長さまに知れたら、どうするのじゃ」 「暮れのあいさつで殿さまの所にお伺いした折、松寿丸は秀勝と同じ生まれ年、我が子と思って育てていると、信長さまにお話しもうしたら、『しかたなきゃ、筑前は祢を抱く暇もなかか』と笑って許してくれました」 「おまんというおなごは!」  秀吉は、祢の大胆な行動に驚くと同時に恐れをいだいた。まだ木下藤吉郎と呼ばれた二十五才の時、突然、信長公から祢を嫁にせよと命令されたことを思い出した。清洲城内の祢の実家である浅野家で、婚礼はおこなわれた。正式には藤吉郎が娘婿となり、祢の生家である木下の名を継いだ結婚式であった。  その日初めて嫁を見た藤吉郎は驚いた。なぜなら、まだ十四才の幼い娘であったからである。下ぶくれした頬を赤く染めて健康そうであったが、とても花嫁といえる感じではなかった。  それから今日まで二十年間の、ある疑問を妻に持ちながら夫婦生活を続けてきた。仲人である主君信長公にも、嫁である祢にも聞けないことであった。  それは、祢の出生の秘密であった。養父である浅野又右衛門は一言も、祢の両親が誰であったかを明かそうとしなかった。そして奇妙なことに、祢は誰もが畏怖《いふ》する信長公を少しも恐れなかった。恐れないだけでなく、平気で時候の挨拶と言って、気軽に信長公を訪ねていた。そして帰りには、一家臣の妻には考えられない土産物を持ち帰ってくるのが通弊だった。  四年前に安土城が築城なされた折にも、家臣で秀吉だけが、城内に自宅を建てることを許された。他の重役家臣を差し置いて自分だけが屋敷を持つというので、戸惑ったことをよく覚えていた。  いま松寿丸助命の話を聞きながら、信長公は自分よりも祢を我が子のように可愛がっているのだということに、はっきりと気がついた。そうか、祢は信長公の娘であったのか。秀吉にはすべてが解けてきた。  名もない貧しい自分を信長公がことさら取り立ててくれたのは、祢が原因だったのか。そういえば祢が生まれた天文十七年には、信長公が中条《なかじょう》という侍女に男子を生ませたという噂を聞いた。乙殿《おとどの》と呼ばれ、家臣の埴原加賀守に預けられたという。しかし早世して、その後乙殿がどうなったのか誰も知らない。ひょっとしたらその子供が祢なのかもしれぬと思った。わしはその時十二歳で尾張の光明寺に預けられていて、織田家で何が起きていたか何もしらなかった。 「おまんさま、何を考えておられるのや」 「うむ、松寿丸をどうしようかと思ってな」 「市松、虎之助たちも大きくなって手もかからんので、わたしが預かって育てます。何の心配もいらんでや」 「うむ、そうするか」 「松寿丸は秀勝《ひでかつ》と同じ生まれ年、秀勝の生まれ変わりと思っておりまする」  秀勝は秀吉と祢の間に生まれた唯一の男子であった。しかし、この長浜で四年前の十月に八歳で早世していた。二人にとっては、秀勝を思いだすことが一番辛かった。 「そや、正月そうそう縁起がよいわ。  ねね、でかしたぞ。秀勝が帰ってくるぞ」  夫の邪心のない喜びようを見ていると、眼から自然と涙がこぼれてくるのであった。長浜の白い夜は静かに、寂しく過ぎていった。  秀吉が祢に良い年になると予言したように、天正八年は秀吉にとって躍進の年となった。正月直後の総攻撃で、播磨三木城で長年籠城していた別所長治が「もはやこれまで」と城兵の助命を条件に、正月十五日、降伏したのである。長治は自ら腹を切って自刃した。ここに播磨全土の征服の道が拡がり、五月初めには播磨と但馬を秀吉軍団は難なく制圧することができた。  六月には因幡、伯耆の小豪族が織田家に臣従した。わずか半年にして、二年間にわたる労苦が報われることになる。長年の腫れ物が消え去ったような爽快な気分を、秀吉は感じていた。   狂 気  大坂石山本願寺の地は、四方が水に囲まれた水の国であった。北方には賀茂川、桂川、宇治川、淀川といった大河が幾筋も流れていた。近くには中津川、吹田川、神崎川などが流れている。東南には立田山、生駒山、飯盛山の眺望が広がり、その麓を道明寺川、大和川から引いた堀割りが無数につながっている。西は大坂湾の青い海原が見える海につながっていた。  正直誰も、どの水路が、どの場所につながっているのかわからなかった。そして何十という川がどのようにして海につながっているのかも、またわからなかった。四方八方に張りめぐされた堀割りがいたる所にあり、その間をつなぐ運河がまた道としてつながっていた。  その中の一段と高い土地にすべてを脾睨《へいげい》して、そそり立つ大伽藍が水の中に浮いていた。あたかも、仏国の本城のように思えた。それは、宗主|顕如《けんにょ》が率いる浄土真宗総本山石山本願寺の伽藍であった。その御堂を中心に周囲八町あまりに石垣が造られ、堅固な城砦となっていた。  水上の御堂の前には蓮が咲き誇り、あたかも極楽を感じさせるような荘厳さであった。全国の多くの門徒が日夜、朝暮となく参詣し、その賑わいは比べ物のないようであった。  十年前の元亀元年、この大坂の地に織田家の城郭を築きたい旨を信長が顕如に申し入れて以来、両者は全国の門徒と武士を巻き込んだ十年戦争を続けていた。本願寺も大坂の各寺の他に、五十一の端城《はじろ》を設けて織田軍に対抗した。  しかし日々、戦の職人として過ごしている織田家の武将たちに門徒達が勝つことはかなわず、また兵糧攻めで僧兵一万人の食糧が遂に尽き始めた。ここに顕如は天皇と誠仁親王の斡旋を受け入れ、宗主|蓮如《れんにょ》以来八十年間住み慣れた大坂の地を離れることに同意したのである。  御堂の一部屋では、顕如と朝廷の伝奏である近衛前久が撤退の最後の打ち合わせをしているところであった。 「近衛殿、三月一日にこの場所で誓紙を交わしたことを覚えておられるな。しかし昨日、加賀より織田家の柴田勝家が、わが門徒を攻撃したとの早馬があった。わが子|教如《きょうにょ》は信長卑怯なりと言って、この石山で徹底抗戦すると言ってきかぬ」  ゆっくりと落ち着いて話す顕如の顔には、何の感情もなかった。前久は、またかと露骨に顔をしかめた。 「信長殿は何を考えておられるのやら。七月の盆までに宗主さまが退去されるというとるのに」 「近衛殿より、信長さまにきつく申されてくだされ。この顕如はどのようなことがあっても誓紙を守る、とな」  顕如は教団の保持のために、もう戦をやめることを真剣に考えていた。  前久は顕如の青白い顔を見ながら、この件は信長に受けの良い誠仁親王にお願いしようと思った。  結果として親王の懇願が効を奏して、雑賀の地に本願寺再興を勅約することで抵抗していた教如も折れた。八月二日に雑賀に退去することになった。  その日、顕如は長年住み慣れた御堂から飄々と墨衣のまま船で立ち去った。持ち物は、石山本願寺の立ち退き料として信長がくれた、呉器《ごき》の一文字茶碗一つであった。  大坂本願寺の退去に立ち会うために、朝廷から近衛前久、勧修寺晴豊、庭田重保ら三人の勅使と、織田方から松井有閑と佐久間信盛が石山に乗り込んだ。御堂の中は掃除がすみずみまで行き届き、表に弓、槍、鉄砲などの兵具がかけ並べられていた。  午後になると、教如以下の門徒を迎えに来た数百の船が大坂の海に現れた。端城の宗徒たちも続々と船に乗り込み、また陸地からと蜘蛛《くも》の子を散らすように門徒たちが去っていった。  しかし、その頃から急に黒雲が本願寺を覆い始め、西風が強く吹き始めた。まだ日中というのに、夕暮れのように暗くなってきた。本願寺の寺内に住む何万という町人たちは天候の急変を見ると、仏罰が当たると悲鳴をあげて右往左往に逃げ始めた。皆、家財道具を持っており、あっという間に周囲は大混乱に陥った。  佐久間信盛も近衛前久も、空を見上げながら嫌な気分になっていた。案の定、黒煙がどこからか立ち上がると、その末寺の伽藍から赤い火が上り始めた。火は、たちまち西風にあおられて飛び火した。  年老いた信盛は腰の曲がった身体を伸ばそうとしながら、御堂の格子窓から火の行方を追っていた。信盛も前久も、無言で顔面は蒼白になっていた。二人の杞憂は、現実の大火災となって実現した。  それから三日三晩、石山本願寺を含むすべての建物、伽藍が燃え続けた。なすすべもなく織田方の武将たちは、そのすざましい火勢を見続けていた。十年にわたる厳しい戦の最後を飾る形見の火花のようであった。  その大坂の火の海を、信長と光秀は遠く京から無言で見つめていた。信長の顔は赤く燃えて、赤鬼が立っているかのようであった。火炎は意思に反して天にも届く火勢となり、黒煙が空を覆っていた。そしてその闇夜の火炎を、得度した村重もまた、淀川のたもとで感無量の思いで見つめていた。月は炎を恐れて、遠く高い空にあった。  火が消えて、あの華麗で豪華な御堂の廃墟に信長は立たづんでいた。白煙がいたる所に立ち上り、残り火があちこちにまだあるようであった。  信長のまわりには、織田家の宿将が居並んでいる。その中心に、佐久間右衛門信盛とその息子、正勝がいた。 「右衛門、このざまを見よ。余が本願寺と渋々手打ちをいたしたのは、石山を焼かずに手に入れる為ぞ。そちのようなうつけの顔は、もう見とうもない。どこそへと立ち去れ」  信長は冷たく言い放つと、ひれ伏す二人の前に自筆の折檻《せっかん》状を投げ捨てた。  織田家の武将たちは信長公自らが筆を取って折檻状を書いたと知り、顔が青くなった。それは前代未聞のことだった。  佐久間親子二人は、その場所から悄然と立ち上がり立ち去った。折檻状を見る勇気もなかった。それは、じつに十九条からなる激烈な弾劾《だんがい》状であった。信長はその日、父信秀からの四十年間にわたる忠臣であった佐久間信盛親子を高野山へ追放した。  光秀と秀吉も、いかにこの本願寺が焼けたことを悔やんでいるかを、信長の激しい怒りを目の前にして知ったのであった。十年の歳月と幾多の将兵の犠牲を払った代価は、火炎の中に消え去っていた。  信長は遅れて駆けつけた近衛前久を見るや否や、馬鞭を黒く焼けた太柱に叩きつけた。 「わごれ」  鬼のような形相に、前久は恐れ慄いた。そのまま、信長は足早にその場を立ち去った。二度とこの場所を信長公は見ることがないだろうと、秀吉はふと思った。  翌日、信長は奉行役であった松井有閑の祐筆を罷免にした。そして、近衛前久の朝廷への伝奏役も御免にしたのである。  夕日が瀬戸の海に映えてまぶしい。秀吉は馬上で上機嫌だった。すべてが自分を祝福してくれているようだった。日が落ちるまでに岡山城に入れると思うと、よけい気が高鳴った。供には、若い時からの股肱《ここう》の家臣である前野康長と蜂須賀小六を連れてきていた。  正月早々、信長公は前野長康と蜂須賀をそれぞれ三木城攻めの功で城持ちにしてくれたのである。長康は三木城を賜り三万五千石の大名に、小六は竜野城主三万六千石の大名になっていた。  目指す岡山城では、宇喜多和泉守直家が待っていた。宇喜多家は何と言っても備前、美作《みまさか》四十万石を治める中国地方の大守である。直家は荒木、波多野、別所と次々に中国地方の大名が織田軍に打ち崩されたのを見て、遂に毛利から離れ織田家に同心することを正式に通達してきていた。  秀吉は播磨三十五万石を最近手にしたばかりで、秀吉|麾下《きか》の城持ち大名は但馬を治める弟の秀長しかいなかった。新参大名の二人は、直家に秀吉の権威を見せるための道具でもあった。かつて三木城の別所氏に無冠の黒田官兵衛を同伴して、寝返られた苦い思いが良い教訓になっていた。  なぜ今年になって、急にすべての運が自分に回ってきたのかわからなかったが、宇喜多家の申し入れは正直嬉しかった。辛い戦をしなくて済むし、信長公にこれで怒鳴られることもなくなる。  それに信長公は祢の松寿丸|隠蔽《いんぺい》の話に同情したのか、四男である於次《おつぎ》を秀吉の養子にするよう申し入れてきていた。秀吉にとっては、これで名実ともに織田家の一員として栄達できる話であった。於次は、死んだ秀勝と奇しくも同じ生まれ年で十二歳であった。また、信長公が祢をいかに可愛がっているかをいまさら知って、女遊びなどで妻を粗略に扱えないことをあらためて思いしらされた。  早速、祢は独断で於次を我が子と同じ秀勝と命名して、元服式を長浜城で挙げたのである。  下見板張りで壁面を囲った岡山城は、烏《からす》のように黒かった。一名烏城とも呼ばれた城門の前で、一人の背の高い青年武士が秀吉一行を迎えた。秀吉は馬上から気軽に声をかけた。 「弥九郎《やくろう》、大義じゃ」 「お待ち申しておりました」  魚屋《うおや》弥九郎という色白な若武者が先導して、一団は大手門をくぐって中に入った。他人が見れば奇妙な応対であったが、秀吉と弥九郎には充分な意味があった。  弥九郎が秀吉を訪ねたのは、昨秋のある一日であった。秀吉は三木城攻めの平山の陣所にいた。宇喜多和泉守の正式な使者ということで弥九郎に会った秀吉は、ひどく失望した。この二十歳にも満たない岡山の呉服商、魚屋の息子がなぜ宇喜多家四十万石の使者なのか、直家は自分を愚弄しているのかと、怒りに震えながら詰問した。  弥九郎は青白い顔を変えることなく、平然と答えた。 「和泉守の申すには、宇喜多の家中には筑前守殿のお顔を誰も知り申さぬ。それがしの父は堺の商人小西と申し、殿が堺奉行のおり、父と私が御茶役を務めさせて頂きました」 「なに、わしが堺の奉行の折だと。確か、永禄十一年の終わりだった。その時の会合衆《えごうしゅう》、小西の息子か」 「はい、十歳で父の側についておるだけでございましたが」  秀吉はその時、宇喜多直家という人物を只者ではないと感じた。直家は秀吉自身を知っている人物を家中、国中から探して自分に差し向けたのだった。つまり、弥九郎はそれに値する器量を持っていることになる。小西|隆佐《りゅうさ》はおぼろげに覚えていたが、弥九郎の子供姿は浮かんでこなかった。  しかしその出会いを契機に、秀吉は二十歳以上違う若者を相手に、誠実に交渉を続けたのである。秀吉は今日直家に会ったとき、弥九郎を自分の家臣にもらい受けるつもりでいた。頭脳、判断力、交渉力、どれを取っても弥九郎ほどの人物は家中にいなかった。いま小姓をさせている石田佐吉と組ませれば、羽柴家の裏方を任せられると考えていた。  早速通された岡山城の大広間には、当主の宇喜多和泉守直家とその正室ふく、そして嫡男八郎が正座して秀吉を待っていた。直家はまだ五十歳を過ぎたばかりなのに、えらく老けて顔色に精彩がなかった。それに比べて隣につつましやかに座っている正室の顔は生気にあふれて、見るからに京風の美女であった。  秀吉は、まわりに控えている宇喜多家の重臣である戸川助七郎、花房正成、岡家利らの紹介を上の空で聞いていた。初めて会ったふくという女性に、完全に気を取られていたからである。 「こちらが弟の忠家、同じく春家、忠家の息子基家、それにこれが嫡男八郎でござる」  秀吉はふくによく似た八郎を見て、急に問いを発した。 「八郎殿はいくつかな」 「八歳でござります」  秀勝が死んだ年令であった。秀吉は急に、八郎という少年が他人には思えなくなった。 「和泉守、和議に先立ち織田家よりの条件がござる。一つは、宇喜多家が人質として八郎殿を差し出せば、本領安堵の御朱印状を信長公より頂けることになるが、いかがかな」 「当然のこと、八郎でよろしければ」 「ふく殿、気になされまいぞ。八郎殿は利発そうゆえ、この筑前がお預かりし立派な武将としてお育て申す」 「よしなにお願い申しあげまする」  声は甘くせつなかった。秀吉はその声を聞いて、邪悪にも夫直家の前でふくを抱きたいと思った。心の内を見透かされないように直家に向かって、 「和泉守、それがしからの頼みがある。今回の和議の働きは何といっても、弥九郎の功績が一番でござる。弥九郎を、それがしの家臣に召し抱えたいと存ずるが」 「弥九郎はもともと商人《あきんど》の生い立ち、宇喜多の家中でもござらんので、本人に異存がなければ当方は構いもうさぬ」  直家は宇喜多家が本領安堵されたことで、それ以外のことはどうでもよさそうであった。 秀吉は、直家の具合が本当に悪いのではないかと予感した。 「弥九郎、本日より羽柴筑前が二千石で召し抱える。名を小西|行長《ゆきなが》とあらためよ。また、八郎殿の守り役を命ずる」  秀吉は、前から考えていた行長という名前を呼び上げた。周囲の武将たちからは、どっとどよめきが上がった。   嫉 妬  土佐の泊からは鳴門の海峡を越えて、淡路島の福良《ふくら》の港がよく見えた。斎藤内蔵助利三は二十五年前に、この鳴門の海を渡って四国にたどりついたことを昨日のように思いだした。あの時は、まだ幼い妹を連れて心細い船旅だった。美濃の長山城が斎藤義竜に攻められ落城、明智一族は散りじりになった。二十歳を過ぎたばかりの利三《としみつ》は、妹の志乃だけを連れて脱出した。母は叔父の光秀が任せろというので、美濃に置いてきてしまった。  あてもなくただ遠く遠くへと逃げようとして、四国の海を渡ってきた。源平の昔から、土佐の国が落人の隠れ里ということを聞いたことがあったからである。  しかし利三は、苦労して土佐の国に来た甲斐があったと感じた。人々は素朴で剛毅であり、海と山の自然が雄大であった。利三の好きな土地であった。いつか美濃に帰る日まで力を蓄えようと、仕官できる大名を探した。  多くの豪族が土佐にはひしめいていたが、好意を持って千貫で召し抱えてくれたのが、岡豊城の城主|長宗我部《ちょうそかべ》国親の嫡子弥三郎|元親《もとちか》であった。元親は都を知っている利三に憧れて、また同じ年代でもあり気にいったのである。初対面ながら、元親は心に思ったことをすべて正直に話した。 「利三、知っておるか。わが先祖は秦の始皇帝より発し、蘇我氏の末裔《えい》だ。いずれ、わしもこの四国を統一し、京に攻め上ろうと思いよる。わしはこの土佐に生まれて、ほかは知らん。おぬしゃ、その時はわしを京に案内してくれやの」 「はー」  利三は日に焼けた元親の言う土佐弁の意味がよくわからなかったが、四国を切り取る大望を持っていることだけは理解できた。  その時以来、元親と一緒に何十という戦を戦った。そして、なぜかいつも勝った。美濃の負け戦が信じられなかった。元親は素直に、利三が運を運んでくれたと信じていた。  数年後、元親はまた唐突に、胸の内を話始めた。 「利三、わしも今年で二十五歳になる。嫁をとることにした。おぬしの妹の志乃を嫁にする。そなたには、わしの妹をやる」 「なぜでござるか、殿」 「わしが京に上るときには、土佐のおなごではいかなあよ。ごつうて、いかん」  元親はそう言うと、白い歯を見せて大声で笑うのであった。  あれから二十年、土佐泊で安宅船を待つ斎藤利三は、元親の妹を娶り三男一女をもうけた。そして、千貫の俸禄がいつしか一万石の城持ち大名となっていた。つき従う家臣も、優に百人を越えていた。一方、長宗我部元親は志乃との間に嫡子弥三郎をもうけていた。長男誕生を喜び、自分と同じ幼名をつけて可愛がった。  一ケ月程前、元親は深刻な顔で織田信長に加勢を求めることを利三に依頼した。四国統一は阿波、讃岐までは何とか成功していたが、伊予攻めでは長年てこずっていた。背後で備後の小早川氏が、いつも伊予の豪族たちを応援していたからであった。織田家に小早川を牽制させるために、利三が使者に立ったのである。  二十五年ぶりに訪れた京の都は、すべてが変わっていた。というより、前回の記憶がほとんど残っていないと言った方が正確だったかもしれない。利三は、自分の嫡男である存三《よしみつ》と次男の利光を一緒に同行させていた。それに、麾下の精鋭五十名ほどを連れてきていた。事前に京奉行の許可を取っていたものの、土佐駒に乗った見慣れない武者の一団の姿は、充分に京の人目を引いた。  利三は四国の田舎に少し長く居過ぎたと、華やかな町並みと人々の衣装を見て思った。そして二人の息子を連れてきて、多感な年頃の二人にはよい刺激になるだろうと馬上で感じていた。  一行は京の町を通り、一路明智光秀の居る坂本城に向かった。美濃で別れた母は、しばらくしてから亡くなったという。叔父の光秀から昔話も聞けるかと思うと、若い時の熱情に燃えていた自分を思いだした。叔父御も出世なさったが、きっと、いまの利三を見て喜んでくれるだろうと思った。  坂本の城は、長宗我部家の岡豊《おかとよ》城とはすべてが桁違いであった。斎藤家の家臣たちには、見るものすべてが驚きと興奮の連続であった。城に入ると早速、全員大広間に通された。そこには豪華な食膳が並べられていた。箸をつけずに待っていると、そこに萌黄色《もえぎいろ》の羽織を着た長身の武将が現れた。すぐに叔父の光秀だと感じた。光秀も利三に気づくと近づいてきて、利三の手を取った。  利三は光秀の手の暖かさに、なぜか母を感じた。そう思うと年を忘れて、目頭が熱くなった。 「利三、久し振りだな。立派な武将になったではないか」 「長年の御無沙汰申し訳ありませぬ。叔父上にもご壮健で。ここに控えますのが、長男の存三、次男の利光でござる」 「そうか。ここでは、ゆっくり話ができぬ。わしの居間に参れ」  光秀は利三と息子たちを連れて、琵琶湖の見える居間に移った。妻ひろ子が作った心のこもった手料理を食しながら、一同は昔話に時の更けるのも忘れていた。 「明智の城は、いまは稲葉一鉄殿が治めている。そなたの母が越前で亡くなった折、一鉄殿は快く明智の里に納骨させてくれた。一度、墓参りに美濃へ行くがよい」 「一鉄さまには昔会ったこともござります。一度、父の育った美濃を息子たちにも見せてやりたいと思っておりますし、なにせ、子供らは土佐しか知らぬ田舎者ですたい」  利三はそう言って明るく笑った。 「利三、信長さまには明日、元親殿の思いをお伝えしよう。悪くはされまいぞ」 「信長公へのお土産として、元親さまより鷹十六羽と砂糖三千斤を預かってまいりましたので、よしなにご献上くだされ」 「それはそれは、長旅で鷹の世話が一苦労だったろう。信長公は鷹には目がないからな」  元親は、信長の鷹好きをよく知っていた。常時、手元に百羽近い放鷹《ほうよう》の鷹を飼っていた。 「殺したり、逃がしては一大事と、息子どもが気を使ったようで」 「父上、それがしはもう二度と鷹の世話はご免でござる」  次男の利光が顔を赤くして、利三に抗議した。それを見て、ひろ子は光秀と顔を見合わせて笑いこけた。  翌日、光秀は利三に安土城に一緒に行くことを指示した。利三は主君の長宗我部元親でもまだ信長公に見まえていないことを理由に遠慮したが、光秀はなぜか許さなかった。  利三は信長に会うかと思うと、その存在感で急に気おくれした。そしてそれは、安土城の豪華絢爛さを見るにつれ、もっと大きくなった。  二人は、安土城の黒書院で平伏していた。気配で、信長が入室してきたことを感じた。光秀は控えている斎藤利三が自分の甥で、長宗我部元親の家臣として一万石を得ていると紹介すると、信長は急に笑みを浮かべて、 「なるほど、利三は明智の一族か。美濃には帰らぬのか」 「それがしは長宗我部元親の家臣でござりますゆえ」  その時、光秀が急に話をさえぎった。 「殿、つきましては、この利三をそれがしの配下に頂きたいと存じます。四国の加勢は、鷹と砂糖ではちと軽うございます。この光秀の家臣として一万石で召し抱えますれば、中国攻めにも役立つと思われますが」  信長は、即座に高い声で満足気に答えた。 「利三、これより惟任日向守の配下に入れ。元親には、信長より許しを得ておく」  利三は、二人の対話に驚いて顔を上げた。信長は、床の間で立ったままであった。利三は信長の鋭い眼ざしを無言で見つめたまま、その真意を測りかねていた。 「惟任、元親には手柄次第、四国の切り取り御免を与えると伝えよ」 元親にとって利三を失うことは痛手であろうが、正式に四国一国の支配を任されれば、信長公の申し出に不足はないと光秀には思えた。それに、四国の長宗我部家が自分の配下に入ることになったことは望外の喜びであった。  安土訪問は、斎藤利三には思いもがけない人生の急展開となった。まず、国に残してきた妻のお万《まん》と娘のお福が、明智家に仕官することをどう思うか気がかりであった。  案の定、元親は利三の三男角右衛門を坂本城に送ってきたが、お万は土佐を離れたくないという理由で国を出なかった。事実は元親が利三の後日の帰参を願って、妻と娘を土佐に留めたというのが正しかった。  結果として、利三は意に沿わずに、家族と別れることになった。しかし、主君元親に悲願である四国全土を治める信長の朱印状を渡すことができたことで、長年の恩義に報いることができたと満足していた。そして、なによりも明智家の中枢で活躍できるということで、昔の若き日の熱情が胸に戻ってきていた。  天正九年の年が明けた。雲はどんよりと重く灰色にたれ込め、静かに冷たい雨が降る正月であった。信長は昨年に続いて、今年もなぜか諸将の参賀を無用にした。安土の天主閣の完成は天正七年の五月であったが、天主閣が出来てから織田家の武将はまだ一度も年賀に招かれたことはなかった。天正六年の元旦に茶会を開いた後で荒木村重の謀反を招いたことで、信長の胸には思い出したくない縁起として、まだ安土城の初釜が残っているようであった。  しかし、そのお蔭で明智光秀はゆっくりと楽しい正月を迎えることができた。新年早々、光秀は還暦の祝いと称して、全国から家族、親戚全員を坂本の城に集めた。光秀の誕生日は十二月であったので、一年近く早い祝いとなっていた。光秀には、身内全員が集まれるのはこの正月しかないという、何か予感があった。それは、妻のひろ子が最近病がちなのも気になったからである。  坂本城には昨年の暮れに再婚した長女の範子と夫明智左馬助、次女咲子と夫明智光忠、三女芳子と夫津田信澄、四女玉子と夫長岡忠興、五女のとも子は筒井定次の妻になっていたが欠席していた。代わりに、同じく筒井家へ養子に入った次男の十次郎光慶が出席した。それに、長男明智十兵衛光重と三男の乙寿丸らが集合した。  普段遠く別れ離れになっているだけに、光秀は娘たちに会えて父親の喜びにひたった。特に玉子は丹後の宮津城から、貞子は近江の大溝城から、光慶は大和の郡山城からそれぞれ駆けつけてきていただけに、光秀夫妻の喜びはひとしおだった。  若い夫婦たちから還暦の祝いの言葉を受けながら、光秀は幸せだとつくづく感じた。側室に生ませた光慶と乙寿丸以外は皆働きざかりの二十代でこれで、明智家も当分安泰と安心した。それにつけても秀吉には実子がなくて、苦労して親戚、縁者を養子にしている話を聞くにつれ不憫に思えた。  家族|団欒《だんらん》の遅い昼餉が終わるやいなや、光秀は休む暇もなく、忠興夫婦と同道してきた長岡與一郎とあらかじめ示し合わせていた連歌の会の準備を始めた。夕刻から親しい友人である津田宗及、紹巴、山上宗二、吉田兼和らが参加して、新年の初歌を詠む予定になっていたからである。兼和が與一郎の娘伊也を妻にした関係で、光秀、與一郎、兼和の三人は親戚としてより親しくなっていた。連歌は、光秀にとっては戦よりはるかに充実感のある楽しさであった。  光秀は、斎藤利三も呼んで歌を詠むことを教えてやろうと思った。土佐では酒を飲むだけで、風雅には無縁だったろうと思ったからである。利三のどきまぎする顔が彷彿されて、自然と笑みがこぼれた。  その日は、姫路でも冷たい雨が激しく降っていた。秀吉は虚ろげに、姫路城の天守の窓から西の方角を眺めていた。正月なのに、相変わらず気は晴れなかった。  その訳を秀吉自身は知っていた。岡山城で会った、ふくの顔が忘れられなかったからである。宇喜多直家が病床にあると聞いて、病気見舞を口実にふくに会いに行くべきかどうかを躊躇していた。それにもう一つ、憂鬱《ゆううつ》なことがあった。  信長公が長宗我部元親に四国の切り取り御免を与えたということを、馬廻りの堀久太郎から聞いたからである。元親が四国を切り取れば、それを取り次いだ光秀が四国七十五万石を配下におさめることになる。四国はどうしても光秀に渡すわけにはいかないと、固く心に誓っていた。  そこへ折よく黒田官兵衛が足を引きずりながら、天守閣の急な階段を上がってきた。 「座敷に三好康長殿を待たしておりますが」  有岡城での一年以上の監禁に耐えて自分への忠誠を変えなかった官兵衛を、秀吉はより寵愛するようになっていた。 「おう、きたか。すぐ参る」  そう言うかいなや、秀吉は気分変えると脱兎のごとく階段を下りて行った。官兵衛は苦笑しながら、仕方なくまた左足を引きずりながら、細い階段を下り始めた。 「いやあ、康長殿、わざわざ讃岐から御苦労でござった。海路はご無事だったかな」  三好康長は丸い赤ら顔をぎらぎらとさせて、愛想笑いを浮かべた。 「筑前守さまにはご健勝で何よりでござりまする。たってのお召しとあって、取るものも取らずに駆け参じた次第」 「今宵はゆっくりと四国の話でも聞かせてもらいたいと思ってな、この姫路まで来てもらった。それに、大事な頼みもあってな」  康長は丸い眼をより大きく見開いて、秀吉を見つめた。 「何事でござりますかな。なんなりと、筑前さまの言うとおりに」 「わしの甥の秀次《ひでつぐ》を知っておると思うが、そろそろ城を持たせねばならぬと思ってな。そこで、そなたの養子にしてはもらえぬかと」  康長は口を開けて本当に驚いた。 「この三好家に、秀次さまを迎えるのでござるか」  康長には、秀吉の真意が掴めなかった。長年、三好三人衆の一人として織田家に対抗していたが四年前に降伏して、今は信長に仕える身分であった。織田家でいまもっとも羽振りのよい秀吉が、自分のような田舎外様に、なぜ大事な身内の甥を養子にくれるのか、皆目、見当がつかなかった。  夕飼を待つしばしの間、官兵衛がゆっくりと足を引きずって寄りそってきた。 「康長殿、殿は内々、貴殿を見込んで本日ここへ呼ばれた。殿はもともと、四国を長宗我部元親一人が切り取ることに反対でござる。そこで康長殿に讃岐と阿波はお渡ししたいというのが、わが殿の意向。その与力の証《あかし》として、大事な甥の秀次さまをご養子に出されると決めた次第、おわかり頂けたかな」  官兵衛の低く重い口調は、はっきりと康長の胸に刻まれた。これは思った以上の一大事を秀吉は打ち明けたことになると感じた。  元親はすでに信長の朱印状《しゅいんじょう》をもらって四国統一を進めている。ことによっては、自分と元親が戦うことになる。そしてそれはまた、秀吉と光秀の戦いになることを意味していた。  しかし、いまのままでは元親の配下に入れさせられて、格別出世することはおぼつかない。戦のあまりうまくない自分にしてみれば、ここで秀吉と親戚になることで出世の糸口を掴もう。  康長は自分の本心を見透かされないようにもったいをつけながら、秀次を養子にすることを官兵衛に告げた。  その晩、上機嫌になった秀吉は三好家との縁組を祝って、主だった秀吉の武将たちを集めて祝宴を催した。小一郎秀長、蜂須賀小六、前野長康、宇喜多忠家、黒田官兵衛らの面々が出席した。しかし、肝心の秀次の姿は影も形も見えなかった。そして、秀吉以下どの武将もそのことに気をつかっていないことが、義父になる三好康長には奇異に思えた。   馬ぞろえ  正月の八日は安土の城下町では、どんどん焼きの祭りの日であった。安土城の天主閣や城壁のいたる所に提灯が吊されていた。城の北側に新しく造られた馬場に着飾った武将たちが思い思いの頭巾をかぶって、それぞれ駿馬に乗って現れた。どんどん焼き祭りの一大行事は、爆竹を鳴らしながら馬を競い合わせるのである。多くの見物人がすでに馬場を取り巻いていた。  最初に、信長の小姓たちが十騎ほど集団になって入場してくる。その後を信長自身が黒の南蛮笠をかぶり唐織りの錦の袖なし陣羽織を着て、虎の皮の腰巻きを下げて芦毛の駿馬を軽やかに駆って馬場を通過していった。信長はなぜか眉を剃り、赤の頬あてをつけていた。その他、織田家一門の信忠、信孝、信澄、長益らがきらびやかに続いた。  そしてそれぞれの武将が十騎、二十騎と一団となって、全速で囃声《はやしごえ》をあげながら馬場を駆け抜ける。爆竹が馬の尻の後ろから鳴らされるので、馬は必死になって泡を吹いて走り続ける。誰しもが、競馬の面白さを堪能していた。その中でも信長の芦毛の馬は、飛ぶ鳥のような駆足で見物人の度胆を抜いた。  正月二十三日、光秀は信長公からの呼び出しを受けた。上機嫌のようで早口でまくしたてた。 「惟任、来月京で帝《みかど》を御呼びして、馬ぞろえをおこなう。全国の大名に朱印状を送って用意をさせよ」 「はあ、馬ぞろえに全国から呼ぶのでござりますか」 「左様。一番着飾って、良い馬に乗って参れと伝えよ」 「して、いかほどの人数を集めれば」 「一組五十騎として十組ほどでよいか。すぐにとりかかれ」  光秀は安土城からの帰り道、途方に暮れていた。大役を仰せつかったのは光栄ではあったが、わずか一ケ月で馬場を造り、全国から駿馬と主だった武将を集めるのは容易なことではなかった。多くの織田家の武将にとって物入りと同時に、戦の持ち場を離れることは抵抗があったからである。  しかし光秀の不安に相違して、織田家の武将たちは我も我もと参加を希望してきた。結果として二月二十八日に行われることになった馬ぞろえには、実に千頭を越す名馬が集まる予定になった。  その織田家の武将の中で、二人の有力大名だけが欠席してきた。一人は長年の同盟者である駿河の徳川家康、それと羽柴秀吉であった。家康は遠江の高天神城で武田勝頼の軍勢と対峙しており、京に来ることができなかったからである。秀吉の欠席は不自然であったが、その理由を問いただす暇は光秀にはなかった。  秀吉は馬ぞろえには興味がなかったというより、この機会に自分の勢力基盤を伸ばすことを深謀遠慮に考えていた。不参加の理由は宇喜多直家が危篤ということで、信長公から直前に許しを得た。それに加えて毛利の吉川元春が因幡の鳥取城から播磨に攻め込もうとしていると報告して、一人だけ欠席できたのである。  運よく、秀吉の言い訳は結果として事実となった。二月十四日、宇喜多直家が五十三歳で岡山城で病死した。すぐに秀吉は葬儀、後継者選びなどの雑事を、嬉々として岡山に滞在しながら指示を出していた。  光秀は宮中東門の築地の外に、天皇他、殿上人の仮御所を造営していた。また公家、摂家、大臣らの貴族たちの仮邸宅も、その御所の回りに普請したのである。そして当日の観覧の桟敷を大名、小名、ご家人のために設けた。それらはすべて仮とはいえ、金銀の飾りときらびやかな織物で装飾されており、本式の造営といっても言い過ぎではない出来映えであった。  内裏の東側の場所に、南北に八町、東西に一町の馬場が造られた。馬場の入口と出口には、あざやかな紅白の布で巻かれた八尺の柱が立てられてあった。  二月二十八日は快晴の青空になった。辰の刻になり天皇、誠仁親王、女房ら宮中の一団が清涼殿《せいりょうでん》から静々とお出ましになり、色とりどりの衣装にたき込めた香の匂いがあたり一面に漂った。すでに多くの京都の町人が詰めかけており、まるで京に住む人すべてが、この馬ぞろえを見に来たかと思われるほどの盛況であった。桟敷にはキリシタンの司祭達も呼ばれていた。  式が始まった。御馬場に一番乗りの栄誉を担ったのは若狭国小浜城主丹羽長秀以下の五十騎であった。二番手は近江肥田城主蜂屋頼隆が得意満面の顔して入場した。この馬ぞろえをいまは得度した道糞こと、荒木村重が平太夫と共に遠くから眺めていた。  平太夫は丹羽と蜂屋の旗差物を見ると、露骨に一人言を吐いた。 「織田では、女子供を殺す者が出世できるのかのう」  処刑奉行として、有岡城の女房、子供たちを幼気《いたいけ》もなく斬り殺したこの二人は忘れられなかった。しかし、自らを道ばたの糞と称するほど世俗を捨て切った村重は、平太夫の言葉にも動じなかった。  三番目は、今日の進行を担った光秀であった。一族郎党にこの晴れがましい思いを感じさせようと、主だった面々を引き連れて入場した。光秀の衣装は金襴で編んだ唐織物の小袖と肩衣を着て、袴には紫の桔梗が描かれていた。左馬助が選んだ鹿毛の馬の胸がい、尻がいは五色の糸で組んだ豪華なものであった。  明智の騎馬軍十五騎は、それぞれ水色の桔梗の細い旗差物を背中につけて行進した。斎藤利三も馬ぞろいに参加して、初めて織田全軍の威勢を目の当たりにして感慨深いものがあった。到底、長宗我部の軍では真似ができないことであった。  光秀の次は京都所司代の村井貞勝が続き、そして織田家一門の登場である。中将信忠の率いる美濃、尾張衆八十騎が一際大きな歓声とともに馬場に入場してきた。信忠は芦毛の汗馬を乗りこなしていた。続いて信雄《のぶかつ》率いる伊勢衆三十騎、そして信包《のぶかね》の馬乗り十騎、信孝十騎、信澄十騎と織田一門の華麗な行列が続いた。信孝の馬は粕毛の早馬で、特に目立った馬であった。  それから公家衆、馬廻り衆、小姓衆が十五騎ずつ一組になって、天皇が見守る仮御所を通り過ぎて行く。続いて越前から駆けつけた柴田勝家を始めとする越前衆、そして二集団に分かれて百騎の弓衆が入ってくる。その先頭は、手投げ槍を腰にさした木村次郎左衛門であった。  いよいよ、信長の登場であった。信長所有の名馬六頭が、厩奉行の青地右衛門に先導されて入ってくる。日本全国から選ばれた名馬で、非のうちどころのない馬たちであった。それぞれ「鬼葦毛《おにあしげ》」「小|鹿毛《かげ》」「大葦毛」「遠江鹿毛」「こひばり」「かわらげ」と呼ばれていた。  馬たちのまわりは草桶や水桶を持った中間たちが立烏帽子、黄色の水干《すいかん》、白い袴の衣装を纏い素足に草履をはいて歩いてくる。そしてその後に四人の屈強な男が、金の装飾を施した濃紅色のビロードの椅子を肩に担いで行進してきた。それは、ポルトガルのマカオの宣教師から信長に送られた椅子であった。しかし誰も座らない奇妙な椅子は、理解のできない光景に写った。  信長は、大黒《おおぐろ》という黒毛の馬に乗って入場してきた。大黒の全身は、紅色の垂れ飾りで飾られていた。すでに一刻ほどの時間が経過していたが、見物人はすべて時を忘れて信長の衣装に見とれたのである。  馬場は一瞬、静寂に包まれた。それは馬ぞろえの入場というより、まるで神の降臨のごとき厳粛さと華麗さであったからである。信長の装束は唐冠の頭巾をかぶり、後ろに梅の花を差している。顔のつくりは眉を長く描き、金紗の頬あてをつけていた。頬あての真ん中には人形が見事に織り出されて、着ている小袖は白地に紅梅と桐に唐草の段模様で、袖口は金糸のふちどりがしてあった。  小袖の上に着ている肩衣は紅地に桐と唐草がまつわった柄で、袴も同じ模様であった。腰には牡丹の造花を差し、太刀の鞘は金の延板飾りで装飾されていた。乗馬用の腰蓑《こしみの》は白熊の皮で、韋《かわ》手袋は白革に桐の紋がついていた。沓《くつ》は猩々《しょうじょう》の皮で、上部に唐錦を用いていた。誰もが、これほど華麗な武将を見たことがなかった。場外から期せずして拍手が鳴った。御所の中からも拍手が聞こえてきた。  信長が馬場をゆっくりと抜け出て、午前の部が終わった。午後はそれぞれの腕の立つ武将たちが早駆けで、馬術を見せる時間であった。  信長は日頃馴れた手綱さばきで、用意した六頭でそれぞれ見事に駆け抜けて万雷の拍手を得ていた。明智の軍団は明智光忠、左馬助の二人が、供駆けの馬術を披露して、同じく大きな拍手を受けた。  一段落した所で天皇と親王は帰られたが、その他の公家たちは馬ぞろいが終わるまで、仮御所、桟敷を動くことはできなかった。夕方まで馬ぞろえは続いた、というより信長が止めなかったからである。日が暮れそうになって、信長は満足気に馬を馬屋に入れさせ、宿舎の本能寺に帰宅した。  光秀は、信長公の姿が見えなくなってから大きく息を吐いた。無事、大役が終わった安堵感からであった。  翌日、光秀は信長公の宿舎である本能寺に呼びつけられた。てっきり、慰労の言葉でも頂けるのではないかと期待していた。しかし発せられた言葉は意外なものであった。 「内裏《だいり》より昨日の礼があった。また馬ぞろえを見たいとの所望じゃあ。惟任、勧修寺《かじゅうじ》大納言に伝えてまいれ。天皇にも、この信長と一緒に馬に乗られるよう申し入れよ」  関白近衛前久が石山本願寺の失策で罷免されてから、織田家と朝廷の伝奏は大納言になった勧修寺晴豊が司どっていた。  光秀は、信長公の言葉が信じられなかった。内裏の礼は、単なる公家の世辞ではないかと思った。しかし、主君の思惑は何か他にありそうであった。主上を馬にお乗せしようとする信長公の魂胆が気になったが、敢えてそれを聞くことはしなかった。  光秀はまっすぐ、御所にいた勧修寺大納言を訪ねた。薄暗い御所の一室で晴豊は光秀の申し入れを聞くなり、顔をしかめた。 「えろうお話でおわすな。臣が御上と一緒に馬に乗るとは、前代未聞のことでござります」 「とは存じておりますが、わが主君の命を帝にお伝え願えませんでしょうか」 「惟任殿、それではお話しましょう。御上は、昨日の馬ぞろいではお楽しみいただけなかったことを御存じか。信長公は正式には無官でござる。二年前に、権大納言右近衛大将の官位を勝手に辞退されておられる身分。武家の棟梁には、征夷大将軍という官位がござる。信長公は天下布武と言うておられるが、まだ征夷大将軍でもありませんしな」  晴豊はまだ四十代であったが、信長を恐れずに歯に衣着せずに発言した。  晴豊の言い分はもっともであった。無官の帝王が天皇と並んで馬に乗ることなど、正気の沙汰ではなかった。見渡せば中国の毛利、関東の北条、北陸の上杉、甲斐の武田と、織田家に敵対する大名が全国には多く残っている。確かに、まだ信長公は武家の棟梁ではないのだ。  晴豊が話を続けた。 「それに、昨日の信長公の桐のご紋入りの衣装は何事でござるか。五三の桐は天皇家のご紋でござる。いつから、信長公は御上の姻戚になられたのかな。もともとは桐の紋は足利尊氏が征夷大将軍になった折、朝廷より拝領したもので武家のものではない。それに、織田家の祖は源氏ではあられぬ。そうそう、金紗《きんしゃ》の頬当も天皇のご衣装であって、臣のものではないことを惟任殿はご存じであったかな」  晴豊は、さすがに公家の大納言にふさわしい知識を持っていた。そう言われると、信長公が何を考えて行動しているのかまったくわからなくなった。  三日後の三月一日、京の奉行所で待機していた光秀の所に勧修寺晴豊の使者として、日野中納言|照資《てるすけ》が訪れた。中納言の返事は、あらためて次回の馬ぞろえに天皇は欠席するという正式な返答であった。予想された返答であった。  しかし信長は、光秀から内裏の返答を聞いて激怒した。 「よきゃ、明後日、馬ぞろえをおこなう。至急、準備せよ」  興奮した信長から尾張弁が飛び出した。光秀は、信長公の眼に何か捉えようのない狂気を感じた。その眼はすぐに消えたが、帝が完全に自分に敵対したと感じているようであった。そして信長公は、馬ぞろえに参加した騎士たちをまた呼び戻すよう命令した。多くの武将は怪訝気に戻ってきたが、半数は既に帰国してしまっていた。  三月五日、禁中からのご所望という口実で、天皇が不在にもかかわらず同じ場所で馬ぞろえが行われた。しかし、この時参加した五百騎の武将の衣装は、すべて黒色を纏うことを信長から命じられた。そして信長の衣装も、黒塗りの笠に、黒の頬当てをして、服は黒の袴を穿き、まるで葬式のような雰囲気であった。  前回の華麗な馬ぞろえとは一変した、恐ろしい織田家の軍事的威嚇を御所にあらわした行進であった。御上の御気色は御所の中深く、うかがい知ることはできなかった。  織田信長は、天文三年五月十二日に誕生した。天正九年、四十八歳の誕生日を迎えるにあたり、安土城内の総見寺から奇妙な触状を全国に発布した。それは自分の誕生日である五月十二日を、聖日とするというものであった。そして、その聖日には全国の国民はこの総見寺に参詣することを命ずる、と書かれてあった。その御利益として、八十歳まで長寿ができ、貧しき者、賎しき者が富裕の身になれるというものであった。朱印状は、最近、信長が小姓に取り上げた森乱によって発布された。  しかし誕生日間近だったために、その日の参詣者は安土近在の者だけに限られた。それにともない、信長は総見寺の楼門と三重塔の建立を甲賀の大工に命じた。期間は三ケ月であった。甲賀の国人はしかたなく、鎌倉時代に造られた長寿寺の塔と門を、安土山に移建せざるを得なかった。  誕生日のその日、信長はいたく上機嫌であった。折しもキリシタンの司祭であるヴァリニャーノとオルガンティーノ師、フロイスの三人が、誕生日の祝いに安土城に駆けつけていたからである。彼らはキリスト教布教のため、信長公の御機嫌伺いにわざわざ訪問していた。そして彼らは、土産として一人の生きた黒人奴隷を進呈した。  信長は、この牛のごとく黒くて、体格の良い大男の黒人をえらく気に入り、早速自分の身近な召使いとした。そしてキリシタンの一団を下にも置かぬ接待をした。  フロイスは、信長公の対応が以前の荒木村重謀反のときとはあまりも違うので、戸惑っていた。来る前に、師父であるヴァリニャーノに教えた信長像とは、あまりにも違っていたからである。  数日間、安土城で歓待を受けたキリシタンたちが信長公に別れの挨拶をしに行くと、一行は天主閣のある広間に案内された。その室内には唐風の偉人たちが襖に描かれてあり、その中央には安土城の全図が描かれた巨大な六曲一双《ろっきょくいっそう》の金屏風がさん然と光って配置されていた。  信長は、ヴァリニャーノ司祭が送ったポルトガル様式の椅子に座って得意然としていた。 「オダノトノサマ、タイヘンオセワサマデシタ。コレデキョウニカエリマス。デキレバ、キョウノテンシサマニ、オアイデキルヨウニ、ハナシシテクダサイ」  ヴァリニャーノが全員を代表して、別れの挨拶をした。 「天子に何のようか」 「ハイ、キリストキョウヲ、ニホンノコクミンスベテニ、オシエタイトオモッテイマス」 「その必要はない。余がこの国の王である。日本全国の布教を許す」  キリシタン三人は顔を見合わせた。信長の言葉を理解したようであるが、怪訝な顔を変えなかった。そこで通訳の小姓が説明して事情が解ったらしく、今度は三人は立ったまま信長公に深々と頭を下げた。 「そなたらに余の土産を遣わす。この屏風を、その教会とやらに飾るがよい。天子も欲しがった屏風じゃ。すべての人間がこの前にひれ伏すことを約束しよう」  金屏風には安土城をとりまく山、湖、橋、屋敷、街路などの全景が細かく描かれていた。この屏風を見れば誰でも織田信長公より拝領した物とわかり、その効果は絶大であると、外国人であるキリシタンでも理解できた。信長の毅然たる品格は、どの日本人にもない威厳さをしめしていた。最後に、三人は畳の上にひざまずいて頭をたれた。  ヴァリニャーノ、オルガンティーノ、フロイスが安土城を去って、遠くから安土の山を振り返って見た時、日は落ちようとしていた。その頂上にある五層の天主閣の軒先にはそれぞれ色とりどりの提灯が飾られ、火が灯されていた。金箔瓦に光る天主閣の輪郭が、はっきりと群青の空に浮かびあがった。  フロイスはこのような華麗な城を、そして町並みを、自分の故郷ポルトガルのリスボンでも、インドのゴアでも見たことがなかった。  光秀は数日後、京の二条の館で木村次郎左衛門からバテレンと信長公との話を聞いていた。次郎左衛門は信長公の総見寺における言動について、ある事が内裏に漏れることを恐れて事前に朝廷担当の光秀に真相を報告しにきたのであった。 「次郎左衛門、それでその総見寺のご神体はなんなのじゃ」 「それが、信長公さま御自身の木像が、仏殿の中に安置されておりました」  光秀は正直、動転した。自分自身を神として領民に拝ませるとはどのような心理なのか、全く理解できなかった。信長公の思いは何か危険な兆候であると感じた。そして、早かれ遅かれ朝廷はまた自分に文句を言ってくるだろう、何か弁解を考えなければならないと思った。   中国攻め  羽柴筑前守秀吉は初夏の暑さが体を汗ばませる日、麾下《きか》の軍勢一万五千を引き連れて岡山城に入った。  秀吉は小西行長に案内させて、城の御奥に入った。まず、ふくに挨拶をするためであった。 満面に笑みを浮かべて、つかつかと勝手にふくの部屋へ入って行った。 「ふく殿、ふく殿はおられるか。筑前でござる。たくさん近江の土産を持ってまいった」 「これはこれは、急な御成《おなり》で、なんの用意もできておりませぬ」  ふくの優しい声が几帳《きちょう》越しに聞こえてきた。侍女たちが、あわてて秀吉の前に顔を出す。 「よい、よい。これより忠家たちと軍議をいたす。今宵はふく殿と一緒に膳をかこみたいと思うてな。稚鮎《ちあゆ》を持参した」  ふくが、打ち掛けを引きずりながら秀吉の前に座して頭をさげた。ふくの夫宇喜多直家は三ケ月に亡くなっていたが、ふくはまだ豪華なうち掛けを羽織り、髪もおろしていなかった。秀吉が、直家の死を一年間秘することを家中に命じていたからであった。 「これは、もったいないおぼしめし。たっての仰せとあれば、台所に申しつけておきまする」 「うむ、それでは後ほど」  秀吉は、ふくが二人きりで夕食をとることに同意したと思うと、すぐに踵を返して御奥の間を去った。ふくの気持ちが変わることを恐れたからである。  廊下を歩きながら、今宵こそふくを抱くつもりでいた。とりあえず喪中とはいえ、強気に押せば何とかなるかと勝手に夢想していた。  秀吉は宇喜多忠家、春家を前に軍議を始めた。秀吉の廻りには秀長、蜂須賀小六、前野将右衛門、宮部継潤、浅野長政、黒田官兵衛、杉原家次、木下家定と近江長浜の黄|袰《ほろ》衆である仙石秀久、堀尾吉晴、中村一氏、一柳直末らの腹心たちが控えていた。 「信長殿より、因幡《いなば》の鳥取城に攻め込んだ、毛利の吉川経家を討つ御許しを頂いた。しかし、鳥取城は難攻不落の堅城である。したがって、兵糧攻めにしたいと存ずる。将右衛門は、海上でせき止めて毛利の船を入れぬようにせよ。小六、一足先に因幡に入り米を買い占めよ。弥九郎と佐吉を一緒に連れてまいれ、役にたとう。  それから忠家、宇喜多勢は小早川隆景が動かぬよう、備中の毛利を牽制しておけ。その他の諸将は町民を追い立てて、鳥取城に引き取らせよ。その方が事が早く片付くでよ」  毛利の救援が来る前に兵糧攻めで、鳥取城を囲んでしまう作戦であった。しかし真剣に見えた秀吉は軍議よりも、今宵のふくとの逢瀬に実際は心を奪われていた。  秀吉は稚鮎を数匹丸ごと食べて、飲めない酒を無理して飲んでいた。胸が動悸で苦しいくらいである。ふくはその涼しげな顔を少しも崩さなかった。 「ふく」  秀吉は思いきって名を呼んだ。ふくは、ちょっと驚いたように秀吉の顔を見つめた。 「はい」 「八郎のことであるが、八郎は祢が長浜で面倒をみておる故、案ずることはない。いまや八郎の父はこの秀吉、そなたは母、さすればわれらは夫婦じゃ。可笑しいのう」  秀吉の目は少しも笑っていなかった。 「ほんに、そうでござりますな」  秀吉は思いがけず、ふくの怖けない返答に意を強くした。 「因幡攻めが片付いたら、すぐにも信長公に八郎の宇喜多家跡目の御許しを御願いしようと思っている」  ふくは、八郎の相続の話がでると眼が光った。 「殿さま、八郎の跡目相続よしなに御願い申します」  秀吉は、ふくの手を握った。ふくは、あえて抵抗しなかった。座敷にはふくが手配したのか、誰も侍女の姿は見えなかった。  秀吉は、胸の動悸を抑えてふくの肩を抱いた。思ったよりふくの身体は肉づきが良く、はりがあった。秀吉は左手でふくのあごを自分に向けさせると、長い黒髪を感じながら口を吸った。そしてふくを抱きながら、そのまま畳の上に倒れ込んだ。  岡山の夏の夜はさわやかで、素肌が気持ちよかった。その晩思い通りに、ふくのやわらかい肌を抱いて、秀吉は幸福感に満ちあふれた。何もかもすべてがうまくいくと、強い信念が体中に湧いていた。これで宇喜多家は自分のものだと思うと、添い寝をしているふくをまた抱きしめたくなった。  ふくは秀吉に抱かれながら、思った以上にその時が早く来てくれたと安堵していた。直家との結婚生活は、決して満足するものではなかった。病死した直家の先妻はふくの姉であり、かつ父は直家に毒殺されたために美作《みまさか》半国の領土を失っていた。一人残されたふくにとっては、息子八郎がすべてであった。  信長と天皇との確執は、抜きさしがたいものとなっていた。光秀にも勧修寺大納言にも、手の打ちようがなかった。信長公は天下布武の名の通り、敵対する者を容赦なく踏みにじっていく様子であった。光秀の目には、信長公が室町将軍であった足利義昭を結局追放したように、今度は意向にそわない天皇を排除していくように見えた。しかし、相手は老練な朝廷である。単純で感情的な義昭とは格が違う。信長公の行動に危惧を感じ始めていた。  光秀は毛利本軍が因幡に侵入したときの対抗として、鳥取城攻めの後援の出兵を命じられた。丹後からは長岡與一郎、忠興親子、摂津からは池田勝三郎、高山右近、中川瀬兵衛らが動員された。  光秀はこの半年間京にいて、秀吉に中国攻めの主導権を取られたことを悔やんでいた。まして、鳥取で真剣に働いて秀吉に功を挙げさせることなどしたくなかった。そこで明智軍は、一番怪我の少ない海上の封鎖と防備に回った。しかし、毛利三家の軍は鳥取城救援にはあらわれなかった。毛利輝元は、鳥取城を見捨てるようであった。海上の大船から鳥取の砂丘を眺めつつ、毛利勢が現れないことを内心喜んでいた。最近ことさら、毛利軍とは事を構えたくない心境になっていたからである。  蝉の音が高野の山に響きわたる。まるで、人を寄せつけないかのような鳴き方であった。多くの壮大な伽藍と百年杉の樹木の高まりが、名状しがたい荘厳さをもたらしていた。夏とはいえど風は冷たく、下界の暑苦しさは少しも感じられなかった。  山上の大門に向かって、三十八町の急な坂道をあえぎながら上ってくる三十名ほどの武者たちが見えた。汗ばんだ肩が黒く光り、手に持った槍、長刀の刃が、木もれ日に重苦しく反射していた。根本大堂にたどりついた一群は、雄叫びを金堂に向かってあげた。 「われらは織田家、松井有閑の手の者でござる。不埒にも、この高野山で荒木村重の残党をかくまっていると聞いた。神妙に浪人どもを出されめい」  しばらくして本堂の太い柱の後から、墨衣に身を包んだ若い僧が現れた。 「行徳と申す修行僧でござります。この高野山は真言密教の根本道場でござりますゆえ、弘法大師さまの御世から厳しく世俗の者を入れることはしておりません」 「隠し立てをするな。荒木村重の家臣が五人、この山に隠れておると、つい今しがた知らせがあったのだ」 「もし、そのような者が当山にいるとすれば、高野聖《こうやひじり》の中にいるかもしれませぬな。この近くの僧坊に、聖たちが休む場所がございますから」 「それはどこだ」  若い行徳という僧が黙って指さした方角に向かって、一団は駆け出した。若僧は、軽く笑って武者たちを見送っていた。しばらくして、行徳は背後の杉の木に向かって話かけた。 「平太夫さま、ご安心でございます。あの荒くれ者たちには、稚児《ちご》から酒でも飲ませておきましょう」  行徳が話かけた相手は、荒木村重の小姓でもあった平太夫であった。 「迷惑をかけて申し訳ない。ひとまず我ら身を隠していよう」  平太夫は樵《きこり》姿であった。そのまま、数人の仲間と近くの林に飛び込んでいった。  広い高野山の境内の中に、全国に反物を売り歩きながら巡礼する高野聖と呼ばれる僧侶や参詣者たちが泊まる僧坊と宿坊があった。百を越す宿坊には常時、千人を越す聖たちが寝泊まりしていた。  日はまだ落ちていなかったが、荒木の残党を追ってきた松井有閑の家臣たちは、行徳が手配した酒を飲みながら、残党が見つからないので管を巻いていた。主人の有閑が石山本願寺での火災の手落ちで信長公の不興を買った手前、家来たちも無聊《ぶりょう》をかこっていた。ここで残党を捕らえて、一手柄あげるつもりであった。  酒はふんだんにあったが、つまみの干し大根は数切れしかなかった。兵たちは、あっという間に酔ってしまっていた。一人の足軽が酒を運んできた稚児を捕まえて、床に押し倒した。 「稚児、このあたりに浪人が潜んでいたはずだが知らぬか。知らぬとは言わさぬぞ」  見るからに腕力のありそうな太い腕を袴の下から差し込んで、稚児の陰《ふぐり》を握った。稚児は細い悲鳴をあげた。まわりの同僚たちが、卑猥な嬌声をあげてはやした。稚児は、恐怖で震えて声も出なくなっていた。  しかし、急に聞こえてきた声は太くおびえた悲鳴であった。それが稚児を苛めていた足軽の声だと気がついたとき、足軽の顔は鼻血で真っ赤に染まっていた。  足軽の背後に、いつのまにか平太夫が角棒を持って立っていた。その姿に気がついたまわりの足軽たちが、 「おぬしは何者だ」 「おぬしらが探している荒木の家臣だ」  平太夫には稚児の姿が、六条河原で討たれた荒木家の息子たちに見えていた。  どよめきだった兵たちは、よろけながら立ち上がった。しかしそれより早く、平太夫の一群は松井有閑の足軽たちを思い思いに撫で斬りにしていた。惨劇が終わった時には、あたり一面血の海であった。  若い男が、平太夫に冷静に声をかけた。 「平太夫、もうよい」  その声は、荒木村重の嫡男である新五郎であった。  数日後、事件を聞いた信長は激怒した。すぐに三男の織田信孝を大将として、高野山を攻めさせた。そして、たまたま宿坊に寝泊まりしていた罪のない高野聖千三百人を、見せしめとして斬り殺させたのである。  驚いた高野山では、すぐ天皇に攻撃中止の直訴を依頼した。天皇はすぐさま信長に宥免《ゆうめん》を依頼したが、信長はわれ関せずとそのまま高野山を焼き払わせた。  光秀はその頃、鳥取の海上にいて京の都で何が起きているか知るよしもなかった。留守中は、京都所司代村井貞勝が朝廷との雑事を引き受けていたが、やはりなす術《すべ》がなかった。  信長は高野山の征伐が一段落すると次男の北畠信雄を呼んで、伊賀を攻め落とすことを命令した。長年、伊賀は本願寺勢力などと組み、常に反織田方として対抗してきたからである。  丁度二年前の九月に、信雄は独断で伊賀に攻め入り大敗を喫していた。その時、織田方の大将である柘植《つげ》三郎佐衛門を戦死させて、信長からきびしい折檻状をもらっていた。そこで今回は、必勝を期す信雄に四万の大軍を信長は渡したのである。実に、前の戦の四倍の人数を動員させた。  信長の弟であり伊勢上野の城主織田|信包《のぶかね》が出陣、同じく伊勢長島城主の滝川一益、近江から堀久太郎、若狭小浜城主丹羽五郎左衛門、大和郡山城主である筒井順慶らが伊賀の国に向かって四方の入口から侵入した。  信長の目的は伊賀国の征伐というより、その住民の皆殺しであった。積年、織田方は伊賀の忍者によって大事な戦の邪魔をさせられていた。特に彼等は隠密、密偵、暗殺などの仕事を金次第で引き受けて働いた、忍者と称される集団であった。十年ほど前には信長自身、石山本願寺によって雇われた伊賀者によって狙撃され、あやうく一大事になる苦い経験があった。  織田軍は伊賀の国に侵入するやいなや、あらゆる民家、田畑を焼きはらった。当然、阻止しようとする住民はむごたらしく斬り殺された。伊賀は多くの山に囲まれた国である。残虐な織田軍を恐れて、多くの住民は山中に逃げ込んだ。しかし織田の将兵は山狩りまでして、見つけ次第、老若男女を問わず惨殺した。  朝霧が静かに名張の里に広がっている。その白い靄の中に、黒く合掌造りの大屋根だけが見えた。その屋敷は伊賀|惣国《そうこく》を実質的に治める上忍《じょうにん》の服部本家の屋敷であった。時代を経た黒い床板の大広間に、国中の豪族たちが集まっていた。上段に座っていた頭領の服部半蔵正成が口をひらいた。座に列している人間はすべて黒い忍者の着物を纏っており、年格好は皆同じように見えた。 「昨日、北畠信雄を大将とする四万以上の軍勢が、この伊賀の国に侵入した。各地で女、子供たちが殺されておる。一刻の猶予もならん。各々方、いかがしたらよいかな」  半蔵の声が低く落ち着いて室内に響いた。その時、反対側から太い声が聞こえた。同じく伊賀の上忍である百地《ももち》丹波であった。 「織田の軍勢がいかに多いとはいえ、動きのとれぬ案山子《かかし》同然。地形を利用して敵の薄い所を突けば、負けはせぬわ」  丹波は二年前に、織田家の大将である柘植三郎左衛門を自ら打ち取った勇将であった。しかし、最長老である白髪頭の城戸弥佐衛門が反対した。 「丹波、今回はちと違うような気がする。四万を越す軍勢とは、この伊賀の国人よりも多いのだぞ。そう簡単に倒せるとは思えんて」 「弥佐衛門の爺にわしも賛成じゃ。無理に戦って命をあたら無駄にすることは、伊賀者がなくなることになる。われら長年、天子さまに影ながらお仕え申しているのに、それでは不忠というもんじゃ」  服部半蔵が、全員を説き伏せるようにゆっくりと話をまとめた。伊賀者は確かに金で動く集団ではあったが、昔より朝廷を蔭ながら護待することが真の勤めでもあった。  評定の結論は、ひとまず他国に逃げることであった。誰も、それ以上話をする者はいなかった。半蔵は去れと命じた。音もなく、黒い集団が風のように消え去った。  半蔵は静かに立ち上がると、奥の部屋の木戸を開けた。中には野武士のような男たちが数人、車座になっていた。 「織田の軍勢がこの名張の里にも、まもなく押し寄せよう。われらは、しばらく伊賀の国を捨てることにした。客人たちには申し訳ないが、これより案内つかまるので、根来《ねごろ》の里まで落ち延びて頂きたい」 「われらも長年、織田とは戦ってきた者でござる。ここで一戦するのは本懐でござる」  その声は、高野山から逃げてきた平太夫の声であった。 「平太夫とやら、今度ばかりは犬死になろう。後日を期して、この場はお逃げなさい」  客人と呼ばれた一団は、半蔵に言いふくめられて立ち上がった。平太夫にはまた信長に対する憎しみが熱く、腹の中に込みあげてきていた。  織田軍は伊賀の国に四方面から侵入していた。北畠信雄以下、他の織田家の武将は伊賀の北口から進撃していたが、唯一、筒井順慶の軍団だけが南方の大和口から侵攻していた。  筒井順慶は長年、大和郡山城主として隣国の伊賀の住民をよく知っていた。伊賀の里は確かに織田家に対抗はしていたが、金で動く集団であった。皆殺しに抹殺する方法は火の粉をまき散らすだけで、何の解決にもならないと順慶は信じていた。  前の伊賀攻めでは攻めると逃げ、夜間待ちぶせして姿を見せずに攻撃してくる伊賀の忍者に、織田軍団は辟易して敗退したのである。順慶は、総大将信雄の皆殺しの命に反して家臣たちには、村人を追い払うだけで殺すなと命令していた。相手を殺せば、結果として、それだけの代償を自軍の犠牲から払わなければならないと知っていたからである。  しかし順慶の心配をよそに、伊賀の国に四方から乱入した織田軍はさしたる抵抗を受けなかった。そして、十日もたたずに伊賀は制圧されてしまった。戦う伊賀の武将は少なく、その犠牲者の多くは農民であった。参陣した武将は奇妙に思いながらも、それほど気にかけなかった。伊賀の里は山奥の辺境の地であり、どの武将も欲しい領土ではなかったからである。伊賀を平定後、信長は伊賀四郡の内の三郡を北畠信雄に、残りの一郡を織田信包に与えた。   鳥取城  天正九年十月の初め、秀吉は本陣山というありふれた山上から、対面の山頂にそびえたつ因幡鳥取城の勇姿を眺めていた。  同じ光景が脳裏にはっきりと甦ってきた。あれは確か、三年前の上月城攻めであった。あの時と同じ中国の山並みではあったが、違いは毛利の旗指物は一旒も周囲には見えなかったことである。そして北方の山を越して、白い砂丘と青い海が広がっていた。  海上には前野将右衛門が手配した何百という軍船が、思い思いに羽柴軍の紋所を風になびかせていた。八月に応援に見えた明智光秀と長岡親子は毛利の救援がないということで、すでに帰国していた。したがって、秀吉以外の織田家中の旗は見えなかった。  秀吉は、解放感に満ちあふれていた。鳥取城とその出城である丸山城と雁金《かりがね》城の周囲約三里四方を、羽柴軍二万の兵が柵、堀、築地を造ってぐるりと囲んでいた。そして半里ごとに三層の櫓を築き、城兵が脱出できないように兵を配置していた。出城の尾根を越して、千代川が流れているのが見える。そして川岸の平地には、蜂須賀小六や黒田官兵衛たちが逆茂木《さかもぎ》や乱杭《らんくい》を打って包囲していた。  三年前、上月城に閉じ込められたのは味方であったが、今回は毛利の吉川経家と因幡の国人らを含めた千五百の兵を包囲していた。そして、鳥取の住民四千人も鳥取城に追い込んでいた。  祢の叔父である杉原家次は戦は下手だったが、百姓をうまく追い立てて、城に逃げ込まさせたのは杉原の手柄であった。城の蓄えの兵糧は、倍以上の速度で消えていた。  雪の降る十一月まで籠城すれば羽柴軍は撤退する、と読んでいた城主吉川経家は目算が狂った。雪が降る前に、兵糧を百姓たちが食いつぶしてしまったからである。  鳥取城の周囲では、鳥取の渇《え》殺しと呼ばれた地獄絵が繰り広げられていた。餓鬼のごとく痩せ衰えた百姓たちが城を出て、周囲の木草、稲株を取りあさった。柵から出ようとして手をかけて「引き出してくれ」と叫ぶ男女を、羽柴の兵は容赦なく鉄砲で打ち倒した。  恐ろしいことに、その倒れてまだ息のある者を、刃物を持った百姓たちが、食べられそうな部分の肉や関節を平気で切りとっていった。脳みそを食べるために、その頭を取り合って逃げ回っている餓鬼を見た羽柴の将兵たちは、あらためて人間の業の深さと恐怖を感じていた。  木枯らしが、安芸国の郡山全山に吹き荒れていた。いまにも雪が降ってくるような寒さを、吉川元春は感じていた。しかし、肌の寒さは胸のいきどおりと高鳴りで打ち消されていた。  元春は早朝、甲冑姿で馬に駆け乗り、一気に居城の日野山城から五里の道を駆けて毛利家の総本家である郡山城に着いたところであった。城はもと毛利元就の居城であったが、いまは毛利家を引き継いだ兄隆元が若くして病死した後、その長男輝元の居城となっていた。したがって、毛利家宗主とはいえ輝元はまだ三十歳にもなっていなかった。  元春は二十歳以上年下の優柔不断な甥の輝元に、今日は説教するつもりであった。息を切らせながら本丸に入った元春は、輝元の横に弟の隆景がいるのを見て少し驚いた。どうも輝元が頭の上がらない叔父に対抗するために、小早川隆景をあわてて呼んだようであった。  元春は苦虫をつぶした顔をしながら、隆景の前にあぐらをかいた。 「隆景、いつ参った」 「昨夜、三原より駆け参じた」 「隆景も同席なら、これは都合が良い。  輝元、鳥取の吉川常家をどうするのじゃ。吉川家としては、見殺しにはできもうさぬ」  するどい剣幕で話かける元春に、輝元は黙って下を向いたままであった。元春より三歳下の隆景が助け船をだした。 「兄上、秀吉は二万以上の軍勢でもう半年以上も取り囲んでおるが、城はまだ落ちていない。鳥取城は、力攻めでは落とせる城ではない。いま少し頑張れば、秀吉も兵を引こう」 「隆景、城の問題ではない。毛利家が臆病風に吹かれて、加勢の兵を一兵もださんというのが問題だと言うておるのじゃ。隣の羽衣石《うえし》城の南条勘兵衛がまた寝返ったら、因幡を失うことになるではないか。それでも、毛利としては加勢ができぬのか」  元春の言い分には道理があったが、隆景は頑固に断り続けた。 「小早川勢が備中を動けば、宇喜多が攻めかかってくる。秀吉はそれを待っている。わしは残念だが動けぬ」 「毛利はどうなされるのか。助っ人されるのか、それともここでお待ちになるのか」  輝元は丸く太った赤い顔をより赤らめたが、その大きな身体からは声が出てこなかった。 「よろしい。もう、毛利家には頼まぬ。元春一人で鳥取に参る」  そう言うと、具足の音を立てながら憤然と立ち上がった。具足なしで陣羽織を着たままの輝元と隆景は、黙って元春を見送った。  元春は郡山城の急坂を馬で駆け降りると、日野山城の留守番をしている長男の元長と三男の広家に使番を送った。日野山城では、吉川家の宿将口羽通良、熊谷元直らに率いられた六千の軍団が出陣に向けて待機していた。元春は、鳥取に向けて単騎先駆けを始めた。  しかし戦場ではすでに、羽衣石城の南条勘兵衛元続は羽柴方に寝返っていた。南条元続からの報告で吉川元春が来援することを知った秀吉は、すぐさま一万の兵を率いて羽衣石城に向かった。羽柴家の全軍に緊張感がみなぎった。三年前の上月城撤退のおり、羽柴軍は吉川軍によって熊見川で手痛い敗北を受けていただけに当然のことであった。  羽衣石城の近くの東郷池に面して、因幡から伯耆《ほうき》の国への街道が走っている。周囲一里ほどの池の西端に、高山と呼ばれる小山があった。秀吉軍はその高山に陣取って、吉川軍の到来を待った。なぜなら、高山がその付近では一番高い山であったからである。  高山から見える日本海は、荒れて白波が立っている。海から吹きつける北風は一段と厳しく身が斬られる痛さであった。秀吉は早く吉川軍が来てくれることを願った。この寒さの中では、身体を動かせる戦の方がずっと楽のように思えたからである。  十月二十五日、池の北岸に丸に三引両の紋を白黒の段々に描いた旗が多数見えてきた。待ちに待った吉川軍の到着である。  元春は秀吉軍が高山に布陣しているのを見て、自軍を高山の麓にある馬ノ山という所に留めた。馬ノ山というのは名ばかりで、ただ雑草の生い茂る小高い丘陵であった。  秀吉は、元春が馬ノ山で敷いた配陣を見て青くなった。馬ノ山の北面は海であり、後方は東郷池から流れる橋津川という川が流れている、三方を防がれた場所であったからである。  戦が始まって秀吉の軍勢が攻めた時、逃げる場所がない布陣であった。中国の古書に云う「背水の陣」の再現であった。おまけに元春は、渡ってきた橋津川の橋板を落とさせたのである。完全に死を覚悟しているのか、退く気持ちはないように見えた。  秀吉は、彼我《ひが》の戦力を冷静に比較していた。鳥取から連れてきた将たちはいずれも近江の衆の若手武将で力と意欲はあったが、まだこれといって大きな戦の経験はなかった。  秀吉は、自分の軍団の真の力を知っていた。それは、決して強くないということであった。いまでも鮮烈に思い出す戦があった。それは浅井、朝倉連合軍と姉川で戦った時のことである。  丁度、十年前の六月であった。姉川を挟んで織田本軍の二万三千と徳川家康率いる六千の連合軍と朝倉、浅井一万八千の兵が対峙した。深夜、信長は浅井勢が八千の寡勢と知り、徳川と織田との陣変えを急遽おこなった。  織田勢が、朝倉から浅井勢と戦うことになったのである。裏切った妹婿と戦いたかったのか、敵数が少なく容易に勝てると思ったのか、誰も信長の真意はわからなかったが、結果として急な陣変えは最悪の悪手であった。  秀吉は織田軍六段の構えの三段目に、三千の兵を持って待機していた。朝まだ暗い内に浅井勢が織田の先鋒坂井政尚隊に向かって、雄叫びとともに攻撃してきた。気がついた時には、二段目の池田信輝隊はすでに突破されていた。逃げてくる味方の兵と追いかける浅井の兵に巻き込まれて、秀吉の隊もすぐに壊滅状態になった。そして最後尾の六段目の佐久間隊まで、あわてて逃げた屈辱の戦であった。  一方、徳川の兵は織田に比べ強かった。朝倉の兵を押し破り、浅井の背腹を突いて、負ける戦を勝利に導いてくれたのである。しかし徳川のあの強兵を持ってしても、二年後に武田信玄と三方ケ原で戦い、総大将の家康が命からがら浜松城まで逃げ帰ったと聞き驚いた。また、織田家では一番強いと自慢している柴田勝家さえ、上杉謙信と加賀の手取川で戦い、兵を千人以上失う一方的な大敗を喫していた。  秀吉は長年の経験で、全国には戦に強い武将が数多くいるということを痛いほど知った。信長公も自分も戦には強くないということをよく知っていたが故に、策略と知恵でこの戦国の時代をここまで勝ち抜いてきたのだ。もし秀吉の軍が強兵であろうとしたら、いまの自分はあり得なかっただろうと、吉川元春の率いる兵を見ながら感じていた。  そこに黒田官兵衛が鳥取から、羽柴小一郎の使いとして現れた。 「今朝ほど鳥取城から、降参の申し入れが参りました。吉川経家ほか森下入道と中村春続の首を差し出すので、城内の将兵と百姓の助命を申し入れて参りました。いかが返答すべきかと」  秀吉は瞬間的に潮時と感じた。ここで即決しよう。信長公に許可を得ていては手遅れになる。目の前の敵を討つことよりも、鳥取の城を間違いなく落とすことが必定だと考えた。 「官兵衛、詫びを受け入れると経家に伝えよ。ただし、経家には腹を切らせるなよ。それから蜂須賀小六と木下家定に、羽衣石城と岩倉城の加勢を命じよ。城主の南条勘兵衛と小島左衛門には、くれぐれも城から出て戦うなと申し伝えよ」  秀吉は、すぐさま鳥取城へ取って返した。すでに、吉川元春と戦う気を無くしていた。もしここで戦い不覚をとるようなことがあったら、今までの苦労が水泡に帰すると感じていたからである。  高山に翻っていた大馬印の金の軍扇と朱の吹き流しが山を降りて、鳥取方向に去り始めた。秀吉が動いたのである。三男の広家が、 「父上、追いますか」 「鳥取で何か起きたとみえる。追っても無駄じゃ。われらの来るのが遅かったな」  元春は多分、経家が城を開いたのではないかと推測していた。しかし、よく今まで一人で堪えたと、礼を言いたい気持ちであった。  秀吉が本陣山の本陣に帰ると、すでにそこには吉川経家と森下道誉、中村春続の首桶が届いていた。三人の首を検屍しながら、弟の秀長に話かけた。 「戦は武士の習いとはいえ、二百日にわたる兵糧攻めは不憫なことであったろうな。飢えた城兵には食糧を与え、経家の霊を弔ってやれや」  秀長も秀吉の言葉に素直にうなずいて、安堵した顔を見せた。武士が戦わずに勝つことはやはり、気が重かったからである。しかし皮肉にも、飢えて餓鬼になった者たちは、与えられた粥を食べ過ぎて半数近くが逆に命を落としていった。  そこに、袰武者が岡山城からの伝令を伝えにきた。備中の小早川隆景が出陣した、との報告であった。秀吉は秀長に鳥取城の後始末を任せると、即刻、姫路に帰ることにした。万が一にも宇喜多家が寝返り、ふくを失うことを恐れたからである。   御幸《みゆき》の間  坂本城の中で一番良い部屋は「御成《おなり》の間」と呼ばれていた。主君信長公が坂本の城に見えた折に使う部屋として造られたもので、床の間には信長公自筆の掛軸が架かっていた。  光秀は、城持ちの大名にしてくれた主君の恩義に報いるためにも、当然のことだと信じていた。しかし御成の間を造ってから、かれこれ十年近くたったが、一度もその部屋は使われていなかった。  天正九年の暮れも迫った十一月七日、その日も当然、信長公は見えていなかったが、その年の口切《くちきり》の茶会に御成の間を使おうとしていた。茶会というよりも、妻ひろ子が死んで丁度、九十日目にあたっていたので、亡き愛妻のために追善供養の茶会を思いついたのである。生前、ひろ子と親しかった友人を呼んでいた。吉田兼和、津田宗及、長岡與一郎、連歌師の里村|紹巴《じょうは》の四人である。  一人、客人を待つ間、光秀は暗い気持ちで今はないひろ子のことを思っていた。なにか、心の中にぽっかりと穴が空いてしまった気分であった。ひろ子は、申し分のない良妻であった。常に自分のことを考えて尽くしてくれた。結婚直後に明智城が陥落して諸国流浪中、ひろ子は光秀の母の牧《まき》や幼い子供たちの面倒を一手に引き受けてくれていた。特に越前で朝倉家に志願しようとして主だった朝倉の家臣を汁事《しるごと》に招いた時には、自分の髪を切って酒肴の席を用立てしてくれたほど健気な女であった。  正直、苦労ばかりさせて、これから二人でのんびりと余生を送りたいと思っていただけに、愛妻に先立たれたことは大きな痛手であった。しかし、まもなく親しい友人が集まり、茶会が始まると、いつしか妻への悲しみも茶葉が湯に溶けるように柔らかくなっていった。  その日はなぜか珍しく、吉田兼和の気が高ぶっていた。光秀が問いかけると、 「他言は無用ぞ、皆の者。信長公は最近、御幸の間を安土に新築なされた。御存じかな」  光秀は、まだその存在すら知らなかった。 「御幸の間は、渡り廊下で安土城の本丸とつながっておるそうじゃ。屋根は総檜皮《ひはだ》ぶきで、殿中はすべて金の延べ板でできておる」 「それがどうした。天子が使われる部屋を黄金《こがね》で造って何が悪い」  紹巴が兼和を皮肉った。 「それはそうじゃ。しかし臣下の分際で御幸の間を使ったとしたら、どう思われます」  聞いていた四人の顔が変わった。四人の不安が的中したからであった。  光秀がしぼり出すような声で、 「それはまことか」  兼和は無言でうなずいた。兼和が御幸の間のことを知っているということは、当然天皇や公家たちも知っていると推測された。総見寺の御神体に続いて、信長公が何を考えているのか、またわからなくなった。  茶室の五人は無言で茶会を進めた。亭主の光秀は茶筅《ちゃせん》で濃茶《こいちゃ》を練りながら、一つの答にたどりついた。それは、ひょっとすると信長公は主上を無視なされている、あるいは必要ないと感じているのではないかということであった。  恐ろしい考えではあったが、それ意外に信長公の行動に思い当たる理由はないように思えた。光秀は、信長公と足利義昭との確執を思いだした。不遇を囲っていた義昭が晴れて第十五代室町将軍として征夷大将軍の宣下を受けた、永禄十一年十月のことであった。当日の祝い能興行の演目で、すでにいさかいを起こしていた。それからじつに六年間も二人は陰険に覇権を争った。  しかし今回の朝廷とのいさかいには、愚かでも信長公に味方する気持ちはなかった。光秀は若い日から、武士の棟梁は征夷大将軍であると信じていた。したがって、その官位を与えてくれる朝廷を飛び越える発想は夢にもなかった。官位の叙勲を受けるときも、朝廷には何の疑問も持たなかった。しかし、信長公は違う考えのようである。そう思うと、安土城の御幸の間には御簾は似合わないと勝手に想像した。  師走に入っても、まだ冬の寒さは都に訪れていなかった。各地の織田家の武将は、安土からの奇妙な話を聞いて戸惑っていた。信長公が各地の大名、小名から歳暮の祝儀を受けており、安土の城下は門前市をなすにぎわいだった、といううわさであった。  光秀も坂本城で、信長公のおかしな振舞いの話を聞いていた。歳暮のご祝儀は理解できたが、献上した銭を後向きになって白洲にばらまき、家臣や訪問者に拾わせているという話であった。  若き日にうつけと言われた信長を思いだした。当時のうつけは芝居であった。しかし今の主君が狂ったとは思われないので、やはりある目的を持ってうつけになられているに違いないと思った。光秀は、歳暮として丹波の名馬三頭に鞍、鐙《あぶみ》、轡《くつわ》をつけて進呈した。  十二月二十日を過ぎて、歳暮の挨拶に羽柴筑前守が播磨から安土に到着した。秀吉は剛毅にも子袖を二百献も女房衆に差し上げて、女たちを驚喜させた。そして誰もが驚いたことは但馬、因幡の銀山から取れた銀千枚を信長公に献上したことであった。  信長公は秀吉の忠義心を喜び鳥取城陥落の功績として、茶の湯の道具十二種を秀吉に贈った。  秀吉は十月の末に鳥取から播磨に帰る道、淡路島にある毛利方の岩屋と由良《ゆら》の城を摂津の池田勝三郎と一緒に攻め落としていた。それは、前々から三好康長と示し合わせた作戦でもあった。長宗我部元親に淡路島を占拠されないために先手を打ったのである。  歳暮のご祝儀で信長公の機嫌が良いのを見て、秀吉は思い切って切り出した。 「淡路の岩屋と由良城を攻め落としましたが、いかがすればよろしいか」  信長は秀吉の声が聞こえなかったように、平然と、 「筑前、大義であった」  そう言うなり、御奥に入ってしまった。秀吉も、あてがはずれて渋い顔をしたままであった。  同じ頃、坂本城の明智光秀の所に斎藤利三が四国から帰ってきていた。利三は元主君である長宗我部元親に呼ばれて、阿波の白地《はくち》城を訪れていたのである。白地城は土佐、讃岐、阿波の三国の接点に位置し、天正六年から長宗我部元親の阿波と讃岐侵攻のための戦略拠点であった。  斎藤利三は旅装を解く暇もなく、光秀の居間に伺候した。 「ただいま戻りもうした。元親殿は、筑前守の淡路攻めにいたくお怒りでござりました。それに、おおやけに織田家中の三好康長が岩倉城に立てこもり、長宗我部家に歯向かうとは合点がいかぬとも申されておりました。早速、惟任さまより信長公のご意見をお聞きして頂きたいとのこと、もともと四国のことはこの元親に切り取り御免を許されておるゆえ、信長公のご意向に拘らず、近々康長めを打ち取ると立腹されておりました」  黙って利三の言葉を聞いていた。いまや光秀には、はっきりと秀吉の意図が見えていた。あやつは三好を使って、このわしを牽制しようとしているのだ。  その時、使番が信長の小姓である堀久太郎、長谷川竹、両名から出された回状を持って部屋に入ってきた。早速、光秀がその書状の封を切った。 「正月元旦安土城にて年賀を許す、ただし各人祝銭百文を持参せよ」  天正六年以来、五年振りの安土城年賀会の開催であった。光秀に、四年前の茶会の感激がよみがえってきた。全国の大名、小名、商人、町人にもすべて年賀を許すという布れが通達されているようであった。  しかし光秀には、百文の祝銭の文字に不吉な予感を感じた。また、何かわからぬことを考えておられる。いつしか信長公がはるかな存在として遠ざかっていくことが、心に寂然として残った。   年賀の会  明けて天正十年の正月は快晴の天気であった。まだ日が明ける前から、安土に通じる道には人があふれていた。手に手に十|疋《ひき》の鳥目《ちょうもく》あるいは百文の銭を握り締めた人々が、安土城目がけて押し寄せていた。百姓、町人、小名たちにとって、天下人である織田信長の居城が見られるということは大きなあこがれであった。押し寄せる人々は、安土城内には金銀で飾られた絢爛豪華な品々があるということを知っていた。もしそれが一目でも見られれば儲けものと思って、押しかけていたのである。  京からの道の集団の中に、堺の会合衆である今井宗及、津田宗及、千宗易、山上宗二、今井宗薫の五名の駕籠も混じっていた。光秀があらかじめ五人のために警護の軍兵を数十人寄越してくれていたので、一行は多くの群衆に邪魔されることなく道を急ぐことができた。もし軍兵が群衆を追い払わなかったら、陽の高い内に安土に着けないほど道は大混雑であった。  一方、光秀は左馬助らを率いて、坂本の城から明智丸で出発した。朝靄の静かな湖面を五十挺の櫓で漕ぐ明智丸は一刻もたたず琵琶湖を渡りきり、安土山の下の船着き場に着いた。城のまわりはまだ朝霧に煙っており、人は警護の者を除いてあまり見られなかった。  大手門をくぐり本丸の控えの間に入ると、暗がりの中にはすでに先客が一人いた。それは松井有閑であった。信長公から本願寺の不届きを許されて、昨年の暮れから堺の代官を命じられていた。有閑はその恩義に礼を言うために、敢えて夜の明けぬ前からここで待っていたようである。光秀は笑顔で声をかけた。 「有閑どの、おめでとうござる」 「これは惟任さま、おめでとうござります。早々にお成りでござりますな」 「久々の年賀ゆえ、気がせいてな」 「さようでござりますな。わたくしめも、遅れてはいかんと思いまして」  光秀は有閑のそばに座った。 「つかぬことを聞くが、高野山で逃げたという荒木の残党は見つかったのかな」 「伊賀に逃げたことは聞きおよびましたが、残念ながらその後はつかめておりませぬ」  光秀は以前から村重や婿の新五郎の行方が気がかりであった。ひょっとすると有閑が知っているかもしれなかったので、いい機会と思って問い正したのである。 「村重は、いまはどうしているのかな」 「しかとは存じませぬが、毛利に身を寄せているようなことを聞いております。たしか得度して道糞と名を変えたとか」 「どうくん」 「道の糞と書くそうでござる」  光秀は、それを聞いて胸が痛んだ。村重を助けることができなかった心の疼きであった。そこに、次々と織田家の年賀の武将たちが入ってきた。いつしか、二人の話はそこで立ち消えになった。  安土城内の山の一郭にある総見寺に通づる道は群衆であふれ、その参賀の行列は一里とも二里とも続いているようであった。しかも多くの群衆は城の西側にある百々《どうどう》橋を渡って、急な坂道を総見寺まで登らなければならなかった。  橋を渡るやいなや、群衆は我先と駆け出して石段に突入した。後ろから蹴倒されて多くの参拝客が怪我を負ったが、喜び勇んだ群衆に倒れた者の悲鳴は後ろまで聞こえなかった。また、高く積まれた石垣が人の重さに耐えかねて、崩れ落ちた。その落ちた石につぶされて、死者まででる騒ぎであった。  総見寺の喧騒をよそに織田家一門の年賀の挨拶が、天主閣の下の白洲の広場で厳粛におこなわれていた。そこにはまず織田三位中将信忠を始めとする織田家の一門衆が最前列に立ち、その左右に織田家の大名たちが控えていた。  光秀は、到着順ということで、最前列で松井有閑とともに信長公の出を待った。織田一党の顔を見つめている内に、見慣れない一人の若武者の顔に出合った。その顔の面立ちは娘婿の織田信澄によく似ていた。たしか昨年の暮れに甲斐の武田家から戻られた、信長公の五男の勝長さまであろうと思った。武田信玄の養子から二十年ぶりに織田家に戻った勝長は、複雑な心境でこの年賀の式を迎えているだろうと推測した。  武田家の現頭領である武田勝頼が、勝長を織田家に返した理由は明白であった。それは勝頼が武田家の最後の存亡をかけて、近々戦うことをしめしていたからである。光秀は、今春にも武田攻めがあるなと感じた。  主だった織田家の武将では滝川一益、柴田勝家、羽柴秀吉の顔が見えなかった。光秀の左側後方に、安土居住の町衆に混じって、同じく堺の町衆の顔が見えた。津田宗及と目があって笑顔で挨拶を返した。宗及の隣に、光秀と同じ年頃の厳しい顔をした大柄な町人が立っていた。その男とは初対面であったが、いま茶道の新しい作法を考えて京で有名になっている千宗易であろうと見当をつけた。信長公も、その噂を聞いて年賀に呼んだものと思われた。  天主閣の高床の玄関口に、信長が京染めの金色の子袖を着て現れた。肩衣には、黒地に金刺繍の桐の紋が染められていた。信長公は、高い透る声で新年の賀詞を述べた。今年こそ天下の諸侯に織田家の勢威を見せる、という主旨であった。  挨拶が終わると、家臣の年賀は御幸の間でおこなうと小姓の森乱が大声で伝えた。しかし、白洲に集まった年賀者は去る前に信長公の前を通り、持参した百文の銭をその足元に置いていかねばならない奇妙な行事が始まった。  信長は視線を動かさずに、まるで仏像のように突立つたままであった。それは信長公を生神として崇め奉る行事のように、光秀には思えた。  織田家一族の年賀が終わった後、光秀と有閑が最初に御幸の間に通された。話に聞いたように、やはり金色の部屋であった。周囲の壁は金箔に絵が描かれ、天井は格天井でやはり金箔が張られていた。驚くことに、障子の骨、腰板には金の延べ板を貼ってあった。金具もすべて金の彫金彫りで、敷かれた緋色の毛氈《もうせん》と奇妙な対比を見せていた。正面の入口から二間奥に一段と高くなった御座があり、その雁木《がんぎ》棚の周囲もすべて金色であった。  御簾は巻かれており、信長が御座に置かれたポルトガル製の椅子に悠然と座していた。光秀と有閑が順番に賀詞を述べると、 「惟任、長宗我部元親に伝えよ。本年より、阿波と讃岐の仕置きは三好康長に任せる。元親には土佐と伊予を任せる、とな」  光秀は信長公の目の前で平伏しながら、わが耳を疑った。 「有閑、賀詞のあと千宗易とやらの作法を見たい。用意させておけや」  顔を上げ信長公を見ると、早く去れという顔であった。年始の客が続々と押し寄せており、ここで長居はできなかった。光秀は、何も言わずに退席せざるを得なかった。御幸の間を退出すると、一変に気が暗くなった。瞬間、斎藤利三に何と話そうかと思うと、また気が重くなった。  有閑が光秀の呆然とした顔を見て、 「惟任殿、お顔色が悪いようだが、何かお加減でも」  光秀は、首を振ってとぼけた。有閑はそのまま、あたふたと茶会の準備に本丸に通ずる廊下を駆け出して行った。  悄然とした光秀は、また一人で考え始めた。伊予と土佐を元親に任せると言っても、伊予の国はまだ河野氏などの豪族が敵対しており元親のものではなかった。信長公の言葉は、もとの土佐だけを治めよというのに等しかった。到底、血の気の強い元親が納得するはずはなかった。こんなことなら、無理をして年賀に来るのではなかったと思った。  開き直った光秀は、昼から開かれる茶会を急遽欠席して、すぐ坂本に帰ることにした。その日は、信長公の言動すべてが気になり不愉快であった。このような気持ちになったのは、仕官してから初めてであった。いま光秀は、死んだ妻に会いたいと無性に思った。ひろ子がいないことが自分にとってこれほど大きな痛手だったとは、想像もつかなかった。  その日、総見寺を訪れた参拝客は本堂の祝銭箱に百文を投げ入れた。本堂の中には、信長を似せて造られた木像が安置されていた。人々は訳もわからずに、総見寺に参ればご利益が有ると教えられていた。  京の正月は静かに始まっていた。年に一度くらい戦乱を忘れて過ごしたいと思うのは武士だけでなく、庶民も同じ気持ちであった。京の住民にとって有り難いことに、ここしばらく京の町には戦の匂いが感じられなくなっていた。  正月の三日、近衛前久の自宅に大納言の勧修寺晴豊と吉田兼和が集まっていた。座敷には正月の和んだ雰囲気はなく、なにやら真剣な討議がなされていた。  近衛前久が席の話を仕切っていた。 「御上は、もう堪忍できぬと申されておる。このままでは朝廷の存亡にかかわる、ともおっしゃておられる」  前久は天皇の信任が晴久よりも厚いらしく、天皇の御心を承けてより多くのことを知っていた。 「しかし、いまの信長に対抗できるというても、毛利か上杉、それに北条ぐらい」  晴豊が、力なく腕を組んだまま発言した。 「信長はこの春の武田攻めの準備をすでに命じておる、と聞いております。多分、武田も今度ばかりは勝ち目はありますまい」  兼和の情報は正確であった。すでに、武田攻めの総大将は中将織田信忠に命じられていた。 「さすれば、頼るはまた毛利かの。他に手だてはないのかのう」  前久が兼和と晴豊とに聞いた。 「奇手かもしれませぬが、伊賀、荒木の残党を使って闇討ちにするのはいかが」 「しかし善住坊《ぜんじゅぼう》のつてもありますからな」  晴豊は、十年前に千草山中で善住坊という鉄砲の名手が、信長をねらい撃ちして失敗したことを覚えていた。しばらく思案していた晴豊は、能吏らしく大胆な謀略をそこで提案した。 「織田家の重役の一人を寝返らせて、毛利と組ませる手はいかがでござりましょう」 「おもしろし。さりとて、そのような者はおるか」  前久は膝を晴豊にすり寄せた。晴豊の勧修寺家は代々、毛利家とは特別に懇意な関係を続けていた。 「思いつくは、ただ一人」 「うむ、まろにもあいわかったぞ」  前久は手で膝を打った。兼和も、その人物の名前は聞かずともすぐにわかった。奇抜ではあったが、名案であった。三人は、その者の名を出さずに謀議を続けた。それから高らかに酒を飲みかわし、正月を夜遅くまで祝うのであった。  正月二十日、吉田兼和は勇躍、坂本城に明智光秀を訪ねた。  それまで光秀は落ちこんだ気持ちを津田宗及や山上宗二らと茶会でまぎらしていただけに、兼和の訪問を心から喜んだ。二人は、親しく飲食を交えての歓談を続けた。光秀にとって、兼和は心を許せる数少ない友であった。 「惟任さま、一つ御願いがあります。これからお話することは、必ず内聞にしていただけますでしょうか」  夜が更けてから、兼和が冷えた酒を一気に飲みほすと真顔で言った。 「あらたまって何事だ。わしが信じられぬのか、兼和」 「滅相もないことで。じつは、この正月に近衛前久さまに呼ばれましてな。朝廷は、信長さまの御上に対する傍若無人の振舞いに頭を痛めておられます。そこで、何か良い知恵を惟任さまに聞いてまいれと言われましてな」  兼和の言葉を聞きながら、初めて信長公に対して不満をおぼえている自分にも気がついた。しばらく光秀は思慮していたが、 「兼和、わしは信長公の家臣だ。殿の不忠になることはできぬ。しかし、このままでは前久殿たちも御困りだろう」 「いかにも」 「そこで、これはできぬかな。天皇が誠仁親王に譲位される、そして信長殿を征夷大将軍に任ずる」 「なるほど。さすれば、両者の面目が立つというわけですな。さすがに十兵衛さまですな」  光秀は兼和に世辞を言われて、悪い気分ではなかった。自分でも、いい思案だと思った。  兼和が言葉を続けた。 「ところで十兵衛殿は、博多の商人の島井宗室を御存じか」 「名は聞いたことがあるが、面識はない」 「この春にはまた、筑前殿の中国攻めがあると聞いておる。毛利方の兵糧、武具一切はその島井宗室が仕切っておるんで、そなたが宗室と親しくなっていたほうが何かと好都合ではないかな」  兼和が何気なく持ち出した話は光秀にとっては意外であったが、意味の深い話であった。もし宗室と通じることができれば毛利方の情勢がわかることになり、秀吉に先んずることができるとも思った。また、長宗我部元親にも不義理を返すこともできるのではないかと先を読んだ。  兼和は光秀がまんざらでもないのを見ると、早くも五日後に島井宗室を連れて坂本城にまた顔を出した。  宗室は以前より一段と肉づきが良くなり、貫禄がある大商人になっていた。宗室はそつなく頭をことさら低くして、光秀に挨拶をした。光秀は、斎藤利三をその場に同席させていた。 「手前、毛利家の御用商人で島井宗室と申します。よろしくお見しりおきくださいんませ」 「うむ、惟任光秀だ。宗室とやら、そなたは安国寺の惠瓊を知っておろう。安芸におると聞いているが、しばらく会ってないのでな」 「惠瓊さまは、いま郡山におられると思いまする。筑前さまの備中攻めに備えて、御三家と打ち合わせに御忙しいとか」 「聞きにくいことだが、毛利はどう動く。筑前と戦う所存か」  光秀は、正月二十一日に秀吉が宇喜多家の重臣たちを引き連れ、安土城を訪問したことを知っていた。本格的な中国攻めを前にして、前年亡くなった宇喜多家宗主直家の後継を八郎にするためには、信長の許しが必要であった。それは、生母ふくのたっての願いでもあった。  信長は秀吉の願いを入れて宇喜多家を八郎が継ぐことを認め、名前も秀吉がつけた秀家を名乗ることを許した。重臣宇喜多忠家、春家らは黄金百枚をそのために事前に信長に贈呈していた。  秀吉の養子でもある宇喜多八郎が家督を継ぐことは、これで完全に秀吉が宇喜多家四十万石を手に治めたことを意味した。光秀はあせりを感じていた。 「はい、宗主毛利輝元さまは、本来戦が嫌いな御方でござりまする。しかし、吉川元春さまも小早川隆景さまも父上元就さまに似て、戦上手。今度ばかりは筑前さまも鳥取と同じわけにはいかんと思われます」 「さようか。宗室、そなたは商人ゆえ、敵味方の分別は商売次第と思われる。したがって、ここにいる斎藤利三の身内である長宗我部元親に少し肩入れをしてくれんか」  島井宗室に限らず、堺の商人も商売になれば敵味方を問わず、鉄砲でも、米でも売る時世であった。 「御易い御用で。何を御求めで」  斎藤利三が厳しい声で答えた。 「新式の鉄砲を百挺ほど、長宗我部家に売って欲しい」 「百挺でよろしいのか。千挺でもよかが」  宗室は黄色い歯を見せて、いやらしい笑いを浮かべた。利三は、毛利の敵である長宗我部家に平然と鉄砲を売る性根をつくづく卑しいと思った。  ともかく、明智家と宗室との商売が成立した。光秀は、信長公の長宗我部元親に対する不義の詫びとして、鉄砲百挺を贈るはめになったのである。元親は光秀の好意を多としたが、三好康長に阿波を返しはしなかった。四国には、信長の下知はまったく通じなかった。  数日後、光秀は兼和の提言にしたがって、思い切って信長公に拝謁を申し入れた。  その日、信長は安土城内の馬場で、奥州から贈られた数頭の二歳馬の調教に余念がなかった。風が強く、時折小雪がちらつく寒い日であったが、信長は額から汗をかいていた。  光秀は寒さをこらえながら、鹿毛の馬攻めが一段落するまで、馬屋のそばで待っていた。馬が白い息を口から吹きながら、中間に連れられて馬屋へ帰ってくる。信長は、白熊の腰蓑を着けたまま光秀に近寄ってきた。 「光秀、何用か」  光秀は立ひざをつきながら、 「内々、大納言より御話があり、天皇さまがもしも誠仁親王に譲位された折には、殿は征夷大将軍の官位をお受けになられるかとの、お伺いがござりましたので」  信長はしばらく黙ったまま、何も言わなかった。 「居間に参れ」  信長は、考えながら居間に向かった。  光秀が居間に入ると、信長はまだ着物を着替えずに立ったまま考えていた。 「惟任。武田攻めのあとに、御所にまいると申せ」 「ははー」  光秀は嬉しかった。自分の思いついた策が、信長公にも朝廷にも受け入れられたからである。すぐに吉田兼和に話さなければいけないと、気がせいた。間違いなく信長公にとって、天皇が親王に譲位されることは意味があるようであった。   武田自刃  その年の二月一日に、早くも織田と武田の戦が信濃の国境で始まった。信長は二月三日、全織田軍に出陣の布れを出した。事前に遠国の大名にも、武田攻めの合力を約束させていた。関東口からは北条氏政、駿河口からは徳川家康を同時に侵入させたのである。三家で武田家の領地を分割する予定であった。  信長の信濃出陣にあたり、その他の留守中の大名にも条書《じょうがき》の指示がなされた。 筒井順慶は大和の軍勢を率いて出陣 摂津の池田勝三郎は留守居し息子二人が出陣 中川瀬兵衛は出陣 羽柴秀吉は中国全域を担当 長岡與一郎は丹後の国の警護 息子忠興は出陣 惟任光秀は出陣の準備  光秀は、京に留まる唯一の織田家の武将であった。それだけ、今回の譲位の話が信長公にとって大事になっていることが自然としれた。  総大将の織田信忠は、信濃口から二万五千の兵を引き連れ侵入した。すでに武田家を見限った家臣団は織田軍に降参、逃亡、寝返りする者が相次いだ。重臣である信濃の木曽義政、駿河の穴山|梅雪《ばいせつ》が寝返ったことにより、あっけなく武田家は崩壊した。  三月十一日には、武田四郎勝頼親子は駒飼《こまがい》の山中で妻子と共に自決。ここに、甲斐の名門武田家は滅亡した。  三月二十九日、信長は諏訪《すわ》の陣中で各武将に所領の割り当てと恩賞を発表した。甲斐の国は川尻与兵衛に、駿河の国は徳川家康に、上野の国は滝川一益に、信濃の国は森長可らに与えられた。そして、各織田家の出陣武将は思い思いに帰路についたのである。  嫡男信忠は得意満面として古府《こふ》の武田信玄の館で父の到着を待っていた。古い信玄の館のほとんどは壊されて、白木も新しく普請されていた。そこに、信長の小姓でもあり、今回、信忠の旗本として参陣している長谷川|竹《たけ》が具足を身につけたまま現れた。 「武田の落人を恵林寺がかくまっておりますが、いかがいたしますか」 「応ぜねば焼き殺してしまえ」  信忠は父を見習ってか、ことさら残酷に冷たく言い放った。  竹は、軽挙で乱暴な命令に驚いた。恵林寺の快川《かいせん》長老は前年、天皇から円常国師という国師号を頂戴している高僧であった。信忠は、それでも構わぬと追討の奉行たちに命じた。結果として、十一人の長老と寺の老若男女百五十人が無残に焼き殺された。  信長は四月二日、諏訪から甲州に入った。恵林寺の国師を焼き殺したことを信忠から聞いても、まったく意に介しなかった。武田の縁者が何人殺されようと、もはや意味のないことになっていた。信長にとっての武田征伐は、長篠の戦いから七年もの間、武田家を生かしておいてしまったという自分の甘さの憂さを、晴らしている戦でしかなかった。  信長は終始上機嫌で、悠々と雪をかぶった不二の霊峰を見ながら馬を進めた。それは軍旅というより、物見遊山の旅であった。武田信玄の居城であった古府を見学した後、前からの約束である徳川家康の領国である駿河、遠江、三河を廻って帰国することにした。  家康は駿河拝領の礼を含めて、徳川家最大の歓待をする手配を始めた。  京の都に桜の花が咲き始める季節になっていた。吉田兼和は御所近くに咲き誇るしだれ桜の下を夜分通りながら、桜の花と同じように白く浮かぬ顔をしていた。惟任光秀が献策した、天皇の譲位と引き替えに信長に官位を与え臣下にするという案は、名案であった。しかし、肝心の天皇に誰が譲位の話をするかを、迂闊にも忘れていたからである。近衛前久も勧修寺晴豊も、御上に譲位の話をされるのは嫌がるに違いなかった。  兼和は思案していた。御上を納得させるには、何かもう一つ仕掛けが必要だった。桜の花びらが柔らかく兼和の頬を撫でて、路上に落ちた。散る花びらを見ながら、ある考えを急に思いついた。それは、考えるだけで鳥肌がたつ考えであった。  いまや信長にはっきりと殺意を抱いている自分を見出していた。最近の信長の言動は天皇をないがしろにするだけでなく、自身が神としてこの日本を統治するようにも思えた。信長が神になったなら、この吉田神道はどうなるのだ。祖先吉田|兼倶《かねとも》以来、百年に渡る日本神道の大元としての、神祇伯《じんぎはく》の地位が水泡に帰すという恐れを抱いた。それに何よりも、吉田家の財源になっている全国神社への神位、神号の授与の権利がなくなることが恐怖であった。  深夜近く、内裏と誠仁親王の二条御所の中間にある近衛前久の屋敷の門を兼和は叩いた。あたりに誰もいないことを見越して、素早く小柄な身を邸内に隠した。  前久は、まだ寝ないで兼和を待っていた。 「兼和、何かうまい考えを思いついたのか」  深夜にも拘らず、前久の声は相変わらず甘たるく高かった。 「これまでの御上の振舞いからみましても、意地でも譲位はなされますまい」 「あい、そうや」 「そこで、一計を案じて光秀に信長を討たせます。さすれば、御上も親王に譲位されますでしょう」  兼和の目が暗闇で鋭く光った。  それを聞いた前久は、細い目を一段と吊り上げて驚いた。 「なんとな。信長を討つとな」 「はい。毛利には、秀吉を撃たせます。さすれば、光秀は自然と天下取りになれまする。主殺しも嫌とは言いますまい」  兼和は、神事でも司どるように平然としていた。 「恐ろしいことやな」 「しかし、このまま放置すれば、信長は天下を取ったあと朝廷をも潰すやもしれません」  その晩、二人は大胆な謀略について合議した。前久が天皇に、信長廃位を前提に譲位を献策する。そして、勅命で光秀に信長征討を命じる。二人にとっては、命がけの謀議であった。二人の顔からは、笑顔がまったく消えていた。  兼和はその晩、近衛前久の屋敷に泊まった。帰り道、誰かに襲われるような気分がしたからである。冷たい蒲団に身体を入れて横たわると、最初に信長に会った時を克明に思い出した。忘れようにも忘れられない、恐怖の出会いであった。  丁度十年前の天正元年三月、当時の織田信長は正直、危急存亡の瀬戸際であった。上洛を目指した武田信玄はまず三河の野田城を落とし、家康の居城岡崎に迫ろうとしていた。  室町将軍足利義昭は信長と完全敵対し、それに呼応した朝倉、浅井、本願寺、近江の土豪と河内の三好義継、大和の松永久秀が同盟して織田家を裏切っていた。京を維持しようとしていた信長にとって、四面楚歌の状況であった。  そんな時、京で室町将軍と対決していた信長は、吉田神社の神官吉田兼和を知恩院に呼んだのである。 「足下の父兼右殿は南都北嶺《なんとほくれい》が滅びるとき、王城に祟《たた》りがあると言われたそうであるが、さようかどうか承りたい」  兼和は、厳しい目をした痩せぎすな武将に恐れを抱いた。その目は常人とは違っていた。何をするかわからない、緑色がかった目であった。まして二年前には北嶺の比叡山を焼き打ちしている人物だけに、なおさらであった。  兼和は、真実を述べることを躊躇した。ここで南都である興福寺と北都の延暦寺が滅して、もしも祟りがなかった時、逆に自分の首がなくなるのではないかと瞬間的に思った。 「父が申したのは、南都北嶺が共にあい果てるときには、王城にも災いが及ぶと申したまでで、祟りがあるとは言ってはおりませぬ」 「もっとも至極である」  信長は兼和の否定的な意見を聞くと、納得したように立ち去った。  そして信長は四月に入ると室町将軍を京から追い払うために、京の町の上京九十余町を焼きはらったのである。結果として、内裏と二条御所を残して京の町は丸焼けとなった。その時、近くの五十ケ村も合わせて焼きはらったのである。  多くの公家、町人は、兼和の卜占《ぼくせん》で町を焼かれたことを恨んだ。神官としての信用を失い、吉田神道にとっても大痛手であった。兼和は、もしも御所が焼けたときには、吉田山の自邸に主上を行幸奉ることまで、青くなって考えていた。そのとき以来、信長に対しては、深い恨みと恐れを抱いたのである。十年たったいまでも、その思いは少しも変わらなかった。  その頃、伊賀の里の桜の蕾はまだ固かった。いつしか伊賀に舞い戻った伊賀者たちは、織田家に対する復讐について寄り合いを重ねていた。  相変わらず、服部半蔵が会を仕切っていた。百地丹波が口髭を撫でながら、 「信長は四月の末には、駿河から安土へ戻ろう。安土に帰る前に襲わねば、難しかろう」 「そうはいかんぞ。細作の知らせでは、家康は大井川では水練の巧みな者を川の中に並べて、信長の馬を通したという。徳川の警護は万全のようじゃ」  半蔵が、ゆっくりと百地を制した。伊賀者の大部分は東国の情勢にうとかったが、一部の下忍はすでに徳川家の下働きをしていた。 「いずれ、信長は京にでてこよう。やるとすれば、京が一番じゃ」  長老の弥佐衛門が小さく呟いた。信長はなぜか前年の京の馬揃え以来、一年以上も京を訪れていなかった。全員、京なら土地勘もあり、警備も手薄なので、思いきり暴れられると賛成した。  弥佐衛門が煙管《きせる》を強く土間の縁に叩きつけたところで、寄り合いは終わった。   高松攻め  中国の四月は、さわやかに晴れ上がる日が多かった。羽柴秀吉の軍勢一万五千がまた西に向かって姫路城を出発した。侵攻先は備中の国である。秀吉率いる武将は、直参の同じ顔ぶれであった。羽柴小一郎、黒田官兵衛、蜂須賀小六、堀尾茂助、杉原家次が部隊長に任命されていた。この備中攻めに、まだ幼い十四歳の羽柴秀勝を初陣として参加させていた。秀勝は織田信長の五男であったが、天正八年に秀吉、祢夫婦の養子となっていた。  秀吉も、今度ばかりは戦をしなければ片がつかないと感じていた。鳥取攻めのように、毛利軍が傍観することはないと思っていた。備中は、れっきとした毛利家の領土であった。しかし毛利の正規軍と戦うには、秀吉の軍勢だけでは無理であった。まだ若い馬廻りの福島正則、加藤清正、木村隼人らでは、毛利三家と戦うには力不足に思えた。したがって秀勝を参陣させておけば、信長公の加勢が得やすいのでないかと考えた結果であった。  秀吉の配下に入った宇喜多勢が岡山から与力することになっていたが、当主宇喜多秀家が十歳とまだ幼く、直家の弟である忠家が五千の兵を率いて参陣していた。しかし、宇喜多勢がどこまで真剣に羽柴の与力として戦ってくれるか、秀吉にはいまいち自信がなかった。  もし羽柴軍の旗色が悪ければ、いつまた寝返るかもしれなかった。秀家が成人して名実ともに宇喜多家の宗主になるまで、母親であるふくが宇喜多家|帰趨《きすう》の鍵を握っていることを知っていた。閨におけるふくの痴態を見ていて、自分を裏切ることはないと確信していた秀吉は、宇喜多家中を刺激しないよう、秀家を岡山城にふくと共に留め置いた。  総勢二万になった羽柴軍が岡山城を四月二十一日、備中に向けて進発した。備前と備中の国境は、岡山城の西方一里に流れている笹瀬川である。備中の国境を守っているのは、小早川隆景軍の勇将高松城主の清水|宗治《むねはる》であった。高松城には、清水家総勢三千が城を固く守っていた。そして、国境沿いに七つの支城を有していた。  意気軒昂な秀吉軍は満を持して、笹瀬川を一気に押し渡った。そして高松城の北方の足守川沿いに位置する、付城の一つである宿面塚《すくもづか》城を激しく攻め立てた。百人に満たない城兵はすぐに降参して城を開き、そのまま本城である高松城に逃げ去った。  高松城は、珍しく深田に築かれた平城であった。周囲には深い沼田がひろがり、城の大手門に通じる道は、騎馬一頭がかろうじて通れる細い道しかなかった。  近くの立田山の上から高松城を見下ろして、秀吉はあらためて、いやな城だと感じた。瞬間的に、清水宗治という武将の性格が理解できたからである。伝統的な古武士だろうと思った。生半可な調略は効きそうもなかった。戦を仕掛けても自軍のかなりの痛手を覚悟しなければ、降伏はさせられないと思った。高松城をいかに落とすかよりも、間違いなく後詰めに来る毛利三家とどう戦うかが問題であった。  味方はわずか二万、毛利三家が加勢にくれば不利であった。旗下の軍勢だけでは、到底勝ち目がないことを覚っていた。いかにして織田家の応援を仰ぐか、それも、自分の手柄になるような形で呼ばなければならない。信長公は手柄をたてない武将には恩賞を与えないことを、よく知っていた。ここは知恵を出さなければならない、と思った。  近くに控えていた小姓の石田佐吉に、黒田官兵衛を呼べと指令を発した。知恵袋である官兵衛であれば、何かいい知恵があるだろうと思った。  その日、三原城の小早川隆景は出陣の用意に忙しかった。毛利の先鋒として、高松城の加勢に出かけなければならなかった。隆景も今度ばかりは、兄の元春に言われるまでもなく、戦う積もりであった。備中は、昔から小早川家の領土であったからである。  具足をつけている時に、島井宗室が見えたことを小姓が告げた。この時分に何事かと思ったが、そのまま居室に通せと命令した。  宗室が、足早に入ってきて頭を下げた。隆景は、黒糸おどしの腹巻を身につけたところであった。胴には、白抜きの小早川家三頭巴の紋所が見える。 「宗室、何事だ」 「これは出陣のおり、御邪魔して申し訳ござりませぬ。良い知らせを、早めに御知らせしようと思いまして」  隆景は、あらためて宗室の黒い顔を見つめた。回りの供侍たちを目くばせで、その場から去らせた。 「じつは今月、長宗我部家に鉄砲百挺をお売りしました」 「なに。宗室、それがどうして良い知らせか。阿呆を抜かせ」 「まあ、終わりまでお聞きくだされ。このご注文は、じつは明智惟任光秀さまから頂いたものでございまして」  宗室の口から出た言葉が信じられなかった。いまや長宗我部元親は小早川家と戦うことよりも、織田家の三好康長と競って阿波、讃岐で戦っていた。光秀が元親に肩入れすることは、そのまま三好の背後にいる秀吉と対立する構図になっていた。 「宗室、光秀とはおうたのか」 「御意。こたびの筑前との戦の前に、この話が何か御役に立てばと思いまして」  織田家の中で内輪争いはあったとしても、光秀が敵方の商人である宗室に銃を注文するとは、只事とは思えなかった。隆景は宗室に答えず、小姓を呼んだ。 「井上光兼と杉原盛重に即刻、高松に先陣せよと伝えよ。わしは明朝、出立するとな。それから、安国寺から惠瓊を至急呼べ」  隆景は何か思いついたのか、己の出陣を急遽延ばした。惠瓊は京の東福寺からまた安芸郡山に戻り、安国寺の法主《ほっす》になっていたからである。 「宗室、惠瓊が来る迄待っておれ」  秀吉の備中攻めは、嵐のように大きな風の流れをあちらこちらに作り始めていた。  坂本城の二階の居間からは、からたちの花が小坪に白く咲いているのがよく見えた。光秀は、このわずかな間しか咲かない、地味な花木がなぜか好きだった。自分の性格によく似ているからかも、と思った。  今日も兼和が来ていた。最近、頻繁に自分を訪れてくる。一つは島井宗室を通じての中国の情勢、それに朝廷との譲位に関する話し合いのためであった。 「兼和、徳川家康殿が来月の十五日に、答礼のため安土に参ることになった。信長公は、わしに接待役を命ぜられた。したがって、殿の上洛はそのあとになろう」 「さようでござるか。前久さまは征夷大将軍の宣下の御許可は頂いているようなのですが、御上の譲位に関してはまだ何もおっしゃておられません。困りましたな」 「譲位の話が成らねば、わしの首は飛ぶぞ、兼和」  光秀の顔つきは真剣だった。光秀自身が信長公に献策した以上、責任は取らねばならなかったからである。 「秀吉が高松城を取り囲んだそうで、小早川の軍勢一万三千が先鋒で加勢に出発したと、宗室が知らせてまいった。おっつけ本家輝元、吉川家も応援にくるそうじゃ」  兼和は譲位の話をずらそうと、高松攻めの話をし始めた。 「筑前だけで支えられるかな」 「それはできんだろう。それはそうと、宗室が毛利の惠瓊から奇妙な話を聞いたそうじゃ。もし、そなたが織田の加勢をおくらんようにしてくれれば、毛利は味方についても良いといっているそうじゃ」 「兼和、それはどういうことだ」  光秀は、改めて惠瓊の真意を問いただした。 「毛利は織田に頭を下げても良いと思っているが、筑前だけは許せぬということだわ」 「兼和、宗室はたしか楢柴《ならしば》の茶入れを持っておったな」 「いかにも。それがどうした」 「その茶入れを、信長公に献上できんかな」  今度は、光秀の真意がよくわからなかった。 「さすれば、信長公のご出馬を遅らすことができるかも」 「なるほど」  兼和は光秀の思惑を知った。楢柴は日本三大名器の一つである。それを信長公に献上するといえば間違いなく、戦よりも楢柴を優先するに違いなかった。 「よいか、信長公の上洛までに天皇の譲位を決めるよう、近衛殿によくお頼みしてくれ」 「わかった。して、上洛はいつごろになるのかな」 「多分、六月初めになるだろう」  光秀にとって、大きな人生の転機が訪れようとしていた。足利義昭に仕えながら信長に仕え、そして義昭を将軍にさせ、またその将軍を追い出すことで現在の地位を掴んできた光秀であった。現天皇を譲位させるという途方もない大仕事が、目前に迫っていた。成功すれば、信長公からも誠仁親王からもより良い寵愛を頂けることになると、胸はふくらんだ。  それに、今日の兼和の話は願ってもない話であった。加勢を遅らせることで毛利が秀吉を討ってくれれば、一気にここ数年の憂鬱が吹き飛ぶことになる。間違いなく、織田家臣の頂上に立つことができよう。そう思うとまた、昔味わった血の高ぶりを久し振りに感じていた。  坂本城の帰り途、吉田兼和の顔は光秀に比べてさえなかった。輿に揺られながら、島井宗室と近衛前久にどう言おうかと案じていた。宗室は惠瓊から、秀吉への後詰めを遅らせられないかと打診しにきただけで、毛利が織田に頭を下げるなどという話ではなかったからである。思いつきで光秀に口をすべらしてしまったことを悔いた。  それに商売人の宗室が何の見返りもなく、大事な楢柴を献上するはずがなかった。それにしても前久殿の話も歯切れが悪かった。御上に信長征伐の勅命の話をしたのかどうかも、よくわからなかった。万一、天皇が譲位に同意なさらないと、光秀は窮地に追い込まれると感じた。  それに光秀の態度をみていて、恩のある主君信長を討てとはどうしても言えなかった。兼和は頭が混乱し始めていた。自分だけでは処理ができないと思った。輿の揺れが船揺れのように思え、気持ちが悪くなっていた。  高松城には四つの大きな支城があった。城の東方の抑えとして冠山《かむりやま》城と宮路山城、西方に加茂城、そして城の背後を流れる足守川を渡った所に日幡城があった。秀吉は毛利の援兵が来る前に、まず一番手前の冠山城を攻めることにした。宇喜多勢の力をみるために、忠家に冠山を落とすように命じた。  そして秀吉は、その戦いをもう二刻も前から本陣の平山で眺めていた。冠山城は小さな出城ではあったが、石垣と土塀がうまく配置され宇喜多勢の攻撃を耐え抜いていた。  宇喜多勢が真剣に戦っていないのを感じて、秀吉はいらついていた。宇喜多勢は三倍近い千五百の兵で城を包囲攻撃していたが、いまだに城内に突入できないでいた。ある意味では、無理もなかった。宇喜多家と清水家は隣接しており、親戚、縁者も両軍の中には多かったからである。真剣に攻撃させるきっかけが必要であった。  秀吉は加藤虎之助を呼んだ。虎之助は今年二十歳になり、黄袰の武者として取り立てていた。虎之助は秀吉の母、仲の親戚にもあたった。 「虎之助、供廻り百名を与える。あの冠山城に一番槍をつけてまいれ」  若い虎之助は、感激で耳朶《じだ》まで赤くして喜んだ。それは、若武者の虎之助が家臣を預けられた初陣でもあったからである。  虎之助は二日前、上司の蜂須賀小六に物見の同行を命じられた。足軽を連れない小六に虎之助は不安を抱いたが、小六は意に介しなかった。案の定、木立の中にひそんでいた敵の伏兵二十名ほどが現れ、二人に襲いかかってきた。虎之助は手元の弓を馬上から矢継ぎ早に放った。最初から敵がいると感じていただけに、落ち着いていた。距離が近かったせいもあり、矢は二人を見事に仕留めた。  相手がひるんだと見た虎之助は、そのまま馬を突進させた。六尺を越える長身の虎之助は六尺の槍柄に、二尺二寸の両刃をつけた十文字三日月と言われた長槍を愛用していた。一人の雑兵に虎之助は目星をつけると、敵の槍が届く前に鐙から立ち上がり、長槍の刃で雑兵の首もとを横に払った。あっという悲鳴とともに、雑兵は血を吹いて倒れた。その間に、他の敵兵は虎之助を恐れて、逃げ去った。  その日蜂須賀小六から報告を受けた秀吉は、虎之助を呼んで砂金を一掴み与えた。秀吉は、誰よりも身内の人間が手柄を立てることを素直に喜んだのである。  虎之助はいつも慎重であった。隠れる場所もない平地で待ち構えている敵に突進するほど、無謀なことはなかった。虎之助は預かった馬廻りの武者八十名に、城の前面を百町ほどの距離で駆けさせた。城兵の注意を、それに引きつけさせるためであった。  何人かの騎馬武者が鉄砲の充分届く五十間ほどの距離に近づき、城の守備兵に悪口雑言を吐きかけて挑発した。守備兵は挑発に耐えられずに、騎馬を目がけて鉄砲を撃ちかけた。しかし、なぜかどの鉄砲玉も騎馬武者を落とすことができなかった。  その間に、虎之助は残りの二十名を率いて城の裏手に廻った。馬を降りると、干し草を身に纏い匍匐《ほふく》前進して城門にたどり着いた。運よく城内の人間は皆、大手門に気をとられ、虎之助たちの接近に気がつかなかった。  一団は一気に石垣を駆け上り、城内に飛び降りた。数名の敵兵が気がついて討ちかかってきたが、応戦する間に虎之助は裏門を開けさせたのである。門が開いたことを知るや、前面で挑発していた騎馬隊がそのまま裏門から城内に突入した。一度破られると、守兵は弱かった。宇喜多の軍勢が一気に城目がけて、全方位から攻撃を開始した。  秀吉は、虎之助の戦いを見つめながら大満足であった。約束通りの一番槍を虎之助は果たしたからである。  冠山城が落ちて火煙が上がるころ、官兵衛が秀吉に近づいたきた。 「殿、小早川の先鋒が見えます」  官兵衛の指指す方向に、高松城とその背後にある日差山《ひざしやま》が見えた。いつしかその日差山に、見慣れた三頭巴の紋所の旗と、一品《いっぽん》の赤旗の幟が一本、二本と数を増していた。秀吉は身震いがした。いよいよ、毛利との戦が始まるのである。 「官兵衛、敵の勢力はいかほどか」 「しかとはまだわかりませぬが、小早川隆景、吉川元春がそれぞれ一万、毛利の本軍は二万以上と思われます」 「ことだな。加勢が来るまで時間を稼がねばならぬ。何か思案はないか」  官兵衛は、黙ったまま天を仰いだ。空はいつしか曇って、曇天が空を黒く覆っていた。 「殿のご運が良ければ、水攻めにできるかもしれませぬな」  雨粒が秀吉の頬を打った。 「水攻めとは」 「宇喜多の家臣明石景親の献策でござるが、城の背後を流れる足守川《あしもりがわ》から水を引いて高松城に流せば、城は川よりも低いためすぐに水田に変わるとのこと。城兵も毛利の援兵も、どちらも合力できますまい」 「なるほど。やってみるか」  秀吉はしかと手を打った。二人が一番恐れていたことは、高松城に毛利の援軍が入城することであった。包囲している羽柴軍が城を中心に、両翼の毛利軍によって逆包囲されることになるからである。  近々、信長公は家康殿の接待で忙しくなる。誰も、中国攻めにはかかわっていられないだろう。いづれにしろ一ケ月間は毛利の攻撃をここで食い止めなければならないと、秀吉は考えていた。 「官兵衛、水攻めの工事は小六に任せよ。忠家には、水がたまるまで手勢をだして、高松城から清水宗治を出さぬようにせよと命じよ。それから、佐吉と行長に命じて、姫路までの道々に早馬と食糧を用意させておけ。加勢がいつでも通れるようにしておくのじゃ」  秀吉は加勢が来る道よりも、内心は撤退のことを懸念していた。姫路までは四昼夜の距離である。万一逃げる時には遠すぎるのである。 「官兵衛、清水宗治には備中一国を与えるゆえ織田に同心せよと誓書を送れ、それと、加茂城と日幡城にも調略の使いを送れ」  秀吉の指示は的確であった。官兵衛も、毛利と戦わずに勝利をおさめることを、秀吉と同じように考えていた。そのためには、どうしても高松城を落とす必要があった。   焦 燥  京の都は梅雨に入っていた。例年よりも雨の日が多かった。道は常にぬかるみ、人々は表に出る度に泥でひどく汚れた。  吉田兼和と近衛前久は毎日のように密談を重ねていたが、事の進展が思ったようにいかず、このままではえらい事態に成りかねなかった。今日も兼和は雨が降る中を、前久の自宅を訪れた。日中とはいえ、部屋の中はえらく暗かった。 「近衛さま、その後、御上は何と申されておりますかな」 「一昨日、信長の武田征伐戦勝を祝って、山科言経に佐五《さご》の局《つぼね》と阿茶の局をつけて安土へ下向させたと、大納言晴豊から聞いた。晴豊は、とりあえず征夷大将軍の官位宣下の意向打診に遣わせたといっておる」 「それで、譲位の件はなんと」 「御上は、信長が官位をおとなしく受けることが先で、譲位は御上自身決めること。信長に指図される謂れはないと、昨日申された」 「左様でございましょうな。それで、勅命の話はなされましたか」 「うむ」  前久の顔は浮かなかった。兼和は厭な予感がした。 「信長を討つ謂れも、今はないとも申された」  天皇の御言はもっともであった。二人の考えは、いずれも暗礁に乗りあげた。 「じつは惟任の話では、信長公は来月初めには上洛なされる予定とか。譲位の話がないとすると困りましたな」 「また、何をするかわかりませんな。ああ、恐しや」  前久はその昔、十四代将軍足利|義栄《よしひで》につき、十五代将軍になろうとしていた義昭と争ったことがあった。しかし、義昭が信長の応援を得て上洛を果たし、義栄と前久は都落ちをせざるをえなくなった。それ以来、前久にとっても信長は不倶戴天の敵となっていた。石山本願寺の焼け跡で、信長に「わごれ」と頭ごなしに怒鳴なれ、えらく折檻された恐怖をまた思いだしていた。 「じつは博多の島井宗室から、楢柴の茶入れを信長に献上するという耳寄りな話がありましてな。それで、信長にお茶を濁させられますかな」  兼和は正直あせっていた。どこかで落ち所を探さねばならなくなっていた。  五月初旬、光秀は船で安土城に伺候した。一つは徳川家康の安土上方訪問に際し、どのような接待をしたらいいか直々に信長公に聞くためであった。それと、その後の上洛の打ち合わせをしようと考えていた。  久し振りに快晴の琵琶湖を心地よい風をうけながら、対岸の安土を目指して船を進めていた。かたわらに控えていた斎藤利三が、やはり涼しげな顔で光秀に話かけた。 「元親殿より、鉄砲の礼が参りました。ついては筑前殿が備中に攻めかかるは長宗我部家にとっては良きしるし、今ならば伊予も讃岐もどちらも取り放題。殿のお考え通りに攻めましょう、と聞いてまいりましたが」  利三の言葉は刺激的であった。確かに小早川家も備中の守りに手一杯で、とても四国までは手がまわらないはずであった。元親の言うように、今ならどちらにでもたやすく攻めかかれると思えた。 「利三、事は明智家にとっても肝心な時である。元親には讃岐を先に攻めよと伝えよ」  元親を利用して、まず秀吉の影響を四国から排除することが賢明な戦略だと考えていた。しかし、事は秘密を要する。他の織田家の諸将などに露見したら、一大事である。 「相わかりました。内密に元親殿に御伝え申します」  光秀は、良い家臣を持ったと思った。まだ仕えて日が浅いにも拘らず、利三は完全に光秀の気持ちをくみ取ってくれていた。  光秀は、信長公の前にひざまずいた。信長は、久方ぶりにのんびりと御座に座っていた。 「惟任、家康と穴山梅雪が今月十五日に安土に参る。ひとかどの馳走を致すがよい。街道の大名には道をつくらせ、しかと振舞をさせよ」 「いかにも承りました」 「それと、四国は信孝に渡すことにした。筑前も、中国攻めで忙しかろうからな」  光秀は、信長公に自分の考えが漏れたのかと一瞬驚いた。秀吉が四国に手出しできなくなることはよかったが、元親に今度は織田信孝と戦わせることになる。しかし、なぜか、思い直す気持ちが起きなかった。このまま、元親に伊予と讃岐を攻めさせようと思った。 「殿、して上洛はいつなされますか」 「御所が譲位されれば上洛してもよいが、当分は家康の接待で忙しい」 「官位の件はいかがなされますか」 「余はもう、朝廷の官位などいらんぞ。天下統一の後は、この信長が与える」  光秀は信長公の平然と語る言葉を聞いて、愕然として頭をたれた。もはや、自分の画策など何の意味も持っていなかった。信長公は、毛利を破った後は朝廷を完全にないがしろになされるおつもりだ。頭が混乱してそれ以上考えられなくなった光秀は、そのまま早々に退出した。  羽柴秀吉は吉川軍が到着してから、本陣を立田山から後方の石井山に後退させた。高松城の背面の山々には、小早川家と吉川家の旗指物が翩翻とひるがえっている。  吉川元春は、高松城のすぐ背後の寺山といわれる小山に陣を構えた。そして小早川隆景は元春に正面の戦線を譲り、加茂城と日幡城の背面の日差山に陣を移動していた。  秀吉は恐怖を感じていた。間違いなく、戦がひらかれれば負けると思った。兵力、気力、地の利、すべての面でいま戦えば毛利三軍に負ける。仮に吉川、小早川軍と互角に戦っても、猿掛山《さるがけやま》から毛利本軍が駆けつけたらとても支えられないと、改めて不安を感じていた。  数日前、秀吉は宇喜多軍に高松城を攻めさせてみた。しかし、城から打って出た清水軍は背後に味方がいるという安心感からか勇敢に戦い、あっという間に千名近い宇喜多軍を蹴散らした。宇喜多の侍大将花房正成は、数百の死傷者をだして大敗を喫した。  秀吉は宇喜多軍が逃げ回っていても、加勢の兵を出さなかった。もし自分が動けば、ただちに小早川、吉川両軍が山を降りて攻めかかってくることを恐れたからである。  しかし、運は秀吉に味方していた。黒い雨雲から、激しい雨がきりなしに降っていた。蜂須賀軍が地元の百姓に土俵を積ませて城の周囲に堰を造っていた。それはまるで黒蟻の大群のようであった。工事は、土俵一俵を運ぶごとに、銭百文と米一升与えるという大盤振舞いで、予想以上に進んでいた。  いまは足守川に造った堰から流れ込む水と降りしきる五月雨が、急速に高松城の周囲の田畑を浸水させていた。もう、水浸しの泥土は馬は勿論、兵も満足に歩けないほどぬかるんでいた。  同じ頃、猿掛山の毛利の本陣では軍議が開かれていた。毛利輝元を中心に吉川元春、小早川隆景、宍戸隆家、福原元俊、熊谷信直らの毛利一門、譜代の諸将が集まっていた。それに特別に軍使として、安国寺の惠瓊が末席に参加していた。 「この度の戦は毛利一門の総力を挙げての戦いである。よろしく、織田の軍勢を毛利家の領土より追い払うことを議せられたい」  毛利宗家を代表して輝元が甲冑姿で、至極もっともな口上を述べた。その後、各将がそれぞれに思うところを述べたが、論議が百出してまとまらなかった。  問題は、いかにして織田信長の加勢が来る前に羽柴軍を叩くか、という論議であった。まだ高松城が水没するということを、誰も予見できていなかった。軍議は、結論がでないまま取り敢えず終わった。その夜は雨足がひどく、両軍とも動けないだろうと、皆近くの寺に泊まることにした。  隆景は、惠瓊を近くの方丈に呼んだ。 「惠瓊、このままでは先手がとれない。何かいい思案はないか」 「この雨が続けば、ひょっとすると高松のお城は、水の中の浮き城になるやもしれませぬな」 「そうか、それは気がつかなかった」  事実その夜、闇夜と雨に乗じて秀吉は堰を切らせた。土俵がうまく土手になり、足守川の水は濁流となって高松城に向かって流れ込んだ。あたりは一瞬にして湖と化していった。 「惠瓊、筑前の動きを見るとどうも加勢が来る迄、持久戦に持ち込むようじゃ。織田の加勢が来てからでは面倒になる。今の内に、秀吉に手を出させることはできぬかな」 「羽柴秀吉は利口もの、負け戦になる戦いは仕掛けませぬ。隆景殿、このさい逆に謀略を仕掛けてはいかがでござりましょう」  隆景の目が、燭台の灯に光って輝いた。 「どうするのだ」 「宗室が京と連絡を取ったところ、事と次第によっては、光秀は織田の加勢を遅らせると申しておるそうです」 「その、事と次第とはなんだ」 「毛利が筑前を討つ、ということでござる」 「なるほど」  隆景も、光秀の魂胆が見え始めた。織田の加勢を遅らせて、毛利に秀吉を討たせる。手つかずして、漁夫の利を光秀は占めることができる。 「しかし、それでは光秀め、虫が好すぎるではないか」 「左様でござります。しかし、光秀はもともと室町将軍を裏切って出世してきた男、一度裏切った者は二度目も裏切ります。したがって当家としても光秀を裏切り、秀吉にこの策略を教えまする。さすれば、秀吉は怒り狂って兵を引きますでしょう。その時は秀吉を逃がしてもよし、討ってもよしでござらんか」  隆景は苦笑した。人の道を教える高僧がこれほど人が悪いとは、信じられなかった。 「惠瓊、お主も人が悪いのう」 「謀略とは知謀知略《ちぼうちりゃく》の訳でござります。人の欲がすべてを狂わせます。欲がなければ、惠瓊の話にも乗って参らぬはず。しかし、光秀も秀吉も欲の固まりでござる。針の餌に食いついてくる腹のへった魚」  隆景は笑えなかった。多分、餌を投げれば両者とも食いついてくるだろう。織田家の龍虎が戦えば、毛利は楽になる。当分、中国攻めを信長はできなくなるだろう。荒木村重の時よりも、大きな魚がかかりそうであった。  京の町は小糠雨《こぬかあめ》で濡れていた。兼和は雨が本降りになる前に、安土にいる光秀のもとに着きたかった。  安土に着いた時には、日は暮れて暗くなっていた。雨は相変わらず、しとしと降り続いていた。光秀は、家康の宿舎になる大宝坊と呼ばれる寺院で準備に忙殺されていた。通された部屋は、金箔貼りの襖絵の部屋であった。絵には、あやめが描かれていた。ろうそくの灯で金箔が光っている。兼和は、襖絵に顔をつけながら話かけた。 「これは狩野の誰が書いたのかの。丁度、季節に合っておるわ」 「狩野永徳を通じて手に入れさせた。なかなか立派なものだ。兼和、ちょうどよいところに見えた。家康殿に食べて頂く献立を味見するところだった。一緒にどうだ」  光秀の前には三十皿近い料理が所狭しと、膳の上に置かれていた。 「これはかたじけない。それではご相伴となるかな。ほう、これは鮒の膾《なます》のようだな。珍味じゃ。こちらは串鮑かな。うまそうじゃ」  その晩、献立の料理を見立てながら、いつしか二人の話は楢柴になっていた。  その日の早朝、島井宗室が楢柴を博多の自宅から船便で取り寄せたことを知らせてきていた。 中国で戦が始まり、いつ茶入れを運べなくなるかわからなかっただけに一安心であった。 「惠瓊と宗室が話をしたそうじゃ。毛利は光秀殿の力添えに感謝して、宗室に楢柴を献上させることを納得させたようだ。その代わり宗室は己が信長公に献上する故、必ず日時を知らせよとしつこく聞いてまいった」 「楢柴をうまく使わねばならぬな」 「ここは、近衛前久殿からうまく信長公にお話頂こうと思っておる。どうせその折、宗室は楢柴の損を織田との商売で見合わせるつもりじゃろうが」  兼和は宗室を皮肉った。しかし光秀は、兼和の話に気乗りしない顔でいた。 「兼和、それはそうと、わしはもうそろそろ隠居でもしようと思うてる」  光秀が、急に落ち込んでため息をついた。 「十兵衛、どうした。まだ若いのに、しっかりせよ」 「兼和、殿はもはや御上を必要とはしておらんよ。征夷大将軍の官位もお受けにならん。毛利征伐が終わった後は、ご自分で官位を与えられるそうじゃ」 「まことか、光秀」  兼和は、光秀の言葉を聞いて驚愕した。しかし、話す時期が遂に到来したと思った。あたりを見回して小声で話かけた。 「光秀、勅命があれば、主君でも討つことができるか」  気落ちしていた光秀の目が急に鋭く輝いた。 「何と申した、兼和」 「朝廷をないがしろにする者を討っても、不忠にはなるまい」 「勅命が出るのか」  兼和は黙ってうなずいた。それっきり、光秀も話をしなくなった。燭台の灯が大きく揺れて、襖のあやめが風に吹かれて揺れているように見えた。  明日五月十二日は信長公の誕生日である。また、安土は群衆であふれるだろう。神か、光秀は心の中でつぶやいた。   上 洛  天正十年五月十四日の早朝、徳川家康は家臣百名ほどを連れ関ケ原の峠を越そうとしていた。晴れ上がった空のきれるところに、伊吹山の雄大な姿が見えた。  家康は当年、四十歳になっていた。思えば元亀元年の浅井、朝倉攻め以来の上方訪問で、数えてみれば十二年振りであった。あの頃は若かったせいもあるが、琵琶湖周辺の景色はほとんど覚えていなかった。  越前金ケ崎でも、姉川でも死ぬ瀬戸際であった。信長公の強運がなければ、今ごろこんなにのんびりと物見遊山の旅などできていなかっただろうと述懐した。あの時は、家臣たちも鬼のような形相をしていた。しかし今回、供として連れてきた石河数正や酒井忠次たちも、新参の穴山梅雪らと談笑するなど、ゆるやいだ気分になっていた。梅雪はいち早く武田家を裏切り織田方についたため、駿河の旧領を所領安堵されていた。信長公への御礼に、家康と同行したのであった。  数正は何度も、家康と梅雪が兄弟のようだと二人を見て笑った。たしかに姿、背格好も同じであり、顔も丸く頭の禿げかたも似ていた。互いに自分たちを見合って、苦笑せざるを得なかった。  織田の領国に入ってからの織田家臣の気の使い方は、異常なほどであった。通る道はならされて、きれいに掃除がされていた。警護の武将も道々を固めていたが、家康たちにはあまり目立たぬように配慮をしていた。そして道中の一里おきに屋台か茶屋が造られ、一行に茶と菓子の接待がなされた。  家康は不思議な感じだった。先月は駿河拝領のお礼もあり、下にも置かぬ最大級の接待をしたが、信長公が自分に同じような接待をしてくれるとは意外であった。今回あえて供廻りの家臣を本多平八郎、榊原康政ら忠臣百名ほどにしぼった。留守居の本多正信は人数が少なく危険だと諫めたが、聞かなかった。もし多くの手勢を連れて上洛すれば、信長公は必ず自分を警戒するだろうと思ったからである。  家康は、信長公を難しいお人だと長年感じていた。自分の理解をはるかに越えており、あまり細かくその心中を詮索しないようにしていた。  関ケ原を越えて琵琶湖が見えてくる頃、近江佐和山の領主である丹羽惟住五郎左衛門の家臣が迎えに来ていた。近江|番場《ばんば》の館で一夜のもてなしをしたい、との伝言であった。番場は単なる旅籠町しかなかったはずで、わざわざ自分たちのために館を新しく造ったとは剛毅なことだと全員、感心した。  次の日の夕刻近く、宿舎である安土の大宝坊《たいほうぼう》に到着した。饗応役の光秀が、すぐに礼装で家康を出迎えた。幾度かの合戦を通じてお互いに見知っていたが、親しく二人きりで話を交わしたのは初めてであった。 「徳川殿には、遠路お疲れでござったでしょう。主君信長公より家康殿のご接待役を承っております、明智惟任光秀でござる。何なりと、某に申しつけられたい」 「お役目、御苦労でござる。当分、上方に逗留することになるので、よろしくお願い申す」  光秀と家康は慇懃に挨拶を交わした。 「明日十六日より二十日まで、この安土城にて信長公がご接待いたしまする。その後二十一日に上洛、そして大坂、堺をお回り頂く予定でござります」 「かたじけない。織田一門の皆々は中国攻めでお忙しかろう。われらは勝手に物見遊山させて頂くゆえ、あまり気にかけずに結構でござる」  その晩、光秀自身が一行を接待した。家康は、淡々と五膳の料理をきれいに平らげた。食事中、徳川家の家臣たちが何ら織田家の内情に関して知らないことを知り、意外に感じた。戦は強い武士の集団であったが、やはり三河の田舎大名に過ぎないと軽んじた。  料理が一通り終わってから、家康は今宵の料理の会記《かいき》を聞き求めた。光秀は懐に用意してあった献立を、眼鏡をつけて読み始めた。  家康は、その眼鏡をまじまじと見つめていた。そしてしばらくしてから、おずおずと光秀に向かって、眼鏡を借して欲しいと言い出した。 「惟任殿、それがし最近とんと字が見えずに参っておる。これはよく見える」  家康は献立の字を見ながら、驚嘆の声を可愛くあげた。  光秀は思い切って、 「家康殿、その眼鏡お持ちくだされ。長旅でお困りでしょう。拙者は、替わりの眼鏡を持っておりますので」 「それはそれは、かたじけない。家康、恩にきる」  高山右近がバテレンを通じて購入してくれた、愛用の眼鏡を気前よく家康に与えた。家康は年のわりには老成していたのか、老眼の進みも早いようであった。眼鏡を手にしたせいか、それから親しく光秀に心をひらくようになっていった。  その夜、青白い彗星が暗い夜空に長い尾を引いて現れた。光秀も家康も忙しく、夜空を見上げる暇はなかった。運命の日が、京の町の上に訪れようとしていた。  五月十九日午前、信長は家康一行を総見寺で接待した。家康が引き連れた家臣一同をねぎらうために、その日の出物《だしもの》は城外の総見寺境内の能舞台でおこなわれた。三河では見たこともない、当世はやりの幸若大夫と梅若大夫が演じる舞いと能を見学することになっていた。  舞台の前方中央には、屋根付きの桟敷が作られていた。中央には、主客の家康と穴山梅雪が座った。京から近衛前久も呼ばれていた。家康家臣と信長の馬廻り、小姓たちは舞台と桟敷の間の土間に座った。演目の説明役として、松井有閑が立ち会っていた。  信長は左隣に座っている前久に、舞いが始まる前に話かけた。 「前久、島井宗室はいつ上洛すると申していたかな」 「左様、たしか六月の初めにとか。ただ、中国攻めの戦が始まると参れぬとも申しておりましたのう」  前久はそう言って、流し目で信長の顔色をうかがった。 「かまわぬ。宗室が来るまで戦は始めぬ故、間違いなく楢柴を所持して参れと申し伝えよ。その折には、茶会を京で開くよってな」  信長の頭には、戦よりも茶会の方が優先しているようである。前久は官位の話より、楢柴で信長の毛利攻めを遅らせることができるとふんだ。これは好都合である。あと半月も加勢が動かねば、秀吉は毛利に叩かれるだろう。さすれば、光秀が上席になろう。あとは光秀をうまく焚き付けておけば、信長を討つ機会もあるかもしれないと前久は考えた。  いつしか、幸若大夫の舞いが始まっていた。舞いは大職冠と田歌の二番であった。信長は、幸若の舞いがうまくできたので大きく拍手をした。それにつれて、一同の拍手が続いた。小姓の森乱を呼んで、信長は褒美の金子十枚を手渡した。  そこに長谷川竹が桟敷に入ってきて、信長に一通の書状を渡した。書状を読んでいるうちに、本番の能が梅若大夫によって演じられていた。  家康は、何気なく右隣の信長の顔を見た。顔面はさきほどの上機嫌とはうって変わり、怒りの様相を見せていた。はっとした瞬間、信長は腰の扇子を抜いて桟敷の欄干に打ちつけた。  軽やかに歌われていた能の謡が急に止まった。梅若大夫は驚いて、手にしていた扇子を舞台の上に落としてしまった。  信長は、梅若が扇子を落として、謡が止まったと誤解した。 「梅若、見苦しいぞ。都一番の仕手とは思えぬ。即刻やめい」  舞台上の仕手、謡手たちは恐れおののいて、舞台から逃げるように消え去った。  信長は、全員に聞かれるのも構わずに大声を挙げた。 「三七信孝を呼べ」  その時、神戸信孝は四国渡海の準備で大坂に在陣中で、不在であった。 「惟任はおらんか」  桟敷の二列目で能を拝見していた光秀は、すぐさま何事かと信長の大声で駆けつけた。桟敷の前の土間に降りて見上げた。信長は光秀の顔を見るなり、 「惟任、長宗我部元親が三万の軍勢で阿波の岩倉城を取り囲んだと、三好康長より知らせてまいった。即刻、津田信澄、丹羽五郎佐衛門と筒井順慶を大坂に集め、信孝の指揮下に入れさせよ」 「かしこまりました」  光秀は平然と答えた。斎藤利三の計略通り、元親が兵を動かしたに違いなかった。光秀の心は、信長公の気持ちが苛立っているのを見て、逆に何か安堵していた。  事が一段落して信長が落ち着いたところで、家康がゆっくりと話しかけた。 「信長殿、梅若大夫の不出来は、殿が叩いた扇子の音で驚いたがゆえでござります。今一番、梅若大夫の能をとくと拝見したいと存ずるが」 「いや、そうであったか。梅若には悪いことをした。有閑、いま一度舞えと申しつたえよ」  家康のとりなしで能興行は予定通りまた再演され、織田、徳川家ともに興ざめの事態を避けることができた。信長は梅若大夫にも褒美として金子十枚を与えて、その日の接待は終わったのである。  翌五月二十日、安土滞在最後の茶会席がおこなわれた。座敷は、湖畔のそばにある高雲寺御殿に用意された。天気は快晴となり、座敷の床窓からは湖に浮かぶ釣り船が遠望できて、のんびりとした昼を迎えていた。  その日は家康、梅雪は勿論、家老の石川数正、酒井忠次、榊原康政、本多平八郎らが招待されていた。その中で一際若い二十歳そこそこの井伊万千代と呼ばれる小姓が、家康に同伴していた。榊原、本多ら譜代|股肱《ここう》の臣のほとんどが四十代以上だけに、万千代の若い端正な面立ちが奇妙な雰囲気を座敷にもたらしていた。  会席においては信長自らが亭主となり、膳を運んで家康の前に据えた。それをつぶさに見ていたまわりの徳川家の重臣たちは、一様に驚いた。信長公の配慮を感じるよりも、その腰の軽さに誰しもが感じいったのである。 「家康殿、のちほど安土の城を再度、御覧頂こうと思っておる。それがし六月の始めに毛利征伐に参ろうと思っておるんで、それまで京、大坂、堺をゆっくりと骨休みされたらよし。惟任に案内させるよってな」 「家康、生を受けて以来、これほど豪華な馳走を受けたのは始めてでござる。それに毎日生きるの死ぬのと、血なまぐさい身体が久し振りにきれいに洗われた気持ちがいたしまする。この恩義は一生忘れはいたしませぬ」 「正直、そなたが三河にいたが故、今日の信長がある。わしも、そなたには恩義を感じておるんよ」  家康は、思いもかけない優しい尾張言葉に胸が熱くなった。その人生を振り返って見れば、悩み、苦しさ、恐怖は筆舌に尽くしがたかった。それ以上何も言わなくても、二人の気持ちは通じ合っていた。   謀 反  備中高松では十日もの間、雨が切れることはなかった。黒田官兵衛は、思った以上に水攻めがうまくいったことを内心喜んでいた。いまや、高松城は完全に水に浮く水城であった。石垣を越えて、水は高松城の床まで浸水しているに違いなかった。いまごろ城兵は、寝るにも飯を炊くにも苦労しているはずであった。  官兵衛が石井山の本陣から高松城を見下ろしている時、刀持ちの益田与助が近づいてきた。もともと黒田家の台所の水汲みであったが、官兵衛が有岡城の幽閉で足を痛めたあと、身体が頑強だったため刀持ちとして士分に取り上げていた。与助は官兵衛よりも年長であったが、下々の事情に通じており、戦にも役立つ家臣であった。 「殿、安国寺の惠瓊という坊主がおりいって殿と話をしたいといって、使いの者がまいっておりやすが」  官兵衛は惠瓊と面識はなかったが、秀吉からは毛利家の軍僧という話を聞いていた。 「よし、その者を連れてまいれ」  与助は、聞いたことのない惠瓊という坊主に、主人がすぐに応答したのが不思議であった。  与助は黙って、使いの小者を官兵衛の陣所につれてきた。その小者は蓑笠も取らずに汚い着物の襟を破ると、一通の文を取り出し官兵衛の前に差し出した。早速、書中を見ると達筆で、 [#ここから2字下げ] 本日酉刻 妙法寺にてお会いしたし 内密のお知らせあり 安国寺惠瓊 [#ここで字下げ終わり] と書かれていた。  惠瓊は毛利の密使であると、官兵衛は読んでいた。一瞬、秀吉にこの話をしようと思ったが、惠瓊の話を聞いてからでも遅くないと感じた。 「そこの者、妙法寺まで案内せ。与助、一緒に参れ」  会合の時間にはまだ早かったが、いまから行っても不都合ではないと推し測った。妙法寺は、高松城からさほど離れていない町のはずれにあった。高台にあり、水の被害はないようであった。官兵衛は、与助に支えてもらいながら馬から降りた。背後には、具足姿の家臣が目立たぬように数十名ついてきていた。  寺の小僧が突然現れると、官兵衛を庫裡に案内した。庫裡の座敷にはすでに、惠瓊がすました顔で座っていた。  官兵衛は一礼して、初対面にも拘らず左足を投げ出し腰を下ろした。 「有岡の石牢で、左足が動かぬようになってしもうた。失礼を許されい、惠瓊殿」 「えろうことでござりましたな。しかし、村重殿には不憫なことをしてしもうた。あの折、信長殿が短慮をおこさねば、惟任さまとは手打ちの話ができておりましたのにな。さあ、茶をどうぞ」  惠瓊は平然と、茶の入った碗を差し出した。官兵衛には、惠瓊の話の意味がよくわからなかった。 「光秀と惠瓊殿がどのような」 「いやいや昔のことだ、忘れてくだされ。それよりも筑前殿は水遊びがお好きなようでござるが、武士とは戦う者ではござらぬのか」  言葉には強烈な皮肉が含まれていた。 「このまま待っていても埓《らち》があかぬと思うがな。信長さまは来られるのかな」 「惠瓊どの、はっきりと腹の中をおっしゃれ。奥歯に物が挟まっていては、わかり申さぬ」 「は、は」  惠瓊は素直に笑った。 「それでは、はっきりと申そう。光秀殿は、織田の加勢を遅らせようとしておられるようじゃ」 「光秀が毛利と手を結んだといわれるのか」 「そうではござらぬ。戦国の世は所詮、狐と狸の化かし合い。出世したいのは誰でも同じでござる。筑前さまだけが手柄を立てようと思えば、波風が立つのも道理でござる」  官兵衛は、いま惠瓊が何を言いたいのかよくわかった。言う通りであった。荒木村重の謀反も、出世のできない嫉妬からだったかもしれない。ここで秀吉が一人だけで中国攻めを成功させれば、また同じような謀反が起きてもおかしくはなかった。光秀だけでなく、他の大名も素直に秀吉殿の風下に立つとは思えぬ。甘かった。敵は外ばかりではなかった。 「惠瓊殿、毛利家の所存をお承りたい」 「毛利はいままで一度も、織田家の領土を切り取った覚えはない。無理を強いているのは織田家ではござらぬか。兵を備中からお引き頂くこと、それができねば追い出すだけでござります」  官兵衛は、早急に秀吉と打ち合わせる必要があると感じた。また会うことを約して、惠瓊とは別れた。  光秀が裏切る。信じられないことではなかった。もし加勢が遅れれば、上月城の二の舞いになる。官兵衛は、ここが正念場だと下腹に力を入れた。  外はすでに夜の帳が深くおりていた。庫裡の外には松明を持って、官兵衛の養子である黒田三左衛門が待っていた。荒木村重の臣であった加藤重徳の次男である。官兵衛が有岡城で幽閉されていた時の看守が重徳であった。有岡の城が落城する時、牢の鍵をあけて逃がしてくれた。 「官兵衛殿、役目とはいえご苦労をかけて済まぬと思っている。わしはこれから城を最後に切り死にするつもりであるが、息子の三佐衛門はまだ死なせたくない。なにとぞ筑前殿によろしく仕官できるよう、とり計ってはくれぬか」  そう言って、重徳は燃えさかる城に戻って行ってしまった。大兵肥満な三佐衛門は親切にも歩けぬ官兵衛を背負って、秀吉の許まで連れ戻してくれたのである。  官兵衛は三左衛門の若い顔を見て、三年前の荒木村重謀反の苦しい苦い思い出を不自由な足に強く感じた。秀吉殿にはこの思いを味合わせてはならぬと強く決意した。  その晩遅くなって、石井山の秀吉の陣小屋を訪れた。秀吉はまだ起きていた。大きな燭台の下には高松城の絵図が置かれていた。側で蜂須賀小六が、何やら図面を軍扇で指しながら話しかけていた。官兵衛が部屋に入ると、二人は振り返って見つめた。 「殿、ちと内々お話が」  秀吉は小六に目くばせをした。小六はちょうど寝る頃合いと、すぐに腰を浮かした。 「官兵衛、御苦労だな」  そう言いながら小屋を出て行った。 「官兵衛、何事だ」  秀吉は不安そうに、顔の皺を深くして問いかけた。 「さきほど毛利の軍僧、安国寺の惠瓊から申し入れがあり会ってまいりました」 「何を申し入れてきたのだ」 「それが、言いにくいことながら、織田家に謀反の恐れがあるとか申してまいりました。織田の加勢は参らぬゆえ、早々に引き下がるが賢明と申しておりました」  秀吉は、目をきらりと鋭く光らせた。 「裏切りだと。誰が企ててるのじゃ」 「惟任さまかと」  秀吉は無言になった。思い当たるかのように考え始めた。光秀が信長公に弓引くとは思えなかった。しかし惠瓊の言う言葉が嘘でないとすると、光秀は何かを考えている。それは自分に対する策略に違いないと、直感的に見当をつけた。 「惠瓊とは、十年ほど前に確か会ったことがある。なかなか、弁舌さわやかな坊主だった。  官兵衛、もし光秀が加勢を出さぬ算段をしているとすれば、その間に毛利は撃ちかけてくるのかな」 「多分、毛利は我が軍が引く所をみはからって攻めてまいりましょう。お味方は苦戦しますな」  秀吉は瞬間的に、上月城撤退の負け戦を思い出した。いやな思い出であった。 「官兵衛、安土に至急、加勢の書状を送れ。信長公のご出陣前に明智、中川、長岡、高山、それに池田、筒井も先発させよとな。さすれば、いかに光秀でも寝返りできまい」 「それでは早速、手配いたします」  官兵衛は、一息いれて立ち上がった。秀吉は、黙って蝋燭の火を見つめていた。  五月二十一日、家康一行は上洛した。安土の公式訪問が終わったことで、供の数を三十人程度に減らした。これからは完全な物見遊山の旅だった。安土から京までの道すがら、家康は気軽に自分の悩みを打ち明けた。 「惟任殿、わしは長年、家の子郎党を養い、国を広げることのみに腐心してまいった。しかし今日うかつにも、なんら朝廷に手土産を持ってこなかったことに気づいた。いかがすれば、よかろうかな」  光秀は、家康の正直さと悠長さに驚いた。三河、遠江、駿河の大守が、何も献上品を用意していないことが信じられなかった。そういえば、家康の官位はまだ三河守であった。徳川家の老臣どもは何をしていたのか。  四十年前に信長の父信秀は同じ三河守として、内裏の修繕費に当時四千貫もの巨額の銭貨をすでに献上していた。それに比べて、家康は何の貢献もしていなかった。それ故、任官してから十五年間も同じ三河守に止められ、何らの叙勲も追増もなかったのである。しかも、従四位下の官位では参内もできなかった。  老臣の酒井忠次と石川数正は戦に忙しくて、これまで何も朝廷に献上しなかったことを光秀に詫びた。最長老の数正が、これからのことを考えて有力な公家を紹介して欲しいと、光秀に頼みこんだ。  光秀は、近衛前久と勧修寺晴豊に京で引き合わせることを約した。その後も一行は馬上で和気あいあいと談笑し、京に向かって並足で進めていた。家康に気遣って後方の供の一団を見た瞬間、その目に追いかけてくる騎馬軍団の一行が写った。白い袰をなびかせた騎馬は、間違いなく信長公の馬廻りであった。  家康の家来たちも気づいて、まわりに防御態勢をしいた。先頭の袰武者の顔が見えてくると、それは馬廻りの堀久太郎であった。光秀は不安げに、大声で問いかけた。 「久太郎、何事だ。家康殿に失礼であろう」  久太郎はひらりと馬から降りると、家康に一礼して光秀の馬前に膝まずいた。 「失礼の段お許しくだされ。本日、信長さまに備中の筑前守より加勢依頼の使いが参り、大殿と信忠中将さまは六月四日に京より中国に下向されるゆえ、惟任さまは長岡、池田、高山、中川、筒井勢を率いて、一足先に備中高松への後詰ありたしとのご下命でござります」 「しかし、それがしは家康殿のご接待を上方でせねばならぬが」 「殿は大坂、堺でのご接待役は惟住《これずみ》五郎左衛門さまにすでにお任しになられました」  光秀は一瞬、顔をしかめた。何かわからない大きな流れを感じた。事が動き始めた。 「家康殿、お聞きの通りのことで、それがし京より坂本に帰らざるを得ません。後はここにおります長谷川にお世話させますので、お許しくだされ」 「なんの、なんの。わしばかり物見遊山で悪いのう。ご懸念なく戦に専念されよ。いずれ、光秀殿も三河にお出でなされ。田舎だがの」  家康は、家臣に対する信長の非情さをまた垣間見た気がした。いつまでこの光秀も素直に仕えるのかなと、一瞬怪しんだ。 「左馬助、一足先に大納言さまにお伝え申せ。明朝、三河守殿が内裏に参内するからとな」  明智左馬助が馬首を京に向けようとすると、堀久太郎も鞭を口に挟んで馬に乗った。 「それでは、これにて失礼つかまつる。備中まで一走りせねばなりませぬので」  また礼儀正しく家康と光秀に礼をすると、一気に馬の尻に鞭を入れた。三十騎ばかりの騎馬隊が後に続いた。白い砂煙が道中に広がった。  光秀は接待役を外されても、家康が気にしたほど気にかけなかった。それより、一人でゆっくりと考えたかった。何かを起こせそうな予感がしたからである。  京に入った家康を宿舎の妙心寺に案内した後、光秀の足は自然と吉田兼和のいる吉田山に向かっていた。通された部屋には、すでに食膳が用意されていた。 「兼和、中国出陣の布れが参った。信長公は、出陣前に京で茶会を開くものと思われる。島井宗室にその旨伝えてくれ」 「さようでござりますか。それでは、正式に案内がこちらにも参りますな」  その日の兼和はなぜか口数少なく、何かを思いつめているようであった。二人は自然と酒を交わして、飲み始めていた。 「光秀殿、今織田の主だったご家来衆はどこにおられますかな」 「あらたまって何だ。そうだな、大坂表には神戸信孝さま、津田信澄、丹羽長秀殿が集まり、四国に渡海する予定じゃ。北国勢は越中松倉城を攻めておるし、秀吉は高松城。それがなんだ」 「織田信忠さまはどちらに」 「多分、信長公とご一緒に入洛されよう」 「そうすると六月の茶会には、京には信長さま親子のみということでござるか」 「いかにも」 「家康殿は」 「そのころは堺か、帰国なされる頃だろう」  兼和の顔は、ものにかれたように血走っていた。ひとしきりうなった後、光秀の目を見据えた。 「十兵衛、王手飛車取りを知っているか。ひょっとすると、角と金も狙えるが」 「将棋の話ではないな」  光秀も、兼和が何を言おうとしているか推察がついた。確かに、京には織田信長の王と信忠の飛車がいる。そして同じ場所に角ともいえる徳川家康が、そして金とは認めたくないが備中に秀吉がいる。秀吉の金は、毛利の三枚の金銀に取らせる。一枚の角は歩でも簡単に取れる。織田家の王と飛車の大駒は、光秀自身がとれば勝負はつく。  長岡、筒井、長宗我部、津田信澄らの姻戚の持ち駒はそのまま温存できる。大駒亡き後の、他の織田家の駒と戦える充分な力だ。それに池田、高山、中川勢も持ち駒として張れるだろう。  光秀の頭は冷えていた。何の恐怖や焦りの感情もわかなかった。将棋を冷静に指している気持ちであった。この戦は時とやり方さえ間違えなければ勝てる戦だと、長年の経験で感じた。 「やってみるか」  光秀は、一人言のようにつぶやいた。 「毛利には間違いなく届くかな」 「宗室にまかせておけば大丈夫だ。わしが、すぐに宗室を呼ぼう」 「茶会はいつにする」 「近衛前久殿より、正式に安土へ申し入れさせよう。六月一日ではどうかな」  光秀は黙ってうなずいた。すべて、これからは六月一日を軸に動き始める。 「それでは、わしは坂本に帰ることにする。出陣前に連歌会を催すによって、その折また会うことにしよう」  光秀はゆっくり立ち上がると、兼和の手を取って握った。二人に言葉はいらなかった。ただ勅命という言葉だけが、光秀の頭から帰る途《みち》中消えなかった。  翌朝一番で、島井宗室が吉田兼和の自宅に呼ばれた。兼和にとって、失敗は許されなかった。そして、神官として許されない人生最大の博打をいま打とうとしていた。 「宗室、茶会は六月一日、京の本能寺で夕刻より始めることに昨日、決定した。公家も四、五十名出席する予定じゃ。その方、楢柴の茶入れは信長公に献上できような」 「ご心配には及びません。信長さまより、それなりの金子は頂きますよってな」  日に焼けた脂顔の宗室は、いやらしい笑みを浮かべた。兼和は部屋の周囲を見渡しながら、声をひそめた。 「惠瓊から、その後なにか知らせはないか」 「光秀殿がまことに信長さまの加勢を止めることができるのか、いまいち信じられぬと申しておる」 「宗室、心配するな。織田の加勢はいかぬぞえな。いづれにしろ六月一日を過ぎればわかることと、惠瓊殿には申してくれ」  宗室は、怪訝気に兼和の顔を見た。 「それはどういうことだ」 「わからなくてもかまわぬ。毛利は秀吉を備中で早く討つがよいと、それだけ小早川隆景さまにお伝えしてくだされ」  兼和の言葉の裏に何かがあると感じた。これだけ強く言う所を見ると、織田の加勢は当分来ないのかもしれない。しかし、それはどういう意味なのだろう。勘の鋭い宗室も、今回ばかりは勘が効かなかった。宗室は備中の惠瓊宛てに短い文を書き記して、早飛脚にもたせた。 [#ここから2字下げ] 六月一日京本能寺にて織田信長茶会を催すにつき 加勢は遅参すると思われる 筑前守を早く討つことが肝要なり [#ここで字下げ終わり]  その書状は五月二十四日の昼頃、備中高松に無事到着した。宗室は、信長が発行してくれた朱印状の特権を利用したからであった。それは、織田家の領内において所持するあらゆる商品と持ち物を自由に検閲なしに移動できる、という権限であった。  日差山の小早川隆景の本陣に、惠瓊が墨衣を飄々となびかせて現れた。陣小屋に勝手に入ると、にやにやしながら隆景に話かけた。 「隆景殿、毛利にも運が向いてきたようじゃ」 「何事だ、惠瓊」 「本日、京の宗室より書状が参った。六月の一日に本能寺で、信長は楢柴の茶入れで茶会を催すそうでござる」 「優雅なことじゃのう、信長は」 「さすれば、どうも明智光秀はわれらに味方し、やはり加勢を遅らせているようでござる」  隆景は、それを聞くと真剣に考え始めた。 「うむ、どうもわからん。光秀は何を考えておるのだ」 「宗室によれば、早く毛利が秀吉を討ってくれとの催促のようだが」 「わからん、その先が。なにか、光秀は別のことを考えているのではないか」  隆景にそう言われて、惠瓊は自分の直感が間違っていないことを知った。 「殿、読めましたぞ。光秀はひょっとすると、謀反を起こすつもりでは」 「どういうことだ」 「もし毛利が秀吉を討った後、光秀が信長を殺したらどうなります。天下は誰のものになりますかな」 「信長をそう簡単に殺せるのか」 「光秀はそれができるとふんで、加勢を遅らせているのでしょう」  隆景は、一存でこの大事を内密にしておくことはできないと感じた。 「惠瓊、明朝、三家で軍議を本陣でおこなおう。そちも参れ」  高松城から六里離れた猿掛山の本陣まで明朝に着くためには、馬を飛ばさなければならない。乗馬が不得意な惠瓊は、それを聞いて気が重くなった。 「殿、すこしお待ちくだされぬか。いま軍議をひらいても、吉川元春さま初め諸将の方はこの事情をおわかりになるまい。それより今一度このことを秀吉に伝え、兵を撤退させるのが良策と思われますが」 「清水宗治にはどう伝える。死ぬ気で戦っている宗治に、毛利は戦をやめよとは言えぬぞ」 「ごもっともでござる。しかし、高松城は水に囲まれて身動きでき申さぬ。しばらく秀吉の様子が分かるまで放っておいても、さして問題はござらぬでしょう」  隆景は、惠瓊の言い分に納得した。ここで、勝ち戦に水をかけるようなことは得策ではない。秀吉にこの情報を高く売って、脅かすにかぎると思った。   思 案  石井山の滑る赤茶けた泥道を歩きながら、黒田官兵衛は思い出したくない有岡城の湿った牢内を思い出した。あの時と同じようにすべてのものがべとべとと濡れていて、気持ちが悪かった。雨は降ったり止んだりしていたが、大雨の恐れはしばらくないようであった。泥水の大海に浮かぶ高松城を見下ろしながら、秀吉の本陣を訪れた。 「官兵衛、いいところに来た。久太郎が、安土から大殿の返書をもってきてくれた」  秀吉は、嬉しそうな顔をして床几に座っていた。その前で、堀久太郎が立礼で報告をしていた。 「殿は六月四日に京を出発、こちらに下る予定でござります。それに先立ち惟任光秀さま以下、中国勢の諸将がまもなく国許を立つものと思われます」 「そうか、かたじけない。皆が加勢にまいれば、二万五千はかたいな。それに、信長公の旗本が一万か一万五千。官兵衛これで戦は勝てるぞ」  秀吉は無邪気に白い歯を見せて大きく笑ったが、官兵衛は不機嫌に答えなかった。 「どうした、官兵衛。何かあったのか」 「殿、桔梗の旗を見てから、お喜びなされ」  秀吉は、鋭い眼光で官兵衛を見つめ返した。もっとも恐れている心の内を容赦なく突いたからである。 「久太郎、そちは光秀たちの中国勢がいつ国許を立ったか調べてまいれ」  久太郎は、又このまま上方に戻るのかと戸惑っていた。二人の真剣なやりとりの意味が、よくわからなかったからである。  その日の夕刻、前と同じ惠瓊の小者が官兵衛を訪れてきた。官兵衛は早速、三左衛門と与助だけを連れて妙法寺に向かった。今度は、護衛の家臣がついてくるのを禁じた。惠瓊と会っていることを、ことさら内密にしなければならない時期だと感じていたからである。  案の定、惠瓊は会うやいなや、驚嘆する話を申し入れてきた。 「官兵衛殿、やはり光秀の軍団は当地には参らぬようでござります。そして、お屋形の信長さま一行も加勢には参らぬようですな」 「待たれよ、惠瓊。本日、信長公の小姓が加勢の話を伝えにまいった。そのようなことは信じられませぬな」 「このようなことを、嘘冗談で申し上げはしませぬ。しかとしたことがある故、申しあげておる。長年、愚僧も秀吉さまにはお世話になっており、筑前殿をお助けする気持ちでお話しております」 「惠瓊、相変わらずわからぬな。何を言いたいのだ」 「織田の加勢は一兵も参らぬ。したがって近々、毛利の総攻撃が始まるゆえ、羽柴殿は早々に撤退されるのがよろしかろうと申しあげておる」  官兵衛の顔は蒼白になった。何かが都で起きようとしている。やはり、光秀が謀反を起こすのか。惠瓊は、しかとした情報源を握っているように見えた。 「それでは、いま吾らが兵を引き上げれば、毛利は追い討ちをせぬということか」 「左様でござる。当方も、無駄な血を流すことは本意でござらぬによってな」 「相わかった。早速、殿と打ち合わせの上、ご返事つかまつる。御免」  官兵衛はいら立ったまま、その場を去った。毛利が掴んでいる秘密は何なのだ。それは誰が仕組んで、誰が知っているのか。それを探さねば、これ以上、惠瓊とは話ができないと思った。  日は落ちようとしていた。いつのまにか雨空はさわやかに晴れ上がって、石井山の羽柴陣営に夕陽がかかって輝いていた。奇妙に静かで荘厳な趣を感じさせる光景であった。とても、これから血なまぐさい戦をする雰囲気には思えなかった。  帰り道、ぬかるむ細い畦道を与助に馬の手綱を取らせながらいくと、前方から墨染めの衣を着た一人の大柄な雲水が歩いて来るのが馬上の官兵衛に見えた。六尺近い錫杖《しゃくじょう》を右手に持ち、左手に網代笠《あじろがさ》を抱えていた。風格から、禅僧にしては奇妙な感じを官兵衛は抱いた。何気なく通り過ぎる時、その雲水の顔をまじまじと見つめた。  官兵衛の視線を感じたのか、その僧も顔をあげて官兵衛を見つめた。雲水はすぐに目を落として、すり抜けていった。はて、どこかで見たことのある顔であった。すぐに思い出せなかった。振り返ると、大柄な僧は真っ直ぐ妙法寺に向かって歩いて行く。  官兵衛は、黒田三左衛門に命じた。 「三左衛門、あの坊主に、ちと聞きたいことがある。ここに連れてまいれ」  そのまま、すぐに畦道を駆け出した。しばらく二人が言い争っているように見えたが、諦めたように僧は三左衛門に従って戻ってきた。 「御坊、ちと聞きたいことがある。それがしは羽柴筑前守の家臣、黒田官兵衛と申す者。そなたをどこかでお見受けした記憶があるので呼び止めた。どなたであったかの」  大柄な僧は厳しい目で、 「道糞と申す、ただの世捨人でござる。誰かの見間違いでござろう。拙僧はそなたを知り申さぬ。御免つかまりまする」  道糞と名乗った僧は軽く礼をすると、そのままもと来た道を帰って行った。  官兵衛は黙ったまま、まだ思い出せないでいた。しばらく馬を進めているうちに、急に言葉を発した。 「与助、今一度、妙法寺に戻るぞ」  妙法寺では、惠瓊と今しがた見かけた僧が親しげに話を始めていた。二人とも僧というより、荒法師という表現が似合う姿格好であった。 「惠瓊殿、京の島井宗室よりのたっての頼みでこちらに参った」 「これはかたじけない。それで、宗室は何をそなたに言づけしたのじゃ」 「六月一日に信長が本能寺で茶会を開くので、楢柴の茶入れを持って出席するそうだ。それがどうもよくわからんのだが、そこで宗室は何かが仕組まれていて、何かが起きそうだということを、そなたに申し伝えてくれと」 「何が仕組まれていると、申すのかな」 「わしの勘では、また何か織田家の中で起きているように思える。多分謀反かな」  道糞こと荒木村重は、昔を思い出すようにつぶやいた。 「つかぬことをお聞きするが、それがしが昔、信長に謀反のおり、織田家の代理として朝廷と話されたは誰でござったかな」 「左様、それは多分、惟任光秀であろう」  道糞の顔が一瞬曇った。 「光秀は朝廷と特に親しい間柄、何かすることは考えられますな」  惠瓊は大きくうなずいた。道糞と同じことを考えていた。もし何かが起きるとすれば、朝廷が光秀の背後で画策していることは充分考えられた。しかし毛利家と親しい天皇家からは、何の情報もまだ伝わってきていなかった。  その時、寺の小坊主が官兵衛の再訪を告げにきた。二人は驚いて自然と顔を見合わせた。  暗闇の中から侍が足を引きずって、そこに急に姿を現した。小坊主の持つ蝋燭が青白い顔を照らした。 「惠瓊殿、そこにおられる御坊に挨拶をしにまいった」  道糞は、官兵衛の言葉に身まがえた。 「御坊はひょっとすると、荒木摂津守村重殿ではござらぬか。この官兵衛、有岡の城ではひどう世話になったのでのう」  惠瓊は瞬時にすべてを察したようであった。にが笑いをしながら、 「いかにも昔、摂津守と呼ばれた方でござる。しかし、いまは世を捨てて出家され、道糞と申される一介の雲水でござりまする」 「それは好都合。お二人で、織田を討たれる算段をお話合いとみえる」  官兵衛は、遠慮なく二人の前に足を投げ出して座った。 「この官兵衛、思えば四年前に村重殿の謀反をお止めに参った訳だが、こたびは光秀の謀反を止める時間はござらぬ」 「なんと申された。光秀が謀反と」  惠瓊は、大仰に驚いた表情を見せた。 「いかにも。光秀が国許で謀反を起こせば、信長公のお命があぶのうござる。光秀は優れた武将、村重殿のように純情ではござらぬからな」  官兵衛は、当てずっぽうで光秀謀反の話をぶつけていた。二人の態度と反応を見ると、自分の推測は当たっているようだった。誰しもが、織田家中でいま何か事を起こせる人物は光秀以外にはいないと思えた。 「しかるがゆえに、官兵衛の一存でござるが、至急、和議を結びたい」 「はてさて、謀反の話の次は、和議の話でござるか。して、条件は」 「高松城は毛利にお返し申す。その代わりに、退却時には後追いをせぬと誓って頂きたい」 「退却なさるのか。はてさて、高松城はまだ差し上げた訳ではないが」 「いかにも。もし光秀が兵を挙げたら、秀吉殿は逃げ場がござらぬ」  官兵衛の話は思いすぎのようであったが、現実に光秀が謀反を起こせば秀吉軍は毛利と明智に挟まれて、どうなるか見当がつかないのも事実であった。 「官兵衛殿、光秀がなぜ謀反をすると思われたのか」  今まで黙っていた道糞が、急に問いかけた。 「厳しいことをお聞きになる。それがしが光秀なら、同じことを考えるだけ」 「さようか」  道糞はそのまま黙って、それ以上話をしようとしなかった。  惠瓊は、察し良く鋭い提案を返してきた。 「本能寺での茶会は六月一日と聞く。それまで、毛利は待つことにしましょう。しかし一日以降、何も起きぬとき、毛利家は秀吉殿と相いまみえる所存。何かが起これば拙僧、官兵衛殿のご意見を毛利家にご進言しよう。いかがかな」 「よろしい。早速わしもそのように殿にご報告しよう」  三人の顔はいずれも厳しかった。戦国の乱世を生き抜いてきた男だけがわかる、苦しさと緊迫感であった。明日はどうなるかわからない。ただ、良い風が吹くことだけが三人の望みであった。   本能寺前夜  信長は五月二十五日に京の公卿、僧侶、豪商宛てに茶会の招待状を送った。日時は天正十年水無月の一日、申《さる》の刻より京本能寺にておこなう、というものであった。  招待客は総勢五十人を越していた。正客として近衛前久が選ばれており、勧修寺晴豊、吉田兼和そして当然、島井宗室らも招かれていた。同じ頃京に伝わった噂では、信長はその茶会に合わせて、三十種以上の天下名物の茶器をわざわざ安土城から運ばせるとのことであった。  五月二十七日、明智光秀は丹波の亀山城から二里半ほど離れた愛宕《あたご》山に参籠していた。ここしばらくは坂本の城よりも、亀山の城に滞在することがふえていた。光秀は平城である亀山城に五層の天守閣を新たに造り、濠を二重にして堅固な城に作り替えていた。  亀山城は中国攻めの拠点になっていた。明智軍団すべてを収容できる規模を備えた城であった。現にその日、備中攻めを前にして、明智軍の精鋭一万五千人全員が城内に集結していた。  通常大きな戦の前に光秀は、この愛宕|権現《ごんげん》の本宮に祭られている勝軍《かちいくさ》地蔵に戦勝祈願に来ることが多かった。愛宕山は坂本の背後にある比叡山よりも高く、京を囲む山々の中では一番早く朝日があたるので朝日岳とも呼ばれていた。亀山城の守護山として特別に崇めていた。  早朝まだ朝もやの立つころ、光秀と長男光重は騎馬で城を出立した。久し振りに、光秀は愛馬を駆けさせた。二郎と呼ぶ木曾馬は、十歳をとうに越していた。浪人中に、長男の光重が生まれてから飼い始めた木曾馬であった。したがって、名前は二郎と自然に呼んでいた。  光秀の中指を噛むほどの駄馬ではあったが、なぜか別れることができず今まで飼い続けてきた。二郎が老体に鞭打って走る姿は、自分のようにも思えた。  五十町を越す山道を登りきると、太郎坊と呼ばれている大天狗を祭った奥の院がある。その前には大きな樫の樹がそびえていた。樹齢は三百年を越しているように思える巨木であった。その葉陰から三重の塔がかいま見えた。風がさわやかに光秀の頬を撫でていく。  光秀はもう一刻以上も、その樫の樹の前で一人で沈思黙考を続けていた。自分の半生を振り返りながら、信長との出合いを考えていた。十年前といまの信長公は変わられてしまった。  あの頃はいつも家臣の先頭に立って、大声で叱咤激励しながら危険を顧みずに戦ってくれた。そして、自分も恐れずに信長公のために戦うことができた。しかしいまの信長公は、戦おうとしない殿になられてしまった。そして、軍律に違反すれば過酷な処罰が待っていた。降参してくる敵の武将も、助けることが少なくなってしまった。  つい先頃には竹生島参詣から急に日帰りして、主人が帰るとは知らずに遊び呆《ほう》けていた女房どもを無残に手打ちになされている。なぜなのだ。身内も敵も見境つかずに殺す理由がわからなかった。信長公は御狂いになられたのか。  若き日の信長公は、とくに女性には優しかった。斎藤道三の娘|帰蝶《きちょう》を正室になされたが、母の小見《おみ》の方は光秀の叔母にあたった。しかし最近では、美濃にいる帰蝶に一年に一度も会おうとされないと聞いた。舅道三の助けなくて今の信長公はなかったはずなのに、姪の帰蝶に対しては冷たい仕打ちと、ささいなことを光秀は恨んでいた。  でも何度考えても、これ以上の謀反の好機は考えられなかった。誰もが、謀反を起こすとは考えていない。それに、信忠中将がすでに京の薬師寺町の妙覚寺に宿泊していることも好都合であった。二人を葬るには、いましかない。でも、それは恐ろしい考えだった。  光秀は思いついたように立ち上がり、神前の神籤《みくじ》を引くことにした。箱に手を差し入れて、一枚取り上げた。周囲には、護衛の小姓以外の姿は見えなかった。開いてみると、それは「大吉」であった。  しかし、すべきことではないなと光秀は思った。かといって、これからの備中攻めはことさら気が進まなかった。もう六十歳にもなり、ゆっくりと体を休めたかった。いつまで、信長公は戦い続けるのであろう。あの若い時の感動は消え去っていた。いまの戦いは、ただ血生臭い残酷な殺生でしかなかった。光秀の心は揺れていた。  思いきってもう一度、神籤を引いた。不思議なことに、卦はまた大吉であった。  階段を昇り、神前に願をかけた。手を合わせながら、天皇のことを思い出した。信長公は、征夷大将軍をお受けなさろうとせぬ。朝廷は、この光秀を二度と信用なさらぬだろう。しかし、本当に朝廷をないがしろにして、どうするつもりなのか。信長公の考えている新しい世の中は、光秀には少しも見えてこなかった。  神前からの帰り際、最後の神籤を思いきって引いた。何と、また大吉であった。  これはひょっとすると、決行することが大吉なのではないか。吉田兼和は確か、勅命が出ると申していた。明日、兼和を連歌興行の名目でこの愛宕山に呼んでいる。その折に、いま一度確かめよう。勅命のことを考えると、少し気が軽くなった。  天下を治めるのは、天子以外にはないではないか。もし、わしに勅命が下りるなら、この惟任日向守は逆臣ではない。松永久秀や荒木村重のように、私の逆心ではないと思った。  光秀は宿の西之坊への帰り際、京の見える山頂に馬を向けた。いつもなら愛宕山の頂きからは京の町を遠く一望に眺めることができるのであるが、その日は厚い雲に覆われて下界は何も見えなかった。  同じ日、家康一行は大坂を経由して堺の町に入った。宿舎は南宗寺《なんそうじ》であった。堺の納屋衆《なやしゅう》は遠国東国からの客を迎えて戸惑いがちであった。すでに信長からは、賓客としてもてなすよう、会合衆筆頭の今井宗及宛てに指示書が届いていた。しかし、家康本人と納屋衆で面識があるのは、昔より唯一、徳川家と取り引きをしている茶屋四郎次郎だけであった。  その日の夕刻、早速、茶屋の屋敷で茶湯の接待を受けた家康は、奥座敷で庭を見ながらくつろいでいた。屋敷の中庭は、箱庭のような枯れ山水の石庭になっていた。  家康はその白い庭砂を眺めながら、一人思いにふけっていた。自分の四十年の半生は、武田家との抗争に明け暮れたと言っても過言ではない。武田も滅んだが、払った代償も大きかった。最大の苦痛は、正妻の築山と嫡子信康を謀反の嫌疑で殺したことであった。  あの時、正直、信長公の命とはいえ妻と息子を自らの手で殺《あや》めるなら、一思いに武田と同盟して織田に歯向かうことも一瞬、脳裏によぎった。もし親子の情におぼれて武田に寝返っていたら、どうであっただろう。結果として、やはり織田家との契りは変えなくてよかったとは思うが、この空しい気持ちはなぜなのか。あれから三年たった今も、心の痛みは癒されていなかった。しかし、考えても詮なきことと家康は思考を止めた。  そこに、茶屋四郎が笑顔で色白な顔を出した。四郎は、上背が六尺ほどもある長身で痩せぎすな男であった。丸顔で短身、肥えた家康とは体型において、まさに好対照であった。 「徳川さま、納屋衆たちの茶会の次第が決まりましたので、お知らせにあがりました」  家康は、四郎の声で振り向いた。 「明日の昼時に、今井宗及が南宗寺でおもてなしをなされます。明後日の晦日には津田宗及が、そして六月一日の夜は千宗易が、趣向をこらした茶会でおもてなしするとのことでござります」  南宗寺は、堺町衆の茶会の席場として、頻繁に使われていた、臨済宗の大寺であった。しかし、家康の顔は浮かなかった。長旅と相続く接待に、正直、疲れていたからである。 「家康殿、何かご思案ですか。少し、憂さ晴らしに外へ出てみませんか」 「うむ、そうだな。何か面白いことでもあるかな」 「念仏踊りが町を練り回っております。三河とはまた違った趣向かと」 「うむ、でかけよう。万千代ついてまいれ」  家康は、そばに控えていた小姓の井伊万千代に気軽に声をかけた。三人は湯帷子《ゆかたびら》を着て、気楽な格好で町に繰り出した。  鉦、太鼓、笛の音に連れて大勢の人々の囃声、踊り声が聞こえてきた。奇装に身をやつしたかぶき者、遊女、くぐつらが一心不乱に踊り歌っていた。   何せうぞ くすんで 一期は夢よ   ただ狂えー、ただくるえ  一行は、その踊りの中の、異様な衣装と雰囲気を漂わした集団に目が向いた。よく見ると、遊女と思われた一団は切髪に鉢巻きを締め金襴緞子の着物に大小の刀を腰に差し、瓢箪の下げ物と南蛮渡来の十字架を胸にかけて踊る、異様な男装の遊女たちであった。そして、これまた手には琉球渡来の三味線を持って、扇情的な音色を奏でていた。 「茶屋、あの者たちは何者だ」 「いま上方ではやりの、歌舞伎踊りでござります。あの先頭におります女性は、出雲の阿国《おくに》と呼ばれておりまする。一緒に踊られますか」  四郎が、茶目っけ一杯に家康に問いかけた。 「うむ、よしておこう。腹が回らぬ」  三人は、大声を出して笑いこげた。家康にとって、大声を出して笑ったのは何年ぶりかのことであった。踊りに狂っている堺の町衆は、三人の存在に誰も気がつかなかった。  いつしか踊りの群れはふくれ上がり、切れ目がどこにあるのか、どこに向かっているのかわからなくなっていた。しかし誰も、どこに行こうと気にしていなかった。戦国の不満、恐れ、苦しみから一時でも、念仏踊りに陶酔することで忘れさろうとしている集団を、誰も止めることはできなかった。  家康でさえも過去のすべてを、この踊りの流れに任せたくなる衝動にとらわれるほどの熱気と狂気であった。念仏踊りの一行が京への道を目指そうとするころ、一人の男が茶屋四郎にそっと近づいてきていた。 「茶屋どの、徳川家康殿とお見受けした。それがしをご紹介願えぬか」  男は、伊賀の頭領である服部半蔵であった。茶屋四郎は、しまったと思った。伊賀者にかかっては、ごまかしは利かなかった。早く家康殿を安全な所に連れ戻さなければならないと、瞬間的に思った。 「ご心配に及びませぬ。家康殿の警護はわれらがしております」  半蔵は黒い顔を左右に動かしながら、四郎の懸念を知って先につぶやいた。  茶屋は伊賀の里に鉄砲を以前売ったことがあり、その折、半蔵を見知っていた。仕方なく自宅に半蔵を同伴した。奥の座敷で、四郎は家康に服部半蔵を紹介した。家康は、精悍な半蔵をじっと見つめたまま黙っていた。 「伊賀の頭領で服部半蔵と申します。失礼を顧ずあつかましく参り出ましたのは、昨年の秋に、わが国伊賀は織田信長によって攻め滅ぼされ、多くの国人は帰る故郷がござりませぬ。願わくは、なにとぞ、われらを仕官させて頂けませぬでしょうか」 「半蔵、わしは信長殿とは長らく契りを結ぶ兄弟でもある。そのわしに仕官したいとは、おかしいのでないか」 「いえ、殿は長年の敵であった武田家の武将さえも数多く召し抱えておられる、優しき御大将でござる。また、穴山梅雪さまさえご同行なされておられます。お許し頂ければ、伊賀の国人挙げてご奉公させて頂きます」  いつしか、迎えにきた石河数正と酒井忠次が傍に座っていた。 「この家康、そなたらを召し抱えれば、信長公に歯向かうことになる。召し抱えるわけにはいかぬ」  家康は冷たく、はっきりと伝えた。半蔵は気落ちしたようで、深々と一礼すると立ち上がり、 「われらは、殿にご仕官することに決めておりまする。いずれ手柄を立てて、またお願いに上がります。御免」  半蔵は音もなく立ち去っていった。  酒井忠次が家康に向かって言った。 「殿、伊賀者は信じられますかな」 「わからぬ」  家康と伊賀者の奇妙な出合いがこうして始まった。   連歌興行  五月二十八日は、朝から霧のような小糠雨が降っていた。愛宕山の西之坊に一泊した光秀は、連歌興行の連衆をどんよりとした雨空を見上げながら待っていた。連歌衆は連歌師の里村紹巴、宥源、昌叱、兼如と愛宕威徳院の僧行祐《ぎょうゆう》、心前と行燈、それに長男光重が出席することになっていた。集合時刻は申の刻限だったが、いまはまだ巳刻で充分に時間はあった。  しかし光秀の気持ちは連歌衆にはなく、吉田兼和がまだ現れないことを気にしていた。連歌の百韻《ひゃくいん》興行を開くと兼和には連絡していたので、何か知らせがあるだろう。ひょっとすると一日の茶会に何か変わったことがあったのか、不安が光秀の脳裏を横切った。  その時、光重が部屋の襖を開いた。 「父上、吉田兼和さまが、今お着きになりました」 「すぐ通せ」  光秀はまるで恋人を待ちかねていたように、安堵の気持ちに包まれた。  そこに疲労|困憊《こんぱい》した顔で兼和が現れた。 「どうした、ひどい顔をしているぞ」 「京より、夜通し馬を駆けさせた。もう、馬は好かん。足も尻もがたがたじゃ。おお、痛た」  兼和はいかにも痛そうに、畳の上にそっと尻を置いた。 「何か起きたのか」 「昨日の夕刻に、近衛前久さまのもとに知らせがあってな。信長は、晦日の二十九日に京の本能寺に入洛するとのこと。間違いなく、茶会は六月一日におこなわれるぞ」 「かたじけない。よくぞ知らせてくれた」  兼和は気持ちが一段落したのか、笑顔を浮かべて光秀に話しかけた。 「光秀、よい知らせがもう一つある。信忠は妙覚寺に二十一日より泊まっておるが、昨日、旗本千五百を大坂に送ったそうや。いま、本能寺の護衛は数百に満たないそうじゃ」  光秀の顔が急に険しくなった。信長がどれほどの旗本をつれて入洛するのか、それでこの勝負は決まるからであった。 「兼和、二十九日に信長公がどれほどの侍をつれて参るか、再度、夜駆で知らせてくれぬか」 「もちろん。しかし、わしは遠慮するぞ」  光秀はその言葉を聞いて笑った。兼和もつられて大声で笑った。 「おお、大事なことを忘れておった。前久殿からそちに伝えてくれと頼まれたが、誠仁親王が朝廷をくれぐれも惟任に頼むと申されたそうじゃ」  待ちに待った、勅命とも言える言葉であった。親王は当然、実父の天皇とも語り合っているに違いない。さすれば光秀の逆心も、すでに朝廷には支持されていることになると思った。 「明智の家にも、東風《こち》が吹いてきたようだな」 「いかにも梅の花が咲きそうだ。どうだ、連歌興行に出ていかぬか」 「うむ、しかし連歌より本能寺の方が大事。一休みしてから、残念だが帰ることにするわ」  兼和はそう云い終わると、大の字に身体を伸ばして座敷の上に横たわった。光秀はそのまま兼和を寝かせたまま静かにその場から立ち去った。  百韻興行は、予定通りの連衆が集まり始まった。  光秀が発句を詠んだ。会が始まる前から、自然と発句が浮かび創ってあったのである。   時は今あめ下しる 五月かな  光秀は、明智家の出身である土岐《とき》氏に時を掛けていた。そして天が下しるは、天下に掛けていた。  次の句は、威徳院の住職である行祐であった。行祐は黙って光秀の顔をしばらく見つめた後、二の句を続けた。   水上まさる 庭の松山  行祐は水上を光秀に掛けて、高松城の毛利よりも勝ると歌った。  三句目は紹巴の番であった。紹巴は二人の句が、これから出陣する中国備中の高松城攻めを歌ったものと感じていた。   花落つる流れの末を せきとめて  紹巴は花を毛利に掛けて、贔屓《ひいき》の光秀に贈ったのである。招客たちは光秀の中国における戦勝を祈願して、次々に句を続けていった。  光秀は最後の十五句目である名残裏《なごりうら》で、   縄手の行衛《ゆきえ》 ただちとはしれ と歌った。この最後の句で、本能寺を目指す自分の気持ちを表現していた。しかし、光秀の真意を知るのは己一人であった。  最後の百韻の挙句《あげく》は光重であった。   国々は なほ長閑《のどか》なる時 と歌い、明智光秀の戦勝を期する百韻興行の連歌が終わった。息子の挙句を聞いて、光重が自分の真意を知っていてくれるのかと思い満足であった。外は暮れて、すでに暗くなっていた。屋根の瓦を五月雨が強く打ちつけ、発句にふさわしい水の日であった。  連歌興行が終わり、光秀は何事もないように連歌衆と夜の更けるまで談笑を続けたのである。天下のことは天のみが知ることと、すでに光秀は達観していた。  翌日、百韻の連歌は愛宕権現に奉納された。  一夜明けて快晴に恵まれた六月二十九日の夕刻、織田信長は供廻り三百人ほどを連れて、悠々と四条通の本能寺に入った。到着後、護衛の旗本侍は本能寺に泊まらずに、近くの民家や寺に分宿するために二百名ほどが本能寺を去っていった。  本能寺の茶会は明夕刻、申の刻から開かれることになっていた。京奉行の村井貞勝はじめ木村次郎左衛門はことさら忙しかった。信長公は足掛け二年振りの上洛であり、茶会の招待客の確認、出迎えの手配、警護など、正直、猫の手も借りたい心境であった。  次郎左衛門は夕食後、急に本能寺の森乱から呼び出しを受けた。茶会の準備で忙しいらしく、顔の表情には余裕がなかった。 「木村殿、急な話で申し訳ないが、今宵、亀山城の惟任様のもとまで行ってはくれぬか」  森乱は薄暗くなった庫裡の片隅で、立ったまま次郎左衛門に話かけた。 「それがしはとんと構わぬが、して何用でござるか」 「明日、朝廷の使いとして、勧修寺晴豊さまがここにお見えになられる。さきほど上様は一人言のように、譲位の話でなければ御所を囲んでの馬揃えをせねばならぬなと、わしに申された。いまこの時期に手隙で、兵をすぐ動かせるのは惟任さまの軍団以外はおられぬ。そこであらかじめ光秀さまに、馬揃えの手配をお願いしたいと申して欲しいのだ」  次郎左衛門には、よく訳のわからない話であった。 「さすると光秀殿に、京での馬揃えの手配を頼むということでよろしいのか。して、その日はいつになる、馬揃えの数はいかほどか」 「すまん。わしにも、それはわからぬ。しかし、早ければ六月の二日にも」 「なに、明後日ではないか。わかった。これから亀山まで馬を飛ばそう」 「ありがたい。次郎左衛門殿、気をつけてお願い申し上げまする」  森乱は素直に頭を下げた。聡明な若者であった。信長公の意志を的確に事前に掴んで、うまく対応できる稀有な人材であった。  乱の父森|長可《ながよし》は先の武田攻めで功労があり、美濃金山城と信濃の高遠城を領国とする二十万石の大名になっていた。それだけに、森乱の話は次郎左衛門としても聞かざるをえなかった。  次郎左衛門は夜道、愛馬を駆けさせた。昔、高山右近の高槻城から、こうして同じように帰ることを思い出していた。あのときも色々なことがあった。この早駆で何かまた大きなことが起きるような予感を感じながら、馬を急がせていた。  夜はまだ暗かったが、すでに東の方は白んでいた。夜明けは近かった。次郎左衛門は、黒い巨大な亀山城の大手門にたどり着いた。守衛に事の次第を告げると、重い金属音と同時に五間ほどの高さもあろうかと思われる大手門が開かれた。  しばらく控えの間に待たされたが、思ったより早く、光秀が寝巻きに軽く羽織を羽織って顔を出した。 「次郎左衛門、この早朝に何事か」  光秀の顔は、一刻も早く知らせを聞きたいという焦燥感にあふれていた。 「申し訳ござりませぬ。じつは内々、森乱殿より依頼を受けまして、信長公は早ければ明六月二日にも御所での馬揃えを、殿にご下命なされるかもしれぬとのこと。それ故この件を一足早く惟任様にお知らせせよとのことで、馬を飛ばして参りました」  光秀は、次郎左衛門の言葉が信じられなかった。天佑とも言える望外の知らせであった。これで、なに気がねすることなく、我が兵を京に進発させることができると思った。  次郎左衛門は事の次第がわかっておらぬようであったが、本日、本能寺に伺候する宣旨の使が信長公の意図と歴然と反するものであることを光秀は知っていた。それ故また天皇に譲位を迫るべく、強圧的な馬揃えを命令するに違いなかった。明智の兵は、そのための格好な兵力であった。光秀は、即座に次郎左衛門に命を下した。 「明朝、明智の軍勢を京に上洛させる。森乱には、備中攻めの陣揃えをお屋形さまにお見せするためと伝えよ。信長公のお気が変われば、いつでも充分な馬揃えができるとな」  次郎左衛門は自分の言葉足らずの報告にも拘らず、光秀が森乱の懸念を的確に掴んでくれたことに素直に感動した。 「それでは早速、この件を森殿にお伝え申す」 「次郎左衛門、馬も休ませばなるまい。朝粥でも食うてから帰るがよい。すぐに手配させよう」  次郎左衛門は、昔からこの光秀の暖かい配慮が好きであった。武士の荒ごとに向いてはおられぬ方と、改めて感じた。 「そうそう、本能寺の手伝いに、安土からいかほどの人数がきておるのか」  光秀は、京の警備役でもある次郎左衛門に聞いた。 「信長公の供廻りは三百ほどでござるが、茶会には何の役にも立ちませぬ。五、六十人ほどを残して、他は本能寺から追い出しておりまする」 「そなたも大儀でござるな。戦のみならず、茶の用立てもせねばならぬとは」  光秀は明るく笑った。これほどの機会が訪れるとは、夢にも思わなかったからである。次郎左衛門は光秀が気遣ってくれていると思い、平伏して頭を垂れた。  木村次郎左衛門が大手門を出てから光秀は小姓に、主だった武将を大広間に集めるように命じた。板敷きの大広間には、具足姿のまま明智の諸将が左右に一列に並んだ。床の間を背に、光秀は直垂《ひたたれ》姿で座していた。  明智左馬助、四王天政孝、藤田伝五、伊勢貞知、溝尾庄兵衛、明智光忠、阿閉貞征、妻木藤右衛門、御牧三左衛門、斎藤利三、松田政近、並河掃部、諏訪盛直、明智茂朝、津田信春、柴田勝定、明智光重らの面々であった。  光秀はゆっくりと、はっきりとした語調で話を始めた。 「今宵|丑《うし》の刻、京に向けて出発する。上洛されておる信長公の下知で、明智軍の馬揃えを来月の二日、御所でお見せすることになった。名誉なことである。早速、全軍、用意にかかれ」 「殿、中国攻めはいかがなされるのか。長岡、筒井、池田、中川、高山らの配下のいずれも、殿の出陣の下知を待たれておられるが」  四王天政孝が、四角い顔を不満げに問いを発した。 「配下の武将には、予定通り六月四日に神戸に参集せよと伝えよ」  明智の重臣たちは一人として、その言葉を疑う者はいなかった。光秀は、心中を伝えるのはできるだけ決行の直前が望ましいと考えていた。今話せば、織田方に洩れると思った。光秀の頭は、六月二日以降のことは何も考えていなかった。というより、何も考えられなかった。  蒸し暑い夜であった。夜が更けても、いつまでも暑さが引かなかった。秀吉と官兵衛が暗い本陣で床几に座ったまま、ぼそぼそと話をしていた。秀吉の上半身は着物がはだけて半裸のようであった。 「官兵衛、戦もせずに退却などできるか」 「信長公が無事、備中にお見えになれば退却などもってのほかでござりますが、もしお見えにならぬ時には、一刻も早く姫路までお引きになることが肝要かと申し上げておるのです」 「官兵衛、縁起でもないことを、もう言うな」  秀吉は汗くさい左腕に取りついていた蚊を、思いきり右手で叩いた。腕が血で赤く染まった。 「戦はこのように相手を叩きつぶせばよいのじゃ」  秀吉は急に立ち上がり、寝所である次の間に消えた。  官兵衛は秀吉から叱責されようが、自分の勘を信じていた。何かが起きる。外に出ると、高松城の上に下弦の月が光っていた。明日が明ければ、自分の疑念もすべて片がつく。そう思うと少し気が軽くなり、眠気を感じ始めた。今のうちに少しでも寝ておこう、眠れない日が続くかもしれないと思った。  同じように秀吉は、なぜか官兵衛の言葉が気になって寝つけなかった。胸騒ぎがしてならなかった。万一、加勢がこなかったら…。その不安を打ち消すために、急に万全の備えをすることを寝床の中で決めた。  深夜ながら前野|将右衛門《しょうえもん》を呼びつけた。将右衛門は太った身体を眠気から覚ますために、しきりに自分で頬をなぐりながら秀吉の前に現れた。 「将右衛門、そなた、これより三木城へすぐ帰れ。信長公の迎えを頼む」 「殿、姫路には石田佐吉と小西行長がおりますさかえ、問題はないと存ずるが」 「黙れ。若造では、しくじったときに申し訳がたたん。それに将右衛門、ここから逃げる場合もあるんがよ」  藤吉郎にもどって、尾張弁で親しく話かけた。さすがに将右衛門も秀吉の悩みに気づいて、そのまま頭をさげた。 「わかりもうした。殿、いつでもお帰りを風呂を沸かしてお待ち申しております」  気のおける二人は、お互いの顔をみながら笑いあった。   本 心  六月一日の夜が明けた。その日は朝から風が強く、道はいたる所で砂埃が舞っていた。その昼下がり、大納言勧修寺晴豊と中納言甘露寺経元、それに同じく中納言山科言経が朝廷の勅使として、本能寺の信長のもとへ輿車で向かっていた。それは、織田信長に征夷大将軍任官の宣下を伝える勅使であった。三人共、牛車の中でこれから起こるであろう信長とのやりとりを考えて憂鬱《ゆううつ》な顔色であった。  しかし、本能寺で三人を迎えた信長の顔色は意外にも明るかった。晴豊の勅任の言葉を信長は冷静、丁重に聞いていた。そして大納言晴豊の勅語が終わると、笑顔を浮かべながら、 「大納言殿、信長はまだ天下統一もしておらんのに、征夷大将軍などという官位を頂くわけにはいかんぞな。それに織田の出自は平氏、恐れながら辞退させて頂く。御上には一年以上、御無沙汰しておるゆえ、明日は御所まわりで馬揃えをご披露したいと思うている。御上によしなにお伝えくだされ」  信長の言葉は慇懃ではあったが、二度と意志は変わらないという響きがあった。それにつけてもまた馬揃えで御上を恫喝するとは、三人の公家はやはりまた暗くならざるをえなかった。  その気落ちした三人を眺めていた信長は、珍しく急に愛想笑いをしながら、 「それはそうと、今宵は久し振りに京で茶会を催すによって、楽しんでいくがよい。博多から楢柴の名器がくるよってな」  信長の頭は、すでに茶会のことに切り替わっていた。三人は後刻出直すということで、その場を悄然と退席した。  信長は、勅使が帰るやいなや、森乱を呼んだ。そして推測した通り、明智の全軍団を二日の早朝に入洛させるよう命令したのである。征夷大将軍任官拒絶の件と馬揃えの件は、すぐに内裏と公家の中に広まった。  吉田兼和は、本能寺の茶会の前に近衛前久の自宅を訪れた。二人は茶会の時間を気にしながら、最後の打ち合わせに懸命であった。 「兼和、案の定、信長は征夷大将軍の任官を断ってきおった。これはこれでよしとして、明日、御所の前で馬揃えをするとは何事ぞ」 「しかしうわさでは、都合よく光秀殿に馬揃えの役目がまわったそうじゃ。明日は、京の町は桔梗の旗で埋まることじゃろう。今宵、光秀には本能寺と妙覚寺の護衛の数を知らせることになっている。万に一つ抜かりはないはず。明朝には、すべて片がついていよう」  近衛前久はそれでも安心できないようで、落ち着きがなかった。前久にとって、信長はここ十年以上、疫病神であった。  永禄十一年に信長が上洛した時が最初の災厄であった。たまたま当時、関白であった前久は足利義栄将軍と三好三人衆を支持していたということで、即刻、関白の位を罷免された経緯があった。それにこの二月に十五年ぶりに太政大臣として現役復帰したものの、朝廷が信長に関白、征夷大将軍、太政大臣の三職の内、いか様にでも与えるという方針を決めたために、また三ケ月で太政大臣を辞任するはめになっていた。信長の存在は悪縁以外の何物でもなかった。  兼和が前久の貧乏揺すりを見て、 「関白、それでは信長に悟られますぞ。もっと落ち着きなされ」  兼和は相変わらず、前久の前では関白と呼んでいた。吉田家と近衛家とは家礼《かれい》を結んでおり、その関係で二人は主従でもあった。  前久は、関白という言葉で我に帰った。もはや関白ではなかったが、関白の振舞いをすれば落ち着くことができるかと思い直した。 「事がなれば早速、麿が自ら誠仁親王に光秀叙任のお願いに参ろう」  前久は、すべてが成就したかのように急に楽観的になっていた。  一方、兼和の頭は忙しかった。謀反成就の暁には毛利への使いを誰にすればよいか、まだ決めかねていたからである。  茶会の始まる申の刻が近づいていた。空海が創建した東寺の五重塔は、京の町のどこからも見える高さを誇っていた。その五重塔の裏手で、大柄な雲水と町人にしてはいかつい男がなにやら語り合っていた。  雲水は備中から駆け戻った道糞であり、男は平太夫であった。 「殿、お久し振りです。お丈夫そうで安堵しました」 「平太夫、わしはもう道糞という坊主だ。殿ではない。新五郎はいかがしている」 「はい、根来の里で、私と一緒に百姓をしておりまする」 「そうか、父は息災でいると会ったら伝えてくれ」  平太夫は胸が込み上げるのか、目を真っ赤にしてこらえていた。 「平太夫、そちを呼んだのは他でもない。大事な用件を頼みたいからじゃ」 「いかなることでも、喜んで承りますが」  道糞は、傍らの石縁に腰を下ろした。そして他人に怪しまれないように、平太夫に隣に座れと指示をした。 「平太夫、わずかな間に様々なことがあった。有り過ぎと言った方がよいかもしれない。わしが多くの家臣、妻子を失いながらおめおめと生きている訳は、ただ一つ、世の中の真を知りたいが故だ。死ぬことはたやすきことなれど、このまま死んでは冥土で皆の者に話ができぬ。何が良くて、何が悪《あ》しきことかを悟るために、無粋な様をさらしておる」 「よく存じております。誰も、殿を悪しき者とは申しておりませぬ」 「そのようなことは、もう、どうでも良い。平太夫、よく聞くがよい。明朝、この都で何かが起きる。それを見たら即刻、備中の高松にいる羽柴秀吉の家臣の黒田官兵衛のもとに突っ走れ。委細をすべて知らせるのだ。わしが有岡城で間違うて、官兵衛殿に辛い思いをさせてしまった詫びじゃ」  平太夫は元主君の思いを意外に感じたが、官兵衛を幽閉してしまった事情はよく知っていた。 「それがし最近、伊賀者とも懇意にしておりますので、まる三日もあれば備中高松までは参れまする」 「そうか、頼んだぞ」  道糞は平太夫の力強い言葉を聞くと、子供ように喜びを顔に表した。しかし得度したいまでも、舅の明智光秀が毛利との和議を内密に結んだことは許すことができなかった。官兵衛に対する不義理よりも、光秀への怨念という方が気持ちとしては強かった。 「殿、いや道糞さま、京といっても広うございます。どこにおれば、よろしいので」 「本能寺の付近におれ。何が起きるか、すぐにわかるだろう」  道糞はそこまで言うと立ち上がり、いずことも無く立ち去って行った。残された平太夫は早速、伊賀の服部半蔵の所在を探す算段を始めた。  いつものことながら、出陣前はすべての兵士の気は高ぶるものであった。亀山城においても武具、兵糧を小荷駄に積む足軽たちの喧騒に満ちあふれていた。馬がいななき、武将たちの甲冑と草摺の音があたり一面に響いていた。  六月一日の夕刻、光秀は本能寺の信長から明日の御所における馬揃え出動の命令を正式に受けた。遂に待ちに待った千載一遇の好機が到来したことを感じると、自然に身体に鳥肌がたつのを感じた。  光秀は居間に急遽、明智家の重臣達十数名を集めた。相前後して、吉田兼和の使者が本能寺と妙覚寺の供揃えの人数を知らせてきた。木村次郎左衛門の報告と別段変わっていなかった。本能寺で多くて百人、信忠の宿舎妙覚寺は多くて三百人との知らせであった。  兼和は光秀が油断してはいけないと、護衛の人数を多めに知らせていた。光秀はその好意を感じていたが、仮にそのままの人数としても少しも気になる人員ではないと思っていた。  若き信長が桶狭間の戦で敵将今川義元の首を挙げることだけを考えたように、信長、信忠二人の首を挙げれば目的は達することができる。集めた家臣たちによく聞かせておかなければならないと思った。  集まった重臣の多くはこれからの軍旅の話であろうと気楽に構えていたが、明智左馬助、斎藤利三、明智光重、四王天政孝、溝尾庄兵衛らは光秀の顔がいつになく真剣であるのに気がついた。何か重大なことを話されるのかもしれない、と感じた。  光秀の目前には戦勝祈願の勝栗、昆布、打鮑、瓶子が置かれてある。各武将の前にも、素焼きの盃が一つ目立たないように置かれていた。 「今夜半に京に向け出発する。本日、明智惟任日向守光秀は朝廷より内々勅命を賜った。天皇および誠仁親王は織田信長、信忠親子を朝廷に反する逆賊として、この惟任に征伐を命じられた」  明智宿将の全員の顔が驚きの表情に変わった。軽いためいきが聞こえてきた。 「敵は本能寺の織田信長、妙覚寺の織田信忠である。二人の首以外は打ち捨てよ」  しばらくしてから溝尾庄兵衛が立ち上がって、震えるような声で全員に話し始めた。 「これは、めでたきことでござる。本日より殿は天下取りになられる。皆の者、忠勤を励むがよい」  明智左馬助が盃を持って立ち上がった。 「このたびの戦勝を祈願して杯を挙げようぞ。明智家万歳」  左馬助の声は明るく屈託がなかった。長年の織田家の振舞いから、朝廷が追討の勅命を出すのも当然であると、明智の重臣たちはすぐに納得したのである。  光秀は、本能寺攻撃は直前まで他の将兵には一切秘密にせよと厳命した。秘密を打ち明けられた重臣達は、主君の命令を感動の面持で聞いていた。全員、自然と闘志が胸に湧いてくるのを感じていた。  光秀は自室に戻ると、挙兵の大義名分と加勢の依頼状を長岡與一郎と筒井順慶宛てに書き記した。主君である信長公に対して、朝廷に対する不忠を理由に大義の兵を挙げるのは若干気まずい思いではあったが、大事の前の小事と割り切ることにした。それから時間をかけて毛利輝元宛てに、中国十ケ国の所領安堵と秀吉攻撃の依頼書をしたためた。事がなれば、輝元が国許で預かっている前将軍足利義昭を京に再度呼び戻すことも、合わせて付け足した。臣であることを重視する毛利家に、受けの良い文案を配慮したからである。  その後、亀山城と坂本城の留守居役として残らせた溝尾庄兵衛を自室に呼んだ。光秀は三通の密書を庄兵衛に手渡しながら、 「よいか、本能寺に明智の桔梗の旗が立ったら、これらの書き付けの宛先に至急送れ」 と命令した。  これで今夜の手筈がすべて終わったと思うと、一安心であった。光秀は具足に着替える前に、少し仮眠をしておこうと思った。明日は、自分の人生の中で最も長い日になることは確実だったからである。  明智左馬助も出陣前に、自室にいる妻の範子を訪れた。結婚してから、二人は坂本城から亀山城に移っていた。  範子は夫の出陣を控えて、まだ起きていた。 「もうすぐ子の刻と思われますが、まだご出陣ではないのですか」 「いや、まだしばらく間があるので、茶でも飲もうかときてみた。おかしいか」 「いえ、すぐに茶を入れましょう」  範子の笑顔は自然のままだった。左馬助は好かれていると思いながら、愛しい人に真実を告げられない自分に気が重かった。これが今生の別れになるかと思うと、一言別れの言葉をと喉まで出かかって茶を飲み込んだ。茶は暖かく甘かった。  子の刻が近かった。夜半の月は弓張月であった。保津川の川音が急に人馬の音に消された。黒く亀山に聳え立つ城の大手門から二重の濠の橋を渡り、明智軍一万三千が粛々と道を下って進発した。兵は二列縦隊で進んだが、その行進は一里以上の距離になっていた。  光秀は明智左馬助に本能寺攻撃の先鋒を命じ、二千の精鋭を与えた。斎藤利三も先鋒として、左馬助を補助するために副将として第一陣に所属していた。  第二陣三千は明智光忠が率い、妙覚寺の織田信忠を攻撃することになっていた。副将は四王天政孝が務めた。光秀は残りの八千の兵を後詰として、攻撃軍の周囲に包囲させる予定であった。  光秀は第三陣の中段に位置して、愛馬二郎を歩ませていた。馬上から背後に見える亀山城の五層の黒い天守閣に別れを告げた。五年前に時の城主内藤一族を降伏させたことが、昨日のように思い出された。愛着のある城であったが、なぜか勝っても負けてもこの城には二度と戻らないような気がした。  隊列の長い松明の流れを見ながら、殿はまさかこのような形で光秀が裏切るとは夢にも思われぬであろう。そう思うと切ない気持ちと、それを打ち消す気持ちが交錯した。  いつしか老《おい》ノ坂を越し、街道の分岐点である沓掛に差し掛かった。右は山崎を通じて津の国街道へ、左は京への道である。  先発の左馬助と光忠は沓掛で小休止をとり、夜食を兵に取らせるために進撃を一時中止していた。沓掛から桂川を渡れば京は間近である。もう二里と距離は残っていなかった。攻撃軍は下桂《しもかつら》の渡河地点で鉄砲隊に火縄の点火を命じ、馬と足軽のわらじを履き替えさせた。そして手持ちの握り飯を食わさせた。  すべての将兵がすでに戦闘態勢をしいていた。光秀は袰武者を通じて、戦闘命令を各軍団に伝えさせた。いつもの戦の時と動作は少しも変わりはなかった。しかし騎馬で通り過ぎて行く伝令の袰武者の言葉を聞いて、多くの兵士がわが耳を疑った。 「勅命により本能寺の逆賊を討つ。敵首は打ち捨てよ」  しかしながら、下克上に慣れた戦国の将兵たちは馬揃えが戦に変わることもすぐに納得した。  夏の日が白々と、京の方角から明け始めていた。左馬助のかぶる大水牛の兜の角が大きく揺れて、「進め」という大音声とともに、明智の全軍が桂川の渡しを我先にと渡り始めた。賽《さい》は投げられたのである。  服部半蔵は平太夫の使い者のから今宵、本能寺で何かが起きるとの知らせを受けて、堺から急いで京に駆け戻ってきた所であった。あらかじめ待ち合わせた、本能寺にほど近い賀茂川沿いの茅屋《ぼうおく》の土間で待つ平太夫に近づいた。  平太夫は急に間近に現れた黒装束の姿を見て、ギクッと驚いた。 「半蔵か、驚かすな」 「おぬしの危急の話ということで、堺から駆けつけた。どうしたのだ」  半蔵は堺からの十里の道を駆け抜けた疲れも見せずに、相変わらず冷静であった。 「それがな、わが主君荒木村重殿と今日の午後お会いした所、本能寺で何かが起きるとおっしゃてな。それが起きたら備中高松におる秀吉の家臣の黒田官兵衛という者に伝えることになっておるのだが、正直いまのところ何も起きているように見えんし、それに殿には三日で備中まで行くと強がりを言ってしもうてな。どうすれば良いのかわしにはわからなくなって、急に呼び出してしまった訳じゃ」  半蔵は、深刻な顔をして話を聞いていた。本能寺と聞いて、瞬間的に伊賀者以外が信長の命を狙っていると感じたからである。時刻はすでに子の刻を回っている。この深夜、誰が警戒厳重な本能寺を襲うのだ。伊賀者でも甲賀者でもないとすれば、誰なのだ。半蔵にしても皆目、見当がつかなかった。  半蔵は近くの手下に命じた。 「よいか、本能寺から五里以内にいる集団を探せ。夜盗、盗賊誰でもよい。十名以上の集りがいたら知らせよ」  手下達はすぐさま、その場から消え去った。 「平太夫、あと半刻もすれば誰が本能寺を襲うとしているのかわかるだろう」 「して、どうするのだ」 「言わずとしれたこと。信長を討とうと思っている者がいれば、それに味方するだけ。しくじってもらっては困るからな。そなたの主君も信長には、ひどい目にあわされているではないか」 「この平太夫も一肌脱ぎたい、一緒に連れていってくれ」 「ならん。そなたは事のつぶさをすべて、その黒田官兵衛とやらに知らせるのが、お主の役目ではなかったのか。道中、伊賀者に先導させるので心配はいらん」  半蔵はそう言うと、仮のねぐらを本陣代わりに次々と現れてくる黒装束の男たちに指示を与え始めた。  疲れた平太夫がうつらうつらした時、急に揺り起こされた。 「平太夫、起きろ。わかったぞ。相手は何と光秀の兵だ。すでに桂川を渡って京に向かっている。われらが手出しをせずとも、勝負はすでについたようなものじゃ。即刻、備中に発て」 「しかし、信長がまだ殺された訳でもあるまいに」 「光秀にかぎって、そのようなへまはせん。これで間違いなく、明日の昼までには信長と信忠は殺されておろう。戦がまもなく始まる。ここにいては、町から出られなくなるぞ」  平太夫も、明智軍の優秀さはよく知っていた。ここに長くいては、脱出するのに難儀になる。 「賀茂川を渡って粟田口《あわたぐち》の土居から東に逃げろ、西は明智の兵に捕まるぞ」  平太夫は半蔵に礼を言うと、暗い京の街に飛び出した。次の天下は光秀になるのか、まだ思いがつかなかった。そして多くの部将の運命を自分が左右するとは、露ほども考えていなかった。  供の伊賀者も備中に向けて、戦の始まろうとする京から抜け出ていった。   人生五十年  信長は、今宵の茶会に満足であった。島井宗室が、楢柴の茶入れを無理を言わずに譲ることを納得してくれたからだ。宗室にはおかしなことだが、毛利攻めの武器、弾薬でも仕入れることで借りを返そうと思った。  茶会の後、信長は信忠と会合を持った。そして、明日の御所での馬揃えの指揮を命じた。同じく大坂に待機している信孝の四国派遣軍には、明二日に阿波に向けて出航するように命じた。そして中国には六月四日に自ら出立するので、信忠には近畿の軍団を連れて先発せよと命じていた。  武田攻め以降、軍事的命令はすべて信忠経由で発令するように変えていた。信忠は素直に父の命令を聞くと、自分の宿舎である妙覚寺に夜半前に戻っていった。  二人とも明智光秀の軍勢が近づきつつあり、明早朝には京に入ることを知っていたが、その軍勢がまさか自分たちを襲撃する軍勢であるとは、夢にも思わず安心して就寝した。  信長は障子を通して外が明るくなったことを知り、厠《かわや》へ行こうとして体を起こした。その時、何か喧嘩なような罵声と、鉄砲の音のようなものが聞こえてきた。瞬間、訳のわからない不安を感じた。 「乱、何事ぞ」  信長の声で、森乱が寝室に飛び込んできた。慌てて帯を締めたらしく、普段の落ち着いた姿とは一変した出立ちであった。 「殿、一大事でござる。日向守の謀反かと」  信長は上蒲団を蹴って起き上がり、襖戸を一気に開けるなり縁台に飛び出した。本能寺の土塀ごしに、大小の水色の旗差物が乱舞していた。それは、よく見覚えのある明智の桔梗の紋所であった。間違いなく光秀の軍勢が本能寺を取り囲み、自分を襲っていた。  小姓や供侍が懸命に、早くも本能寺に侵入した明智の軍勢と斬り合っているのが、広縁から眺められた。しかし多勢に無勢は如何ともなしがたく、織田の護衛の兵たちは明智の軍勢の中に次第に消えていっていた。  信長は独り言のように、 「是非に及ばずか」  もはやこれまでと覚悟を決めて、静かに奥の御殿の杉戸をあけて中に消えた。その時、森乱が薙刀を片手に寝所に駆け戻ってきた。 「殿、早く抜け道にお逃げくだされ」  森乱は、寝所の床の間の床板を薙刀の柄で強く叩いた。すると床板がくるりと回転し、暗い階段が床下から地下の部屋へと続いていた。森乱は信長の手を引いて、あせってその階段を降りた。  しばらく床下の暗闇に戸惑っていた信長は、前方にまばゆい一条の蝋燭の灯を見た。黒一色の装束に身を固めた数人の男達の声が静かに聞こえた。 「信長か。われらは伊賀の住人、百地丹波。お覚悟なされよ」  落ち着いた丹波の声に驚く間もなく、森乱は狭い間口に薙刀を振れずに信長の前で崩れ落ちていた。そして次の瞬間、するどく信長の白衣の左胸に槍が突き刺さった。腰の脇差を抜く間もなく、信長もまた暗い地面にあお向けに倒れた。  しばらくすると大きな爆発音とともに本能寺の主殿の四方から赤い炎が立ち上がり、黒煙とともに伽藍はあっというまに火炎に包まれた。  本能寺の塀の外から本殿の立ち上がる火炎を見た光秀は、しまったと舌を噛んだ。本能寺は京における織田軍の弾丸、火薬の貯蔵庫でもあったからである。すぐさま、袰武者たちに伝令を発した。 「火がまわる前に必ず信長を探し出し、討ち果たせと今一度、各隊の武将にしらせよ」  光秀の不安は的中した。しかし弾薬が次々と誘爆し、もはや誰も近づくことはできなくなっていた。比叡山の焼き打ちを命じた主人がその火付け役の光秀によってまた焼かれる、地獄図の再現でもあった。信長の体は、業火《ごうか》で滅却されたように骨一つ残さずに消滅した。多くの罪なき衆生の怨念の炎《ほむら》が、その体を焼き尽くしたかのようであった。  本能寺襲撃を知って集まった多くの野次馬と共に、道糞はその黒煙を感慨深く見つめていた。諸行無常という言葉ほど、いまの場面にふさわしい言葉はなかった。昨日の豪華な茶会に出されたであろう信長愛着の三十八種の茶器も、また土に戻ったに違いなかった。道糞は、自然と本能寺に向かって手を合わせた。  その晩、京奉行の木村次郎左衛門は家に帰らず、織田信忠と同じ妙覚寺に泊まっていた。突然、供廻りの源蔵が次郎左衛門の寝ている座敷に飛び込んできた。 「殿、一大事でござる。本能寺が焼けております」  寝ぼけ眼の次郎左衛門は、源蔵の話している意味がわからなかった。 「殿、なにやら信長さまが明智の軍勢に攻められておるんや」 「なに、光秀殿に」  次郎左衛門は枕元の刀を腰に差し、槍を手にすると信忠公の寝所に走った。  その頃、妙覚寺の信忠も異様な爆発音に気がついていた。小姓から、本能寺が光秀に襲われていることと、明智勢がこの寺を包囲しつつあることを聞いた。しかし瞬間的に、妙覚寺ではとても守りきれないと感じた。そこに次郎左衛門が、寝巻き姿のまま飛び込んできた。 「信忠殿、妙覚寺ではとても守りきれませぬ。隣の二条の御所に早くお移りくだされ」  次郎左衛門の言うように、二条の御所は一応、城郭の形を取っており、濠、石垣もあり四方に堅固な門もあった。 「よし、あいわかった。家臣に、二条御所にすべて移れと伝えよ。次郎左衛門、案内せ」  次郎左衛門は誠仁親王の二条御所の普請奉行でもあり、その内部に精通していた。  信忠を中心に数百名の旗本が二条御所を目指して、二町ほどの距離を必死になって駆けた。後列では、すでに追いついた明智の軍勢が信忠の家臣に切りかかっていた。  運よくたどり着いた二条御所の南門の通用門は開いていた。間に合った信忠の将兵は全員、二条御所に入ることができた。南門の閂《かんぬき》をはめるやいなや、明智の軍勢が門を取り巻いた。間一髪のことであった。  光秀は本能寺の激しい火炎を見ながら、信長を打ち取れたかどうかを気にしていた。しかし心の中では間違いなく、信長はこの火の中で腹を斬っていると確信していた。光秀は左馬助に信長の遺体を探せと指示するや、妙覚寺に馬を走らせた。信忠の動向が急に気になり始めたからである。  途中で信忠一行が二条御所に駆け込んだことを、副将の四王天から聞かされた。光秀はまずいと感じながら、馬を二条御所に向かって急がせた。御所には、誰よりも大事な誠仁親王がおられるからであった。親王を戦に巻き込むわけにはいかなかった。  光秀が到着すると、明智光忠率いる精鋭三千が静かに二条御所を二重三重に取り囲んで、攻撃命令を待っていた。その日、光秀は白地に日の丸の兜をかぶっており、誰しもが総大将であると見分けることができた。星兜をつけた光忠が馬を寄せてきた。 「光忠、二条御所には誠仁親王がおいでになられる。すぐに京都御所にお移しすると、信忠に伝えてこい。親王に矢玉は向けられない」 「あいわかっております」  光忠は丹波の八上城の人質救出に見せたように剛胆な性格で、戦場での駆け引きが得意であった。一人、大手門の前に出向くと、大声で口上を述べた。 「織田信忠に申しあげる。私憤における戦において、誠仁親王にご危害与えるは不忠なり。速やかに親王とご一統を京都御所までお移しするのが武士道と存じ奉る。われらは攻撃は控える故、早く親王を移されよ」  しばらくして大手門が開かれ、輿にかつがれた誠仁親王と妃の阿茶々の局、皇子の若宮、二宮、五宮と姫宮につき従う女房衆、侍従たちが素足のままで恐る恐る現れた。殺気あふれた軍勢の目の前を通り過ぎる女房たちの目には、いままで一度も感じたことのない恐怖が映っていた。その夜、当直で御所に泊まり込んでいた公家の権大納言飛鳥井雅教、庭田重保、柳原淳光、権中納言高倉永相ら十名ほどが続いて現れた。  その時、親王の輿に近づいた一人の法師姿の人物があった。それは連歌師の里村紹巴であった。 「恐れながら、惟任光秀さまのお側衆、里村紹巴と申す者。親王さまには何の御懸念もなきようにと、惟任さまよりのお伝えでござります」  紹巴は京の自宅で異変を知った。取るも取り敢えず本能寺に駆けつけ、一部始終を眼に焼きつけたのである。そして一足早く、持ち前の機転で二条城に先回りしていた。その場で光秀に代わって、誠仁親王への弁明に努めたのである。  光忠は親王の輿と一団を京都御所に先導するため、先頭でゆっくりと馬を進めていった。その中に一人の背の高い僧侶が、幼い幼児をしっかりと腕に抱いて立ち去ろうとしていた。その幼児は、三歳になる信忠の嫡子|三法師丸《さんほうしまる》であった。  その僧侶の顔を光秀は見知っていた。以前、信忠に推薦して、三法師丸のお守り役にした前田玄以であったからである。光秀は三法師丸を見逃すことで、主殺しの罪滅ぼしをしようとしていた。明智の武将たちも、黙って一団を見送っていた。  親王の隊列が大手門を出終わるやいなや、片隅から潜んでいた武士の一団が門内に駆け込んでいった。数は数十人と思われたが、その中には間違いなく京奉行村井貞勝の姿が見えたように思えた。村井貞勝の屋敷は二条御所の隣にあった。  光秀は、馬廻りに「捨て置け」と命じた。  大手門がすぐにまた閉められた。法螺貝が吹かれ、押太鼓が打たれた。明智軍は、二条御所の門に向かって大喊声を挙げて殺到した。  木村次郎左衛門は、飛び込んできた上司の村井貞勝と御所内で再び会った。二人とも無言で目を見つめ合った。次郎左衛門は、戦でなければ貞勝にすがりついて、なぜだと号泣したい感じであった。亀山城で光秀と話したときにはすでに謀反を決めていたのかと思うと、裏切られたという強い思いは消えなかった。次郎左衛門は、光秀が好きだった。あの細やかな感性は、戦国武士にない爽やかさであった。わずか一日前に、馬揃えを光秀に知らせるために徹夜で走った思いはなんだったのか。  次郎左衛門は、自分の人の好さを恥じた。それでも光秀が一言、自分だけには話をしておいてくれたらと思った。しかし、すべてが今となっては愚痴であった。自分の仕える主君は信長公であり、信忠であった。この自分が造った二条御所で命の限り奮戦するのも武士として悪くはない、と思った。そう覚悟すると後はただ、明智の将兵を一人でも多く殺すことしか考えなかった。 「村井殿、長い間のご厚誼を感謝申しあげる。あの世でまたお会いしよう」 「うむ、達者でな。それがしは信忠公を最期まで見届ける。さらばじゃ」  二人は、それから二度と見交えることはなかった。  次郎左衛門は大刀を腰に差すと、愛用の一間五尺の槍を右手に囲い込み、前方に見える明智の軍勢に向かって走った。明智の足軽四、五名が向かって来た。次郎左衛門は腰を入れると、素早く槍を一回転させ、石突《いしづき》で足軽の胸板を正確に突いた。武術のない一足軽に、鋭い突きを避ける技はなかった。  そのままどっと後にあおむけに倒れた足軽の胸を素早く足下に踏みつけると、槍の穂で喉を突き刺した。足軽は声もたてずに、喉から血を吹き出して絶命した。  ひるんで動きが止まっていた隣の足軽の膝下に、次郎左衛門は槍で足払いをかけた。足を取られて地面に転がった。すぐに、その足軽の背を具足の上から突いた。槍の穂は深々と突き刺さったが、逆に穂が抜けなくなってしまっていた。  次郎左衛門がまずいと思った瞬間、後横腹に熱い焼け火箸を感じた。槍を手離すと腰の大刀を抜いて、横腹に刺さった敵の槍の柄をきれいに断ち割った。返す刀で、相手の明智の侍に斬りつけた。しかし、相手の甲冑は次郎左衛門の刃を受けつけなかった。 「明智家家臣山崎小七郎|長徳《ながのり》お相手申す。名を名乗れよ」  相手武将は戦闘経験豊富のようで、喋りながら次郎左衛門の攻撃を物ともせず刀を打ち返してきた。次郎左衛門は、相手の刀を必死に合わせて止めた。  しかし、その時また背後に熱い衝撃を感じた。そのまま脳裏に熱い光りが走り、身体の自由が効かなくなった。ゆっくりと天地が回転して、暗い穴に向かって落ちていった。  二条御所の隣屋敷は、ちょうど近衛前久の御殿であった。前久と兼和はなぜか、この屋敷で戦況を待っていたのである。二人共、この世と思われぬ音声と銃声に身をすくめていた。  もし明智軍が信長と信忠を取り逃がしたら、この身はどうなるのかという恐怖感に二人共捕らわれて動けないでいた。その時頭上の屋根瓦を多くの人間が傍若無人に歩いていく音が聞こえた。前久と兼和はまた急に不安に捕らわれた。それは明智の兵が近衛家の屋根越しに、二条御所に鉄砲を撃ちかけるために登ったものであった。  年老いた侍従が、二人の部屋におびえ声で入ってきた。 「御所に火が」 「なに、こちらにくるのか」 「それはわかりませぬ」  前久にとって、戦はもうどうでもよかった。早くこの不安な状況からどうして逃げれるかだけを考えていた。 「兼和、まろはどこに逃げたらよい」 「それはやはり、御上のおられる御所しかありませぬが」 「そや、そや。はよいこう」  前久は兼和の手を取って歩き始めた。  一刻ほどの激しい戦闘の後、辰の刻には二条御所内の織田家臣の姿はほとんど見られなくなっていた。織田信忠は、このまま明智の雑兵に討ちとられたくなかった。死を間近にして、自分が何一つ光秀という人物を知らないことに気づいた。いままで、常に父信長の背中しか見ていなかった。なぜ、織田家の重役である光秀を一度でも見つめてみなかったのか。  信忠には光秀の謀反を怒るより、なぜ謀反が起きたのかもわからなかった。それが最後の悔いになっていた。死んだ後、床板を剥し自分の身体を隠すように供侍の鎌田新助に命じた。そして小刀を抜くと父の後を追う不忠を詫びると、もはやこれまでと潔く腹を斬った。  新介は泣く泣く介錯をし、信忠の首を討ち落した。織田中将信忠、享年わずか二十六歳であった。信忠の家臣もことごとく討ち死に、または自害して果てた。  斬死にした中には、武田家から戻ったばかりの信長公の五男織田勝長、京都所司代の村井貞勝、木村次郎左衛門、そして桶狭間で今川義元を討ち取った功臣毛利新介ら織田家の勇士五十人以上が含まれていた。  二条御所もまた奇妙なことに強烈な火炎につつまれ、あっというまに灰燼《かいじん》に帰した。その火炎は本能寺の信長と同じように、信忠の骨さえもまた残さなかった。  <続> 著者について  茶屋二郎(ちゃや じろう)  昭和二〇年金沢市生まれ。  自動書記作家を自認し、歴史的事実を思いのまま記述し再現する能力を創作のバネとして活用している。 実業の世界では、株式会社バンダイ名誉会長、社団法人日本玩具協会会長、デジタルメディア協会理事長など数々の仕事をもつ。  主な著書  『目覚めた人』(扶桑社)  『異言の秘密』(扶桑社)  『日本書紀は独立宣言書だった』(角川書店) 遠く永い夢 上巻 二〇〇〇年七月二十五日発行